三国志昔ばなし 民間伝承の英雄伝(2)

三国志昔ばなし 民間伝承の英雄伝(2)

由緒正しい場所や建物にはなにかしらの有名な故人にまつわる由来や伝説がつきものです。中国のとある場所では、ある三国志の英雄にちなんだ地名や名所があります。三国志の舞台めぐりをする前にぜひこの記事で予習してみましょう。


地名や建物に関する伝説

由緒正しい場所や建物には、なにかしらの由来や伝説がつきものです。
三国志は中国の現地で古くから愛されているため、「~の故郷、~がここで○○をした」というような場所が数多く点在しています。これらは、観光資源として大いに役立っており、中国のみならず日本でもこのようなことがあります。
例えば東京にある兜神社は日本三大怨霊のひとり、平将門の兜を埋めた場所に彼をご本尊にした神社を建立したので「兜神社」となっていますし、警視庁の前にあるお城の門は、かつて桜田門外の変で井伊直弼が水戸浪士に暗殺された現場です。その土地は他の土地と比べて景観が良くないこともありますが、誰もが知っている偉人の名前がつくだけでその土地自体の価値は上がります。さて、それでは地名や建物にまつわる三国志の英雄伝をご覧ください。

大樹楼桑村(たいじゅろうそんそん)縁起

河北省涿県に大樹楼桑村(たいじゅろうそんそん)と呼ばれる村があります。この村の名前の由来について、次のような伝説があります。

天下大動乱の後漢末期のこと、一組の夫婦が飢饉を逃れて涿県のとある村に移住しました。身重の妻の出産も近づき、先に進むことも困難になったふたりは、農家の子やを借りて住むことになりました。ある夜、突然この子やから天を突かんばかりの赤い光が発せられました。火事かと驚いた農家の主人が小屋の前までやってくると、小屋には何の異常もなく、中からただならぬ香りが漂って、赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。やっと赤ん坊が生まれたのだと知った主人は、内心これは大変な貴人が生まれたに違いないと思いました。
子供の満一ヶ月のお祝いには、近所の人々がたくさんの粉や米などの食べ物を持って訪ね、子供の名前を親に尋ねました。
「劉備、字は玄徳と名付けました」

この時から劉備一家はこの土地に住むことになりました。母はいつも野良仕事に小さな劉備(玄徳)を連れて出掛けました。夏の太陽は厳しく暑い。母親は子供を大きな桑の木の下に置いて眠らせ、自分は一心に仕事に精を出しました。いつの間にか日も西に傾き、ふと子供のことを思いだした母親が側に駆け寄ってみると、日は西に傾いているというのに、木陰は少しも動いておらず、子供は朝、そこに置いたときと同じようにスヤスヤと寝ていました。ここからこの村は、大樹楼桑村と呼ばれるようになりました。

白い顔の関羽像

世界中の中国人がいるところには、たいてい関帝廟と呼ばれる関羽の廟が建っています。その関羽の塑像の顔は通常全面赤色に彩られているのだが、山西省の馬蹄湾村にある小さな関帝廟の関羽の顔だけはなぜか白いのです。それにはこんな理由があります。

関羽が馬蹄湾村を通りかかった折、村に近い山中に一匹の大蟒蛇(おおうわばみ:大蛇)がいて、たびたび村人を襲い、みんなが大変に困っているという話を耳にした。そこで関羽は、さっそく大蟒蛇を退治しようと決意し、山に分け入りました。そしてついにかの大蟒蛇と出くわしました。その大蟒蛇は身の丈一丈八尺、両眼は不気味な光を放ち、口を開くと血の盆のように大きい様子でした。関羽は宝剣をさっと引き抜き、大蟒蛇に斬りかかりました。
戦うこと百回にもおよび、やっと大蟒蛇仕留めることができました。気が付くと、さすがの関羽も疲労困憊、空腹も頂点に達して顔が白くなっていました。ちょうどその時、一人の猟師がやってきて、
この子細を村人たちに知らせました。

関羽はそのまま涿県へと行きました。馬蹄湾村の村人たちは関羽に心から感謝して、小さい廟を建立しました。そしてその廟の台座には白い顔の関羽像が置かれました。

将棋塚

関羽は兵を率いて襄陽(じょうよう)を攻めんと、青泥湾の王家の墓所に陣をしきました。しかし、襄陽の城壁は堅く、敵将の曹仁(そうじん)は城を頼りに守りを固めていました。

関羽は兵を伏せ、敵をおびき出そうと連日挑発したのですが、曹仁は全く取りあおうとしません。そして数日が経ち、関羽は手の施しようもないと悩んだあげく、ふと諸葛亮が授けてくれた錦の袋のことを思い出しました。開けて見たのですが、期待していた妙計はなく、将棋の駒が一組入っていました。関羽は長い間思案していましたが、突然思い当たるものがあったのか、さっそく白眉こと馬良と将棋を指し始め、挑発もやめてしまいました。
曹仁はこれを大いに怪しみ、兵を出して探らせました。密偵が戻り報告するには「この数日、関羽は将棋を指すばかり。士卒はあちこちに散ってぶらぶら遊んでおります」
曹仁はこれを計略と思って、妄動もできずにいます。これ以後、密偵の報告は毎日同じことの繰り返しでした。曹仁はついに奇襲をかけることを決心し、兵を率いて関羽の陣中を目指しました。思った通り、蜀軍にはなんの備えもなく、関羽も相変わらず将棋を指しています。しめしめと思い王家の墓所の前まで進んで行くと、突然後方から関羽が伏兵を従えて突進してきました。前からは馬良が迎撃してきます。

実は将棋を指していたのは関羽の影武者だったのです。曹仁は前後を包囲され大敗を喫し、退路を探して敗走したあげく、ついに襄陽を失ってしまったのでした。
関羽は軍師の妙計に感謝し、この将棋の駒を持ち帰ろうとしたところ、どうしたことか駒は土の山に変化して、王家の墓に紛れてしまいました。
それ以後、王家の墓所は人々に「将棋塚」と呼ばれるようになりました。

まとめ

今回の記事はいかがでしたでしょうか?
普段寺社巡りを趣味とされる方や歴史的な名所によく足を運んだ経験がある方ならば、立て看板や地元のガイドさんから以上のようなお話を見聞きすることがあると思います。
旅行をあまりしたことがない方ならば、中学校や高校時代の修学旅行を思い出してみてください。バスガイドさんやお寺の和尚さんが年号から偉人の名前までを一字一句違えずに解説している様子を思い浮かべてください。その土地の地名の由来や伝説を知らずに名所を回ったときの景色とそれを知ったあとに見た名所の景色はなぜか見え方が違うと思いませんか?
三国志の舞台を巡る中国旅行を計画されている方はぜひ巡回する予定の名所に関する由来や伝説を調べてから旅行に出掛けてください。

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