「ウマ娘」にも登場してほしい? 三国志を駆け抜けた名馬たちとは?

「ウマ娘」にも登場してほしい? 三国志を駆け抜けた名馬たちとは?

三国志には「南船北馬」という言葉があります。これはいったいどういう意味でしょうか。三国志は戦の歴史でもあり、多くは騎馬による一騎打ちや戦争の描写が多く見られます。なかでも名のある武将が駆る名馬たちは、その名を歴史に残しているのです。


三国時代の戦争は「南船北馬」

三国志に時々そのことわざが登場する「南船北馬」。これは一体どういう意味なのでしょうか。中国大陸を思い浮かべてみてください。魏のあった北部はモンゴルやロシアに接する内陸地帯で、呉のあった南部は東シナ海、南シナ海に面した沿岸地域です。当然、物流や人の移動は北部は馬であり、南部は船が中心となります。また蜀のあった成都周辺もやはり内陸部であり、その北東には馬超(孟起)の出身地でもある涼州や羌族の根拠地でもあり、馬が生活にとって欠かせないものだったのです。そもそも、姓が「馬」ですから、馬との関わりは深かったわけですね。

こうした地理的な背景から、強い騎馬隊を持つ曹操(孟徳)軍が水路・長江の赤壁で孫権(仲謀)・劉備(玄徳)連合軍の水戦に大敗するのは、当然のことだったわけです。これこそ「南船北馬」を無視した愚策だったと言わざるを得ません。ただ、ここでは「南船」の話は置いておいて、三国時代を彩った武将たちが駆る伝説の名馬たちについて、少しご紹介していきましょう。「ウマ娘」に擬人化して登場してほしいほど、優れた能力を持つ名馬たちですよ!

赤兎馬:呂布(奉先)から曹操(孟徳)、そして関羽(雲長)へ

三国志に登場する名馬といって、まず真っ先にイメージするのが赤兎馬です。全身を真っ赤な毛で覆われ、脱兎のごとく素速い馬ということで名付けられた伝説の名馬ですね。それにしても、馬にウサギと名付けるのは面白いですね(笑)。三国志演義では、西方との交易によって中国に入ってきた汗血馬だったとのことです。

一日千里(約4,000km)走るとも言われ、一騎打ちでは赤兎馬自ら相手の馬を威圧して優位に立ったという伝説もあります。もともと董卓(仲穎)の持ち馬でしたが、呂布(奉先)と養父代わりだった丁原(建陽)を離間させるために、李粛(字は不明)の策によって呂布(奉先)に贈られました。これにより、呂布(奉先)は董卓(仲穎)と親子の契りを結んで仕え、紆余曲折あって(皆さんのほうが詳しくご存知でしょう)独立するわけですが、この赤兎馬を手に入れたあたりから一騎打ちでは無双状態。向かうところ敵なしという最強の武将として名を上げていきます。これには、やはり赤兎馬の力なくしてはあり得なかったのは間違いないでしょう。それを表す言葉に、こういうものがあります。

「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」

その後、呂布(奉先)は曹操(孟徳)に攻められ、捕らわれることになります。曹操(孟徳)は呂布(奉先)と赤兎馬コンビの武勇に惚れ込んでおり、殺すべきか否かを悩んでいましたが、このとき客将として戦列に参加していた劉備(玄徳)に呂布(奉先)の処遇について尋ねます。すると、劉備(玄徳)はこう答えたのです。

「奉先は最初、丁原に仕え、その後に董卓の息子となりました」

それを聞いた曹操(孟徳)は「それもそうだな」と呟き、呂布(奉先)を処刑したと言われています。さて、乗り手を失った赤兎馬はどうなったのでしょうか。曹操(孟徳)が自分のものとしたのです。しかし、人並み(いや、馬並み?)外れた高い能力を持つ赤兎馬を曹操(孟徳)は乗りこなすことができませんでした。その後、曹操(孟徳)は自分を裏切った劉備(玄徳)を攻め、その劉備(玄徳)は袁紹(本初)の元へ逃げ、関羽(雲長)を捕虜としました。

関羽(雲長)の武勇にも惚れ込んだ曹操(孟徳)は、臣下に加えようとさまざまな贈り物を届けます。しかし、関羽(雲長)はすべて手を付けずに保管していました。そこで曹操(孟徳)は手中にあった稀代の名馬・赤兎馬を関羽(雲長)に贈ったのです。これには関羽(雲長)も感激し、こう言いました。

「この馬は一日千里を駆けると聞きます。これで兄上(劉備)の居場所がわかったら、すぐにでも飛んで行けます」

この言葉を聞いて、曹操(孟徳)は関羽(雲長)を配下に加えることを諦めたそうです。そして、この忠義の人に敬意を払い、赤兎馬はそのままプレゼントし、劉備(玄徳)のもとへ走る関羽(雲長)の邪魔はしなかったという逸話は有名ですね。実際は、曹操(孟徳)軍から劉備(玄徳)のもとへと遁走する際、それぞれの関所の守将には曹操(孟徳)からの命(関羽の帰還を邪魔するなという文)は間に合わず、そこそこ邪魔されてしまうわけですが、これも赤兎馬の卓越した走力があったために、こういうことになってしまったのですね。

