劉備に仕えた龐統(士元) 惜しまれた大賢人の短い生涯

劉備に仕えた龐統(士元) 惜しまれた大賢人の短い生涯

諸葛亮(孔明)と同等かそれ以上の才能を持つとも言われた龐統(士元)。赤壁の戦いの頃から三国志に登場しますが、その才能を十分に発揮することなくこの世を去ってしまいます。短くも深く色濃い生涯となる「龐統(士元)の三国志」を見て行きます。


司馬徽(徳操)から絶大な評価を得ていた大賢人

司馬徽(徳操)から絶大な評価を得ていた大賢人

司馬徽(徳操)から絶大な評価を得ていた大賢人

龐統(士元)は荊州では人物鑑定家として名高い司馬徽(徳操)こと水鏡先生から諸葛亮(孔明)と同等(またはそれ以上)の評価を受けている人物でした。当時、国を持たず劉表(景升)の下に身を寄せていた劉備(玄徳)に

「伏龍(ふくりゅう:諸葛亮のこと)か鳳雛(ほうすう:龐統のこと)のいずれか一人でも得れば天下を握れる」

とまで言わせた人物です。しかし、風貌や態度に難点があり、酒好きでであったことから「上からは毛嫌いされるタイプ」で清廉なイメージの諸葛亮(孔明)とは対照的な境遇となります。

赤壁の戦いで連環の計を実行した影の功労者

赤壁の戦いで連環の計を実行した影の功労者

赤壁の戦いで連環の計を実行した影の功労者

赤壁の戦いは呉の水軍大都督周瑜(公瑾)が曹操軍の2千隻とも言われる大船団を火計で打ち破った戦いでしたが、火計が実行される前に「曹操軍の船同士を繋いで火が燃え広がり易くする」という「連環の計」が施されていました。まさにそれを実行したのは龐統(士元)です。

赤壁の実戦の前、曹操(孟徳)の配下であった蒋幹(子翼)という人物が周瑜(公瑾)を引き抜くために呉の陣を訪れますが、あっけなく失敗。這う這うの体で帰る蒋幹(子翼)に乗じて曹操(孟徳)の陣に乗り込んだ龐統(士元)。思いがけない大賢人の訪問に曹操(孟徳)は大喜びします。

龐統(士元)は曹操陣内の兵士が南方の風土に合わず病人続出であることを見抜き、「船同士を連結させれば動揺を抑えられて病人が減る」と曹操(孟徳)に進言します。大賢人の進言を曹操(孟徳)は喜んで受入れ、まんまと船を連結してしまいます。

孫権(仲謀)とウマが合わず呉国への仕官に失敗

孫権(仲謀)とウマが合わず呉国への仕官に失敗

孫権(仲謀)とウマが合わず呉国への仕官に失敗

赤壁の戦いが終わり、劉備(玄徳)が荊州の南四郡を支配。三国志が次の局面(劉備の益州攻略)に動き始めようとしている頃、龐統(士元)は呉国への仕官を求めて孫権(仲謀)の下に現れます。しかし、風貌の悪さと歯に衣着せぬ物言いが孫権(仲謀)には受け入れられず、呉国への仕官は失敗します。

次に、龐統(士元)は荊州を訪れ、劉備(玄徳)の下に現れますが、仁君と呼ばれた劉備(玄徳)でさえ「これが大賢人?」と疑念を抱いてしまいます。劉備(玄徳)は仕官の申し入れは受け入れるものの、耒陽県(らいようけん)という片田舎の県令に任じてしまいます。

1カ月溜めた仕事を1日で片付ける 耒陽県での出来事

1カ月溜めた仕事を1日で片付ける 耒陽県での出来事

1カ月溜めた仕事を1日で片付ける 耒陽県での出来事

赴任後、一切仕事をせず、酒ばかり飲んでいる龐統(士元)。噂を聞き激怒した劉備(玄徳)は張飛(翼徳)を監督役として耒陽県に派遣します。張飛(翼徳)が到着してもなお酒ばかり飲んでいる龐統(士元)でしたが、ある日突然「じゃあ…そろそろやるか」と言って山のように溜まっていた訴状の処理を始めます。

