まだ老け込むのは早い! 三国志の老将に見習おう!
■ まだ老け込むのは早い! 三国志の老将に見習おう!
まだ老け込むのは早い! 三国志の老将に見習おう!
日本では60歳~65歳で定年を迎え、会社からはお役御免と言われてしまいます。「老後」という言葉もあるように、老いては仕事もせずに悠々自適な生活を送ることが是とされていますよね。でも、人間の寿命が100歳に近づいている時代において、65歳で何もしないというのは早すぎると思いませんか?
「身体の無理も利かなくなったし、物忘れも激しくなった。もう年だ」と諦めてしまっていませんか。中国には古くから「老いては益益壮(さか)んなるべし」という言葉があります。後漢書の言葉ですが、年は取っても気持ちは常に若く持っていて、ますます意気軒昂でなければならないという意味です。三国時代にも、こうした「おじいさん」になっても若者をモノともせずに獅子奮迅の活躍をした老将たちが描かれています。
ここでは、そんな「熟年の星」とも言うべき老将たちについて、その人物像や活躍などを紹介します。彼らに見習って「まだまだ若いものには負けん!」という気概を持ってもらえれば嬉しいです。
黄忠(漢升):「老いては益益壮んなるべし」を体現した五虎大将軍の一角
■ 黄忠(漢升):「老いては益益壮んなるべし」を体現した五虎大将軍の一角
黄忠(漢升):「老いては益益壮んなるべし」を体現した五虎大将軍の一角
もともと劉表(景升)に仕え、長沙の守将だった黄忠(漢升)。曹操(孟徳)が荊州を降伏させてその手に収めた際、特に麾下に加わるわけでもなく、そのまま長沙太守・韓玄(字は不明)の配下として引き続き守将として腕を奮っていました。
赤壁の戦い後、劉備(玄徳)が南荊州4郡を平定する際、長沙を攻めたのが関羽(雲長)でした。迎え撃った守将の黄忠(漢升)は一騎打ちを申し出、関羽(雲長)と互角に渡り合うのです。ところが、黄忠(漢升)の騎馬が脚を折り転倒してしまいます。一巻の終わりと思われましたが、関羽(雲長)は「騎馬を乗り替えて、改めて対戦しよう」と黄忠(漢升)を討ち取ることはしませんでした。
陣に戻った黄忠(漢升)に、太守の韓玄は「なぜ得意の矢で勝負しない? 次は弓で関羽(雲長)を討ち取ってこい」と命令します。しかし黄忠(漢升)は正々堂々と漢の勝負として落馬した自分を討ち取らなかった関羽(雲長)を飛び道具の弓矢で勝負するのは嫌だったのでしょう。いざ対戦の場に臨むと、関羽(雲長)に向けて弓の弦を何度か弾いて矢を射るフリをしました。関羽(雲長)から受けた借りを返したということだったのでしょう。しかし、これを見ていた韓玄は、黄忠(漢升)が関羽(雲長)と内通しているのではないかと疑い、処刑するように命じます。これを助けようと、魏延(文長)が民衆を扇動して反乱を起こし、ついに韓玄を殺してしまうといった事件となりました。これにより長沙は平定され、黄忠(漢升)と魏延(文長)が劉備(玄徳)配下となりました。
その後の黄忠(漢升)の活躍はめざましく、益州の劉璋(季玉)攻略の際は常に先陣を切って果敢に戦い、益州平定の立役者となりました。この功績を讃え、劉備(玄徳)は後に漢中王となった際に黄忠(漢升)を後将軍に任命。関羽(雲長)、張飛(翼徳)、趙雲(子龍)、馬超(孟起)とともに蜀の「五虎大将軍」の一角として重用されることになります。
五虎大将軍のひとりとして名前を連ねることになるきっかけの一戦に「漢中攻略」があります。曹操(孟徳)軍の猛将・夏侯淵(妙才)と副将の張郃(儁乂)と定軍山という場所で対峙し、黄忠(漢升)は同じく老将の厳顔(字は不明)を副将に奮戦。ついに夏侯淵(妙才)を討ち取るという大功を立てるのです。
厳顔:名前どおり厳しく忠実な老将
■ 厳顔:名前どおり厳しく忠実な老将
厳顔:名前どおり厳しく忠実な老将
さて、黄忠(漢升)の話となると、必ずコンビとして名前が挙がるのが厳顔です。もともとは劉璋(季玉)配下の武将で、劉備(玄徳)の益州平定のときに配下に加わることになるのですが、これも一筋縄では生きませんでした。
