一流儒学者としての盧植(子幹)
■ 一流儒学者としての盧植(子幹)
一流儒学者としての盧植(子幹)
盧植は字を子幹といい、劉備(玄徳)と同じ涿郡涿県の出身です。身長は8尺2寸とあるので、メートル換算すると約190センチメートルという高身長な偉丈夫です。
盧植(子幹)の声はよく通り、その声はまるで鐘の音が響くようだと言われていました。三国志演義では黄巾党の乱の鎮圧に当たる将軍として登場して、主に武人としての側面だけが描かれています。しかし、史実では後漢を代表する儒学者の一人であり、当代一流ともいえる知識人でした。
儒学者としての盧植は、「礼記解詁」という周代の名宰相周公旦が著作した礼記の解説する書物を著しています。
「礼記」とは、中国古代の「礼」の規定、および精神を雑記した儒教経典であり、「礼記解詁」はそれを訓詁学(古典解釈学)によって解説したものです。
馬融を師と仰ぎ鄭玄のライバル
■ 馬融を師と仰ぎ鄭玄のライバル
馬融を師と仰ぎ鄭玄のライバル
盧植(子幹)は若い頃、後漢でも屈指の儒学者であった馬融を師と仰ぎ、儒学を学びました。同門には後漢最高の儒学者と言われた鄭玄もおり、鄭玄は盧植(子幹)のよきライバルでした。
馬融は弟子たちが本気で学問に取り組めるのかを試すため、盧植(子幹)や鄭玄らが勉強している面前で芸妓を並べて歌や舞を披露させましたが、盧植(子幹)は一度も芸妓に目をやることがなかったと言われています。さらに盧植(子幹)は馬融のもとで学問をしている間は一度も芸妓遊びをせず、脇目もふらずに真面目に精進しました。
劉備(玄徳)、公孫瓚の師匠
■ 劉備(玄徳)、公孫瓚の師匠
劉備(玄徳)、公孫瓚の師匠
学業を終え、馬融のもとを去った盧植(子幹)は郷里に戻って塾を開きました。そこに入塾したのが後に十八鎮諸侯に名を連ねる公孫瓚と蜀の礎を築く劉備(玄徳)でした。
後漢末期の群雄として名を知られることとなる両者はともに盧植(子幹)から儒学を学びました。公孫瓚は生まれながらの名族の出身で抜群の体力と明晰な頭脳を持ち合わせていました。一方の劉備(玄徳)は庶民の出身でしたが、盧植(子幹)とは同郷であり一族から学費を工面してもらいながら学びました。しかし、学問に対してはあまり真面目に取り組んでいなかったことが正史三国志の一部である蜀志先主伝に記されています。
その反省もあったのか、子の劉禅(公嗣)に対しては遺命として「漢書」と「礼記」は必須、さらに余裕があるのなら諸子百家および「六韜」、「商君書」を歴覧するように薦めています。
盧植(子幹)の性格
■ 盧植(子幹)の性格
盧植(子幹)の性格
盧植(子幹)の性格は剛毅で大節があり、世を救わんとする志がありました。したがって、単なる武人でも学者でもなく、身につけた教養を実践することに重きを置いていました。「入りては相、出でては将」という言葉が示すように、国内では宰相となって政務を執り、国外では将軍となって敵を討つことのできる者が逸材であると言われていました。かような文武両道な人物のことを当時は儒将と呼びました。盧植(子幹)はまさに儒将と呼ぶにふさわしい人物で、また教育を通じて新たな儒将を育成しようとしたのでした。
儒将として黄巾党の乱を討伐
■ 儒将として黄巾党の乱を討伐
儒将として黄巾党の乱を討伐
西暦184年に黄巾党の乱が勃発すると、盧植(子幹)これを討伐する責任者となり、北中郎将を拝命しました。この官職は黄巾党の乱討伐のための臨時職とされています。盧植(子幹)は北軍五校の兵と諸郡で挑発した兵士を率いることとなりました。北軍五校とは、長水・歩兵・射声・屯騎・越騎校尉のことで、後漢の中央軍の精鋭部隊です。かかる兵を以って、盧植(子幹)は冀州の黄巾党討伐に赴きました。その際、豫洲の潁川、汝南の両軍で蜂起していた黄巾党には、佐中郎将の皇甫嵩と右中郎将の朱儁が派遣されました。ところが、両者の軍は郡兵と募兵によって構成されていたため劣勢で、5月には黄巾党に包囲されてしまうことになります。それでも皇甫嵩の奇策によってようやく包囲を破ると、6月には豫洲の黄巾党をほどんど平定しました。
この間、盧植(子幹)は勝利を重ね、6月には黄巾党の首長である張角を包囲していました。そこに霊帝が宦官の左豊を派遣して、戦況を探らせました。部下は左豊に賄賂を贈ることを勧めますが、盧植(子幹)はこれを頑なに拒みました。左豊は賄賂を贈らなかったことを根に持ち、盧植(子幹)がわざと乱の鎮圧を遅らせていると虚偽の報告をしたため、盧植(子幹)は失脚します。
三国志演義の第一回で劉備(玄徳)が護送車に乗せられた盧植(子幹)を見て驚くシーンは、この時の出来事をもとにして作られたものです。
霊帝は盧植(子幹)の後釜に董卓を指名して派遣しましたが、張角を破ることはできず戦線は膠着状態となりました。そこで霊帝は皇甫嵩を冀州に派遣します。盧植(子幹)の戦略を継承した皇甫嵩が黄巾党の包囲を続けると、その年の10月に張角は病死しました。皇甫嵩は、張角の末弟張梁に率いられた10万余りの大軍を撃破し、張角の首を洛陽に送ります。
11月皇甫嵩が次弟の張宝を斬ると、霊帝は黄巾党を平定したとして元号を中平に改めました。
三国志演義では処刑されたが史実ではその後も生きていた
■ 三国志演義では処刑されたが史実ではその後も生きていた
三国志演義では処刑されたが史実ではその後も生きていた
三国志演義で盧植(子幹)は無実の罪を着せられて死刑に処されてしまうのですが、史実を読めばどうもそれはフィクションであるようです。
左豊の讒言によって失脚させられた盧植(子幹)でしが、その身を後漢朝廷に留めていました。
霊帝崩御後、董卓が独裁政治を始めると皇帝廃位の議を百官に投げかけました。董卓を恐れて諸将が沈黙を守る中、ただひとり盧植(子幹)だけが激しく抗議しました。董卓はこれに激怒して盧植(子幹)を誅殺しようとしましたが、蔡邕(蔡文姫の父)がこれを制止したため、免職のみに留められました。自らの列伝にも記される剛毅な性格がよくわかる逸話です。
西暦191年、冀州牧となった袁紹(本初)は帰郷していた盧植(子幹)を軍師として招きました。袁紹(本初)は儒将としての盧植(子幹)の力を借りようとしたのです。しかし、盧植(子幹)ほどなくして病死してしまいました。
まとめ
■ まとめ
まとめ
劉備(玄徳)、公孫瓚の師匠の盧植(子幹)は儒将の名がふさわしい文武両道な逸材でした。三国志演義では第一回で左豊の讒言によって死刑に処されたとありますが、史実ではその後も生きていて董卓に歯向かったり、袁紹(本初)に才能を見出されていました。
残念ながら、袁紹(本初)のもとで再び政治や軍事で手腕を発揮する前に亡くなってしまいましたが、彼がもう少し長生きしていれば曹操(孟徳)の覇権を阻止していたか、それが無理でも遅らせることができていたかも知れません。