赤兎馬:乗り手を愛した名馬は、主の死とともに自ら命を断った

さて、関羽(雲長)の愛馬となった赤兎馬ですが、武芸に秀でた乗り手には素直に従うのも名馬の証ですね。今度は関羽(雲長)の名声を高めることに一役買っていきます。曹操(孟徳)の客将として、対峙していた袁紹(本初)軍の名将・文醜(字は不明)と顔良(字は不明)を、赤兎馬を駆って一太刀で倒したのは有名な話ですね。

ちなみに、これには面白いエピソードがあって、戦況を有利に進めていた曹操(孟徳)陣営では、早くも祝杯を上げており、それを熱燗にしていたそうです。関羽(雲長)にも一献与えたところ、その酒坏を周囲の者に預け、「ちょっと行ってくる」と言い、赤兎馬を駆使して顔良の首を刎ねて持ち帰ってきました。そして、酒坏を受け取った時にはまだ酒が温かかったという話。まあ、これも劉備(玄徳)びいきの三国志演義によるものなので、はたして本当かどうかは眉唾ものではあるのですが、それだけ関羽(雲長)と赤兎馬の武芸が秀でていたことを示すエピソードだともいえます。

そして時は流れ、荊州に孤立した関羽(雲長)は、ついに麦城で養子の関平(字は不明)とともに呉軍に捕らえられ、首を刎ねられてその生涯を終えます。このとき、孫権(仲謀)は関羽(雲長)を捕らえたとされる馬忠(字は不明)に戦利品として赤兎馬を与えるのですが、赤兎馬は飼い葉を食べなくなり、そのまま衰弱死したという悲しいエピソードで終わるのです。関羽(雲長)を主として愛していたため、どこの馬の骨ともわからない馬忠(馬氏だけに)などという武将は乗せないぞ、といったところでしょうか。

的盧:乗り手に災いを為すと言われた劉備(玄徳)の愛馬

中国には古くから、額に白い模様のある馬は凶馬とされ、乗り手に必ず災いをもたらすと忌み嫌われていました。そういった馬の総称を「的盧」といい、特に劉備(玄徳)が騎乗していた馬が的廬の中でも著名です。

もともとは江夏の賊であった張虎(字は不明)という人物が乗っており、劉表(景升)の客将・劉備(玄徳)配下の趙雲(子龍)によって討伐された際に、劉備(玄徳)のもとへ戦利品として献上された馬でした。ひと目見て、これは千里を駆ける名馬だと感じた劉備(玄徳)は、劉表(景升)に的廬を贈ります。しかし、劉表(景升)配下の知将・蒯越(異度)は「眼下に涙槽あり、額に白点あり。まさしく“的盧”。乗り手に祟をなす凶馬なり」と忠告しました。そもそも劉表(景升)は疑心暗鬼の人なので、劉備(玄徳)に「自分には乗りこなせないから」と的廬を返したのです。親劉備派の伊籍(機伯)という劉表(景升)配下の文官も、劉備(玄徳)に的盧が凶馬であることを告げましたが、劉備(玄徳)は笑いながらこう答えたのです。

「人の生死は命運によって決まっている。なんで馬が人の運命を左右できるのか」

その後、蔡瑁(徳珪)が劉備(玄徳)の暗殺を企てた際、的盧にまたがって逃げる劉備(玄徳)の行く手を急流が阻みました。そのとき劉備(玄徳)は「的盧よ、お前は私の運命を妨げるのか?」と問いかけると、的盧は力強く跳び上がり、対岸へとジャンプして難を逃れたという伝説が残っています。このエピソードが有名ですが、その後はパッタリと的盧の話題が登場しなくなります。ただ、劉備(玄徳)が龐統(士元)を伴って、成都の劉璋(季玉)を攻めた際、前足を折って動けなくなった龐統(士元)に自分が騎乗していた白馬を譲ったという話があります。これが的盧だったのではという説もあるのです。その後、ご存知の通り龐統(士元)は白馬に乗っていたため劉備(玄徳)と間違われ、落鳳坡で矢を受けて命を落とすわけですが、乗り手を祟ったという意味では、もしかすると的盧だったのかもしれません。

余談ですが、白馬というのは生まれつき白馬はほとんどおらず、たいていは若駒のときは芦毛(グレー)で、年を経ると全身が白くなります。額に白い模様というのは幼少期の芦毛馬にも見られる傾向なので、これが的盧だったということもあり得なくはないですね。

絶影:影すら留めない俊馬は曹操(孟徳)の命の恩人

赤兎馬に選ばれなかった曹操(孟徳)ですが、彼も権力にモノを言わせて名馬に騎乗していました。それが絶影です。由来は、影さえ絶えさせるほど速く走る馬ということから名付けられたとされています。

正直、あまりたいしたエピソードはないのですが、張繡(字は不明)から奇襲を受けた曹操(孟徳)は絶影を駆って宛城から逃走したのですが、このときに額と脚などに3本の矢を受けながらも九死に一生を得たものの、絶影は逃亡の途中で目を射抜かれて死んでしまったということでした。

まとめ

いかがだったでしょうか。名将には名馬ありというエピソードをご紹介しました。ここでもわかるように、呉には名馬の逸話がほとんどありません。中国の国土の広さがご理解いただけたかと思います。

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