赤壁その後 南郡の攻防 昨日の友は今日の敵

赤壁その後 南郡の攻防 昨日の友は今日の敵

一般的には「昨日の敵は今日の友」ですが、三国志では「昨日の友は今日の敵」という場面もよく出て来ます。呂布(奉先)や袁術(公路)を倒した頃、劉備(玄徳)と曹操(孟徳)は味方同士でしたが、赤壁の戦いにおいてはもはや「敵」。そして、赤壁の戦いに勝利した呉、劉備連合軍も南郡の攻防において徐々に亀裂が生じて来ます。


南郡攻防戦 国の経済事情と連合軍の亀裂

南郡攻防戦 国の経済事情と連合軍の亀裂

南郡攻防戦 国の経済事情と連合軍の亀裂

赤壁で大敗北を喫した曹操(孟徳)、命からがら北方へ逃走しますが、時を経ず呉軍の大追撃が始まります。荊州南郡攻防戦の始まりです。

この南郡攻防戦は「曹操(孟徳)を撃退して勢いに乗った連合軍が曹操(孟徳)を追い詰めるための追撃戦」である側面に加え「大人の事情」が大いに絡む戦いです。第一の事情は「経済」、第二の事情は「領土争い」です。「曹操(孟徳)に攻め込まれた呉国、赤壁において曹操(孟徳)を払いのけて国を守った」で、事はめでたく完結します。しかし、上記の事情が「完結」を許しませんでした。呉国は荊州南郡に進行せざるを得なかったのです。

侵略を阻止しただけ 呉国には何も残らなかった

侵略を阻止しただけ 呉国には何も残らなかった

侵略を阻止しただけ 呉国には何も残らなかった

曹操(孟徳)の侵略を見事に阻止した呉国でしたが、曹操(孟徳)を討つことはできず、後に残ったのは火計で焼き払った船の残骸と曹操軍の死体の山。国を守り名誉を勝ち取ったのに、戦費に見合った戦利品は何もない。1,000年後にも語り継がれる大戦に勝利したのにお金がない(笑)。赤壁の戦いにおいては呉軍も大きな損害を被ったのは間違いありませんでした。

加えて、曹操(孟徳)の力が弱まった荊州を劉備(玄徳)が黙って見ている訳がありません。呉が侵攻しなければ劉備(玄徳)が荊州攻略に乗り出すことは火を見るより明らか。長江を渡り荊州を支配することは、孫堅(文台)の時代からの呉国の悲願でもあり劉備(玄徳)に後れを取る訳には行きません。

いくつもの事情が重なり、呉国は南郡に侵攻しました。当然ながら赤壁において「友軍」であった劉備軍とは確執が生まれ、やがて敵同士になってしまいます。あまりにも早い、あまりにもはっきりした「連合軍の分裂」は三国志の中でちょっと残念な一面です。

呉軍、南城を攻撃 迎え撃つは曹仁(子孝)

呉軍、南城を攻撃 迎え撃つは曹仁(子孝)

呉軍、南城を攻撃 迎え撃つは曹仁(子孝)

周瑜(公瑾)は約6,000人の兵力で南城攻撃を開始します。劣勢の曹操軍、指揮系統も混乱しています。血気にはやった猛将牛金が僅か300人程度で呉軍に挑みます。当然、呉軍に取り囲まれ、窮地に立たされます。これを見た曹仁(子孝)、圧倒的不利な状況を顧みず僅か数十騎の兵で呉軍に突入し、見事に牛金を救い出します。しかも、牛金を救い出した後、取り残されている兵がいることを知ると再び呉軍の真っただ中に戻ったと言われています。

この時の曹仁の勇敢さを「将軍は真に天人也」と称賛し曹操軍の将校は心服。曹操(孟徳)も曹仁の功績を高く評価しました。

こんな勇者の守る南城、呉軍は手こずります。

夷陵城の攻防 裏目に出る曹洪(子廉)の奇策

夷陵城の攻防 裏目に出る曹洪(子廉)の奇策

夷陵城の攻防 裏目に出る曹洪(子廉)の奇策

南城攻略に手こずる呉軍。まだ曹操軍の守備が整っていない夷陵城に矛先を移します。周瑜(公瑾)は甘寧(興覇)を侵攻させます。夷陵城を守るは曹洪(子廉)。従兄が曹操(孟徳)にあたります。守備が整っていない夷陵城、呉軍が到着すれば陥落は必至。曹洪(子廉)は計略を用いて呉軍を迎え撃ちます。

曹洪(子廉)が用いた計略は「城を空ける」というものでした。


…奇策ですねぇ。


「空城の計」は劉備(玄徳)が新野城を曹操軍に攻め込まれた時に諸葛亮(孔明)が用いた策です。後年、漢中攻防戦において攻め込んできた司馬懿(仲達)にも用いています。

曹洪(子廉)は侵攻してきた甘寧(興覇)の軍にあえて夷陵城を占領させ、外から曹操軍で取り囲み、甘寧(興覇)を「城の中に閉じ込めてしまう」という作戦を立てました。曹洪(子廉)の考え通り、甘寧(興覇)は簡単に夷陵城を攻略。その周りを曹操軍が取り囲みます。