善い行いをした者には恩賞を与え、悪い行いをした者には罰を与え、争い事は皆が納得するように裁く…。目を見張るようなスピードで訴状を次々と片付けてしまう龐統(士元)。しかも早いだけでなく、裁きを受けた者がことごとく平伏して彼に感謝している。悪人たちはことごとく反省している…その日の夕方にはすべての訴状が片付いてしまいました。

その様子を一部始終見ていた張飛(翼徳)、「こんな明快な裁きは見たことがない」「今まで誤解していた無礼をお詫びします」と平伏します。龐統(士元)も謙虚に「いやいや、これで県令をクビにならずに済みそうですな」と答えます。

そして、ここに至って龐統(士元)は、懐からある手紙を差し出します。

その手紙は諸葛亮(孔明)が劉備(玄徳)に宛てた推薦状でした。そこには、「龐統(士元)は地方レベルの役人ではなく、中央での大きな役割を担って初めてその実力を発揮する。風貌などにより彼を侮るようなことがあれば天下の大賢人を得るチャンスを失う…」などと記されていました。それは、かつて、諸葛亮(孔明)が龐統(士元)に「志あらば荊州に来たれ」と言って渡したモノだったのです。

龐統(士元)を絶賛する張飛(翼徳)の話と諸葛亮(孔明)の推薦状。劉備(玄徳)は「どうしてこの推薦状を最初に出してくれなかったのだ、出してくれればこんな扱い(地方の県令に任命する)はしなかった」と冷や汗混じりに言います。そして直ちに龐統(士元)は中央に呼ばれ、その日から副軍師中郎将として劉備(玄徳)に仕えることとなります。「副」とはなっていますが、諸葛亮(孔明)とほぼ同じ待遇です。

司馬徽(徳操)こと水鏡先生に「伏龍、鳳雛のいずれか一人でも…」と評価された二人を「二人とも」得てしまった劉備(玄徳)。武人には関羽(雲長)、張飛(翼徳)、趙雲(子龍)といった「一騎当千」の強者が並ぶ…。ここに劉備(玄徳)は曹操(孟徳)からも、呉国からも「厄介な存在」に成り上がって行ったのです。

水魚の交わりから得た教訓からの作戦?

水魚の交わりから得た教訓からの作戦?

水魚の交わりから得た教訓からの作戦?

こうして龐統(士元)はそれほど大きな揉め事もなく劉備(玄徳)の配下としての地位を獲得します。これは諸葛亮(孔明)とは対照的でした。「水魚の交わり」の言葉で語られる諸葛亮(孔明)が劉備(玄徳)の配下に加わった時の苦労話(劉備が諸葛亮を歓迎し過ぎて関羽や張飛などの古参の将が反発した…)を龐統(士元)は何らかの形で知っていたのかも知れません。

いきなり劉備(玄徳)の前に現れ、諸葛亮(孔明)の推薦状を持ち出せば、仕官は成功するものの諸葛亮(孔明)の二の舞(古参の将から反発を受ける)となる…そこでわざと劉備(玄徳)に嫌われるように振舞い、地方の県令でも何でも「実績を上げてから推薦状を差し出す」ように仕向けた…。「水魚の交わり」から得た教訓を活用した行動にも捉えられます。

まとめ

まとめ

まとめ

龐統(士元)が副軍師中郎将に任ぜられて間もなく、劉備(玄徳)の益州攻略が始まります。龐統(士元)は行軍の軍師として劉備と共に益州向かい、諸葛亮(孔明)は荊州に残り、強固な地盤固めを行うといった役割分担でした。天下三分の計がいよいよ実現される…そんな大業を任された龐統(士元)でしたが、益州の将、張任により雨のように降り注ぐ弓矢の攻撃を受け36歳で戦死してしまいます。

類い稀なる才能を持った龐統(士元)でしたが、その才能を十分に発揮することなく、この世を去ってしまいました。「たられば」の話は良くありませんが、「龐統(士元)が亡くならなければ、劉備(玄徳)の全土統一はなし得られた」と分析する方は多く、それ程、龐統(士元)の才能は惜しまれるものでした。





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