巴郡太守として籠城していた厳顔を張飛(翼徳)が攻め、ついに捕らえることに成功しました。捕虜となった厳顔が直立不動で相対していることに腹を立てた張飛(翼徳)は、捕らえられたのだから跪けと恫喝します。しかし厳顔は「お前らは無礼だ。人の国に侵攻しておいて、跪けとは何事だ。我が益州は首を刎ねられる将はいても、降伏する将はいない。さっさと首を刎ねよ」と堂々と言いました。これに激怒した張飛(翼徳)ですが、「首を刎ねるのに、なぜ怒るのだ」と言った厳顔に対して、その忠義に涙を流すほど感銘を受けたそうです。そして厳顔の縄を解き「もう降伏せよとは言わない。俺の客将となってくれ」と言い、これには厳顔も感激をして劉備(玄徳)麾下となったのです。
その後、漢中攻略の際に黄忠(漢升)から指名を受け、副将としてコンビで活躍します。ふたりは敵と相対するたびに先陣を買って出ます。しかし、味方からも「老人ふたりが何するものぞ。無理をするんじゃない」と笑って諌める場面も。これに対し、老将ふたりは「何を! 若者にはまだまだ負けんぞ」と奮戦したそうです。ただ、これはおじいさんたちの気力を出させるためには、少し怒らせるぐらいがちょうどいいという諸葛亮(孔明)の深謀遠慮があったと言われています。
黄蓋(公覆):まさに“老体に鞭打って”自軍を勝利に導いた
■ 黄蓋(公覆):まさに“老体に鞭打って”自軍を勝利に導いた
黄蓋(公覆):まさに“老体に鞭打って”自軍を勝利に導いた
三国志の代表的な老将として名前が挙がるのは、呉の重臣・黄蓋(公覆)でしょう。孫堅(文台)時代からの宿将で、呉の君主三代にわたって仕えた忠臣でした。威風堂々として威厳があり、しかも部下の兵たちにも優しく人望の厚い武将だったそうです。
この黄蓋(公覆)に関しては、三国志で登場するのは主に赤壁の戦いでの「苦肉の策」に関するエピソードです。曹操(孟徳)の大軍を前に、手をこまねいていた周瑜(公瑾)都督に「火攻め」の献策をしたのが黄蓋(公覆)と言われています。もちろん周瑜(公瑾)も火攻めを考えていましたが、その策を実行するためには偽りの寝返りを行える武将が必要だったのです。その人材として、黄蓋(公覆)がうってつけだったため、周瑜(公瑾)はいたく喜びました。そして黄蓋(公覆)に、苦肉の策を受けるよう命じたのです。
膠着状態だった赤壁の戦いでは、それぞれに陣営にスパイが派遣されていました。曹操(孟徳)軍からは、蔡仲・蔡和という武将が孫権(仲謀)軍に紛れ込んでいました。これを察知した周瑜(公瑾)は、黄蓋(公覆)を使って彼らを騙し、偽りの投稿に信憑性を持たせようとしたのです。周瑜(公瑾)の策に反対させ、これに激怒したフリをして黄蓋(公覆)に罰として棒で100回背中を打たせたのです。そして、この苦肉の策を看破し、同調した同僚の闞沢(徳潤)に書簡を持たせ、曹操(孟徳)軍へ寝返ることを告げたのです。周瑜(公瑾)と黄蓋(公覆)の不仲を見ていた蔡仲・蔡和の報告により、曹操(孟徳)はすっかり信じてしまいました。もちろん、戦況を動かすために黄蓋(公覆)の寝返りが本当であってほしいという希望的観測もあったに違いありません。
寝返る期日が明記されていなかったため、従軍していた曹丕(子桓)は偽りの投降だと見抜いていたようです。しかし、底意地の悪い曹丕(子桓)は特に止めもせず、黄蓋(公覆)の火計を「やっぱりね」と見ていたようですね。
この乱戦によって曹操(孟徳)軍は完膚なきまでに殲滅され、ほうほうの体で魏へと逃げ帰るわけですが、この乱戦で黄蓋(公覆)は流れ矢を受けてしまいます。重傷の黄蓋(公覆)は混乱の中、川に落ちてしまいますが旧友の韓当(義公)に救われて九死に一生を得ます。この功績によって、黄蓋(公覆)は孫権(仲謀)から武鋒中郎将に任命され、大きな出世をすることになりました。
まとめ
■ まとめ
まとめ
年を取ると、どうしても行動力が衰え、何かを実行する決断力が鈍くなります。しかし、三国志に登場する“おじいさん武将”たちは、あるときは怒りを力に、またあるときは忠義心を持って大きな仕事を成し遂げました。私たちも、そんな彼らの「老いて益益壮なる」気持ちから学ぶところは大きいでしょう。