しかしこの作戦には盲点がありました。呉軍の援軍が来れば、城を取り囲んでいる曹操軍が挟み撃ちとなり、優劣の状況が一変するということです。案の定、周瑜(公瑾)率いる援軍が夷陵城に到着するや否や曹操軍を挟撃、夷陵城は完全に呉軍が制圧します。

夷陵城を攻略して意気上がる呉軍。周瑜(公瑾)は南城に戻り、いよいよ南城攻略の準備は万全。曹仁(子孝)は孤立を深めて行きます。

南郡を攻略されるも ただでは引き下がらない曹操(孟徳)の秘計

南郡を攻略されるも ただでは引き下がらない曹操(孟徳)の秘計

南郡を攻略されるも ただでは引き下がらない曹操(孟徳)の秘計

意気消沈する南城。呉軍に取り囲まれ落城は必至の情勢。総攻撃の時期を伺っている呉軍の兵士があることに気付きます。南城の兵士達が腰に兵糧袋を付けているのです。「兵士が腰に兵糧袋」は「撤退の準備」を表すのです。「南城兵士は逃げ出す準備をしている」「もはや戦意喪失は明らか」。

呉軍は機を逸せず総攻撃を開始します。

もはや戦意のない曹操軍。城門は簡単に開かれ、呉軍兵士たちが南城になだれ込みます。「万事休す」の局面となりましたが、周瑜(公瑾)を含む最前線の将兵に異変が起こります。

落とし穴…

日の出の勢いで突撃して来た呉軍兵士たちが次々と落とし穴に落ちて行きます。そして城壁の上から弓矢の雨。たちまち窮地に立たされる呉軍。さらに周瑜(公瑾)に弓矢が命中。呉軍は撤退を余儀なくされるのです。命こそ落とさなかった周瑜(公瑾)ですが、その後は矢傷に悩まされることとなります。

これは曹操(孟徳)が曹仁(子孝)に託した策でした。その場にいない筈の曹操(孟徳)の策が見事に的中。神にも通じる曹操(孟徳)の秘策です。

その後、南城は一進一退の攻防が繰り広げられますが、結局、曹操軍は撤退することとなります。

それにしても、圧倒的な劣勢の中、敵の総大将(周瑜)に大きな傷を負わせてから撤退する曹操(孟徳)の策。やはりただ者ではありません。

呉軍と劉備軍の確執が決定的に 曹操軍撤退後の南城は誰のもの?

呉軍と劉備軍の確執が決定的に 曹操軍撤退後の南城は誰のもの?

呉軍と劉備軍の確執が決定的に 曹操軍撤退後の南城は誰のもの?

曹操軍撤退後、呉軍が南城に入ろうとします。しかし、南城は既に劉備軍が占領しており城に入れません。混乱する呉軍。周瑜(公瑾)も何が起こったのか理解できません。城外に立ちすくむ呉軍に伝令が入ります。南城を占領したのは趙雲(子龍)。さらに張飛(翼徳)が荊州城を、関羽(雲長)が襄陽城を占領していると言うのです。

呆気にとられる周瑜(公瑾)。これは諸葛亮(孔明)の策でした。

諸葛亮(孔明)は曹操軍の「割符」を手に入れ、荊州城、襄陽城にいた曹操軍に南城救出に向かうよう偽の指令を出し、手薄になった城を簡単に落としてしまったのです。

主要拠点をすべて抑えてしまった劉備軍、荊州は事実上、劉備(玄徳)が支配する形となりました。

「うまい」というか「ずる賢い」というか…やはり「周瑜(公瑾)に比べて「諸葛亮(孔明)が一枚上手だった」と言わざるを得ない出来事です。

当然ですが、納得いかないのは呉軍。怒り狂う周瑜(公瑾)。ここに呉軍と劉備軍の確執が決定的なものになります。

まとめ

まとめ

まとめ

後日、呉の将である魯粛(子敬)が劉備(玄徳)に面会し、荊州の領有権についての話し合いが持たれます。「赤壁の戦いで曹操軍を壊滅に追いやったのは呉軍であるから荊州は呉国が領有して当然」と主張します。

しかし、諸葛亮(孔明)は言い返します。

赤壁の戦いにおいては、私(諸葛亮)が参謀となり協力しただけでなく、劉備軍も陸戦において曹操(孟徳)を追い詰めている。呉の水軍だけが手柄を立てた訳ではない。

さらに…

「荊州は元々劉表(景升)が治め、劉表(景升)亡き後はその長子たる劉琦が荊州を継承するのが筋。しかし劉琦は病弱なため同族である劉備(玄徳)がこれを補佐して荊州を守る…これのどこに不合理がありますか?」と主張します。

この言葉に魯粛(子敬)は何も言い返せませんでした。

赤壁の戦いも南郡攻防戦も、すべて諸葛亮(孔明)の筋書き通りだったようですね。

恐ろしや孔明。


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