蜀を陰ながら支えた武将!目立ちはしないが優等生な龐統の人生を振り返る!

蜀を陰ながら支えた武将!目立ちはしないが優等生な龐統の人生を振り返る!

蜀には心優しく民を思う武将が集まったとされています。もちろん関羽のように三国志に絶対欠かせない存在になった人もいれば、陰ながら蜀を支えた武将もいます。

そこで今回は目立ちはしなかったものの蜀を支えた武将である龐統について紹介します。


皆さんは三国志の中で好きな武将はいますでしょうか。武勇が長けており、多くの敵兵をなぎ払ったとされている武将もいるでしょうし、対照的に武勇ではなく頭がキレる存在で軍略などをたくさん編み出す武将も三国志にはいます。

多くの武将が活躍した三国志の中では様々な個性がある武将が多いため、選ぶのに困る人も多いことでしょう。しかし、今回はそういった目立った活躍をした武将ではなく、陰ながら蜀の国を支えたそんな武将でもある龐統を紹介します。

龐統の生まれ

龐統の生まれ

龐統の生まれ

龐統は荊州の出身となっており、才能も豊かであり、頭もキレる男だったとされています。しかし見た目がとてもひどく男前というわけではなかったようです。

諸説では、太り過ぎか痩せすぎだったと言われていますが、どちらだったのかはわかっていません。これが原因で世間ではなかなか認められることはありませんでした。

龐統の活躍のスタートは?

龐統の活躍のスタートは?

龐統の活躍のスタートは?

龐統が正史の中に現れるのは、少し遅い段階になります。まだ蜀に所属する前の段階の話から龐統は正史に出てきますが、周瑜が弓矢を食らってしまい、護衛が必要となった際に護衛した人物が龐統だと言われています。

そのため、蜀の武将として生涯を送っていった龐統ですが、この段階では呉の武将として生活を送っていくのではないかと言えるかもしれません。当時の呉の重臣たちとも仲が良かったようで、何か後押しがあれば呉の武将として活躍していたかもしれません。

また、このことから実は呉の手先で孫権から蜀を見張るという任務を預かっていたスパイだったという噂もたてられていますが、本当だったのかというのは依然として分かっていません。ある意味で掴みどころがない人物でもあったため、そう思われても仕方のないところはあります。

劉備との不仲

劉備との不仲

劉備との不仲

龐統は荊州の武将ということもあり、この当時荊州を収めていた劉備のもとに使えます。

しかし、人徳に溢れている人物として有名な劉備ですが、その仲はあまり上手く行きませんでした。劉備は龐統の見た目を醜いと感じてしまい、さらにその存在を気に入らなかったため、遠い僻地に飛ばしてしまいます。

これに怒った龐統は僻地に行ってからというものの、とにかく酒を飲むようになりあまり仕事に打ち込むこともなくなりました。元々期待されていた人物でありましたが、この待遇には、劉備が「見た目」で判断したことに腹を立てていたようです。

この事実を知った劉備はこれに呆れて龐統をクビにしてしまいます。しかし、ここに待ったをかけた人がいました。それが蜀の中でもキレ者として有名であった魯粛です。魯粛は劉備にクビにするのではなく、大きな任務を与えてみたらどうだろうか?と提案しました。

これによって、龐統は蜀の中でも有名な 諸葛亮(孔明)と同じ「軍師中郎将」という職に就きました。これはかなり評価が高い人でないと就くことはできないため、龐統が優秀なのはここで証明されましたが、やはり 諸葛亮(孔明)の陰に隠れてしまいました。

龐統の名を轟かせた戦い

龐統の名を轟かせた戦い

龐統の名を轟かせた戦い

龐統も僻地ではなく蜀の本格的な戦いに参加できるようになり、その才能を思う存分に発揮できるタイミングがきます。もちろん、蜀には最強の軍師と言っても過言ではない諸葛孔明がいますが、諸葛孔明が荊州の守備にあたっている間は龐統が軍師を務めるという形をとります。

そこで龐統の才能が発揮されたのは蜀が益州攻略に向けて動き出した時です。この時は龐統が軍師として動いており、戦場を動かしています。軍師として龐統はまず、自分の味方を焚きつけるところから始めます。

この益州争奪戦は劉備と劉備と同じ劉一族である劉璋との戦いになります。もちろん、劉備は人徳に溢れる存在であるため、同族に手をかけることを少しばかりためらっていました。

しかし、龐統はとても非情に「今我々が手をかけなくても呉か魏にいずれ取られてしまう」と声をかけました。それなら我々がということもあり、劉備は益州に攻め込むことを決意します。

劉璋をただ攻め込んでも真正面からぶつかるだけでは時間もかかってしまい、兵士もなくなってしまうため、しっかりと策を練ってから挑みます。まずは劉璋には攻めるつもりはないように見せかけるため、別の相手に攻め込むことをあからさまにしながら準備します。これによって、兵力を強大なものにしていきました。たくさんの兵力を集めた結果、成都に攻め込むことを決意します。

成都に攻め込んだ結果

成都に攻め込んだ結果

成都に攻め込んだ結果

準備が整ったため、劉備は成都に攻め込みます。もちろん、劉璋は何も知らないため、事は容易に進んでいきます。まずは成都の近くから攻めていくことになります。成都に直接つながっている白水関から攻めていきますが、白水関を守っている高沛と楊懐を用意に破ることができて、そこから成都に入城して、劉璋を降伏させます。これによって益州を手に入れます。

しかし、肝心な龐統はこの戦いの最中に命を落としてしまいます。益州の別の場所に隠れていた劉璋の部下が撃っていた弓矢の流れ弾に当たってしまいこれによって戦死してしまいます。誠に残念ながら、これによって36歳という若さで死んでしまいます。

思ったよりあっさりと亡くなってしまいますが、龐統は陰に隠れながらも蜀には必要な武将とも言えるでしょう。その証拠にこの龐統の死は劉備を救ったことになっているのです。

実はこの龐統を殺した劉璋の部下ですが、劉備を狙っており劉備を殺害するために動いていた部隊なのですが、劉備と龐統を勘違いして殺害しました。

この時、龐統が乗っていたのは劉備の白馬であり、馬だけを見て劉備と判断して弓矢を放ったのです。そのため、「劉備の身代わり」になったと言っても過言ではありません。

まとめ

まとめ

まとめ

今回は蜀の縁の下の力持ちとも言える「龐統」という武将について紹介しましたが、やはり掴みどころがない人物だったように思います。しかし、 諸葛亮(孔明)の功績があったのは、ある意味で龐統の援助があってのことと言っても過言ではないようです。

早すぎる死でしたが、その短い期間に残した行いはかなり評価できることなのではないでしょうか。出てきた時間は短いものの優秀な行いをした龐統が少しでも誰かの頭に残れば報われるのではないでしょうか。





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