荊州--三国志の火薬庫
■ 荊州--三国志の火薬庫
荊州--三国志の火薬庫
三国志において、初期(黄巾の乱や董卓の時代)は、中国の十三州を何十人という、群雄で争っていました。一つの州を丸ごと支配していたというのは殆どなかったでしょう。
ですが、時代が進むと、徐々に各州の帰属先が決まってきます。
魏の曹操が九州:司隷・冀州・徐州・幽州・青州・兗州・并州・涼州・予州(+雍州,涼州から分離された)
呉の孫権が二州:揚州・交州
蜀漢の劉備(玄徳)が一州:益州
これらの州の支配はほぼ安定していました。そんな中、三国が虎視眈々と狙い続け、戦の原因となり続けた、三国志の火薬庫とも言えるのが荊州です。
荊州は袁術が南陽を支配していたり、張繍が宛城にいたり、孫堅が長沙太守だったりと、色々出てきますが、官渡の戦いの後、この地を支配していたのは劉表です。まず、この劉表の元へ曹操に敗れた劉備(玄徳)が逃げてきます。荊州は黄巾の乱の影響が少なく、人が多く土地も肥えており、強国でありましたが、太守の劉表が病死すると曹操が攻め入ってきます。劉表の後継ぎである劉琮が降伏をすると、劉備(玄徳)は荊州の南部へ逃げていき、劉表の長男であった劉琦と合流します。そして、赤壁の戦いが起こり、曹操が北方へ退却すると劉備(玄徳)は荊州の南部を領有することに成功します。これに対して、孫権が自分たちにこそ荊州南部の所有権があると主張すると、劉備(玄徳)は益州を領有したら譲り渡すと約束します。やがて劉備(玄徳)は益州の領有に成功しますが、戦乱の世ですから当然荊州を渡したりはしません。孫権と劉備(玄徳)の同盟も危ういものとなりましたが、孫権軍の将軍である魯粛が親劉備(玄徳)派であるのと曹操への脅威から荊州を半分譲り渡して同盟を続けることになります。
ところが、魯粛が死亡すると、状況が変わり、呂蒙を中心に荊州へ攻め入ろうとします。劉備(玄徳)は関羽に荊州を守らせますが、曹操軍と孫権軍の挟み撃ちにあい、関羽は戦死、荊州南部は孫権の領有することになります。
関羽は劉備(玄徳)にとってただの配下ではありません。若い頃よりずっと共に戦ってきた兄弟であり、身体の一部みたいな存在でした。荊州奪還と関羽の仇討ちを目指して、諸葛亮や趙雲が静止するのも振り払い、劉備(玄徳)は孫権軍に戦を挑みます。こうして夷陵の戦いは始まります。
兵力--誇張の多かった演義
■ 兵力--誇張の多かった演義
兵力--誇張の多かった演義
夷陵の戦いは正史に記載されている実在した戦いですが、演義にも出てきます。それによると、劉備(玄徳)は75万の蜀漢の兵を率いて呉に攻め入ったとあります。これは完全な創作で、当時の蜀漢の人口は90万人くらいと言われています。戦乱の世の中ですから、戸籍に載っていない人間も多かったと思われますが、75万人を兵士にするのはとても無理です。また、中国全土は前漢の頃には3000万人の人口だったのが、黄巾の乱以降、800万人まで減ったと言われています。前述の通り、戸籍などが失くなってしまった者も数多くいるでしょう。なので、間をとって、人口を2000万人だとして、当時蜀漢の領土は13州の内、益州1つ。益州は黄巾の乱の影響はかなり少なかったほうなので、流民が多かったとして、
2000万×1/13+α
大体200万人から400万人位と考えられるでしょうか?200万と400万では大分違いますが、どちらにしろ75万人を出陣させるのはほぼ無理でしょう。益州や漢中の守備隊も必要ですし。
残念ながら三国志正史には蜀漢軍が何人かは記載刺されていません。中国の歴史書である資治通鑑では呉軍は5万人、蜀漢軍は4万人余りと記されています。演義の75万人に比べると大分規模は小さくなりますが、呉と蜀漢両国の国力を目一杯使った戦争であったのは間違いなさそうです。
劉備と陸遜--用兵の差
■ 劉備と陸遜--用兵の差
劉備と陸遜--用兵の差
蜀漢の劉備(玄徳)は陸軍を自ら率い、水軍を黄権に任せて進軍します。黄権はこの時
「長江を下って攻め入る時は簡単ですが、退却は難しいです。私が先に攻め入りますので、陛下は後から来て下さい。」
と進言しますが、劉備(玄徳)は聞き入れませんでした。一方、呉(曹丕が漢より禅譲された時、孫権が呉王に任命される)の孫権は荊州奪取した際に功績のあった陸遜を大都督に任じて迎え撃ちます。最初は蜀漢軍が呉軍を圧倒します。蜀漢は皇帝である劉備(玄徳)が自ら出陣しているのに対し、呉軍は書生あがりである陸遜を信用していない者も多く、士気の差がありました。また、馬良を武陵に派遣して異民族を手なづけ、彼らの王である沙摩柯も参戦しました。そして、呉の孫桓の籠もる城を包囲し、さらに進軍していきました。
魏の皇帝である曹丕はこの戦の様子を聞くと
「劉備(玄徳)は戦の仕方を知らない。必ずや蜀漢の軍は敗れるであろう」
と言いました。また、演義での創作の話ですが、劉備(玄徳)が馬良を諸葛亮の元へ派遣して、確認すると
「このままでは必ず蜀漢軍は敗れる」
と言いました。おそらく劉備(玄徳)の敷いていた陣形はよほどセンスのないものだったのでしょう。
そして、ついに陸遜の大反撃が始まります。まずは、蜀漢の陣が火刑に弱いことを見破ると夜襲をかけ、蜀漢の陣に火を放ちます。蜀漢の陣は一気に炎上し、劉備(玄徳)らも退却していきます。包囲されていた孫桓なども出陣し、一気に蜀漢軍を追い詰めます。この乱戦で馬良・王甫・傅彤らの有能な配下が次々と戦死していきます。余談ですが、黄忠が夷陵の戦いで戦死するというのは完全に演義の創作で、正史ではこの戦の前に死んでいます。
劉備(玄徳)は結局、救援に来た趙雲らに助けられながら白帝城(永安)まで逃げ帰ることになります。この敗戦によって蜀漢は完全に荊州を放棄することになります。
まとめ
■ まとめ
まとめ
夷陵の戦いは蜀漢の完全敗北で終わりました。水軍を率いていた黄権は完全に敵に囲まれ、呉ではなく魏へ降伏します。劉備(玄徳)はこれを聞き
「黄権が私を裏切ったのではない。私が黄権を裏切ったのだ」
と言いました。また、諸葛亮は
「ああ、法正が生きていたらこんな敗戦はなかっただろうに」
と嘆きました。
孫権は陸遜という名将を信じ、任せることによって戦に勝つことが出来、劉備(玄徳)は諸葛亮の進言を聞き入れず、黄権の提案した兵法を用いなかったことによって惨敗をしました。演義では人材を活かした劉備(玄徳)と狭量の孫権というイメージがありますが、正史を見ると逆になって、その結果歴史が大きく動いたというのが面白いところです。