【後編】一家離散!!各地に散らばった諸葛家

【後編】一家離散!!各地に散らばった諸葛家

前回までは、諸葛3兄弟が散り散りになり、諸葛瑾が呉へ諸葛亮と諸葛均は荊州へ流れたところまでを書きました。さて、後半はいかに…!?


10代後半までの間に父母、そして叔父などの身内を次々に失った諸葛3兄弟。兄の諸葛瑾が呉の官僚となり、諸葛亮は諸葛均を連れて劉表に身を寄せます。そして数年で資金を貯めて暇乞いをし、諸葛均とともに益州から荊州へ移住しました。荊州では晴耕雨読の農夫としてつつましく生活していました。そしてこの時期に諸葛亮は最愛の妻、黄月英を娶りめでたく諸葛家に家族が増えることになりました。また、遠い親戚では諸葛誕が誕生し後に諸葛瑾、諸葛亮と並べて称賛される功臣になるのですが、それはまたあとの話です。

劉備(玄徳)による三顧の礼

劉備(玄徳)による三顧の礼

劉備(玄徳)による三顧の礼

劉備(玄徳)が軍師を求めて諸葛亮の草蘆を三度訪れる故事「三顧の礼」は、諸葛亮が農夫として鳴かず飛ばずだったこの頃に行われたものです。

1度目は不在だったため諸葛均に言伝を頼んで引き上げた劉備(玄徳)御一行。数日後2度目の訪問をするも、またもや不在だったので今度はあらかじめ劉備(玄徳)が用意してきた手紙を諸葛均に託してまたまた引き上げた劉備(玄徳)。

3度目の訪問をしようとすると、義弟の関羽、張飛が「クソガキのためにわざわざ訪ねるなんてばかばかしい」とごねられ、ようやく言いくるめて諸葛亮の草蘆を訪れると、諸葛亮は在宅だったが昼寝をしていたので、劉備(玄徳)は待つことに。ところがイライラが頂点に達した張飛が暴走。制御不能になった張飛は諸葛亮の寝室に放火しました。

煙の息苦しさで目が覚めた諸葛亮は、たまらず外へ飛び出しました。すると、待っていたのは張飛を怒鳴りつける劉備とそれをなだめる関羽の姿。改めて、劉備(玄徳)が諸葛亮を迎えにきた理由を打ち明けると「私ごときにここまでしてくれるとは…」とすっかり感激して諸葛均に草蘆の留守と妻子の世話を命令して、自分は身ひとつで劉備御一行について行ってしまいました。

あまりの突然のできごとに、諸葛均は開いた口がふさがりませんでした。そのうえ、義姉は天文学、風水、気象などに通じた博学の女性であったが、のこぎりは自由自在に使えても、包丁は握れない。からくりの歯車は組めても、針に糸が通せないという家事が全然できないお嫁さんでした。そのため、諸葛亮が抜けた後も家事全般は諸葛均が担当していました。

赤壁大戦前の諸葛兄弟の戦い

赤壁大戦前の諸葛兄弟の戦い

赤壁大戦前の諸葛兄弟の戦い

赤壁大戦を目前にして、呉では降伏派と抗戦派に分かれました。蜀はまだ小勢力に過ぎないので、どうしても呉の力が必要、呉も同じく蜀の勢力がなければ対抗できませんでした。

蜀と呉の同盟を結ぶため、兄諸葛瑾と魯粛と結託して諸葛亮が呉主の孫権と周瑜を説得しにきました。舌先三寸で「孫権の兄嫁と周瑜の妻を曹操が欲しいがために赤壁大戦を企てている。その証拠がこの歌ですよ~」とハッタリをかまして見事、呉と蜀の同盟を結ぶことに成功しました。

その圧倒的な弁舌に孫権は舌を巻き、諸葛瑾になんとか諸葛亮を呉に引き抜けないかと提案します。弟は兄の言うことを聞くものであろうと。ところが、諸葛瑾は自分の弟が頑固者であることを知っていたので、「私が主君を裏切らないように、弟の亮も劉備(玄徳)を裏切ることはありますまい。しかし主君の命とあらば行くだけ行ってきましょう。されど、あまり期待はされぬように。」と言い残して、蜀の陣営まで派遣されました。

諸葛瑾と諸葛亮は挨拶もそこそこに、互いの腹の探り合いをしました。というのも、諸葛亮は諸葛瑾をなんとか蜀に引き入れたかったからです。そして互いに各々の主君の長所を語りはじめ、遠回しに「ウチに来ないか?」というスカウトの応酬を繰り広げていたのですが、なかなかまとまらなかったので、諸葛瑾が兄であることを切り札に「オレに従え」というように構えて見せたのですが、諸葛亮はそれを鼻でフンッと笑うと「兄上は呉主と親しく、そのさまは神交と言われるとか。私も我が君とは親密な絆で結ばれており、魚が水と交わるのと同じです。それに年長がどうとかおっしゃるのなら、呉主こそが我が君に従うべきです。呉主と我が君は親子ほど年齢が乖離(かいり)しているのですぞ。これ以上申すことはありません。お引き取り願います。」
と一蹴しました。

こうして両者一歩も譲らず、ヘッドハンティングは失敗に終わりました。しかしながら、やはり兄弟の情は切っても切れないようで、どちらかの身が危険に晒されることがあれば率先して助け合おうということで折り合いをつけました。

兄弟決別と諸葛均の仕官

兄弟決別と諸葛均の仕官

兄弟決別と諸葛均の仕官

劉備(玄徳)が入蜀し、漢中を得ると呉はいよいよ荊州の返還を求めました。”落ち着く場のない劉備(玄徳)が孫権に借用している”というていで、劉備(玄徳)は荊州に留まることを許されていたのでした。劉備(玄徳)の元へは魯粛が使者として派遣されました。ところが、劉備(玄徳)と諸葛亮はその約束を反故にしました。このせいで呉と蜀の同盟は亀裂が入りはじめ、その関係を修復させるべく、孫権は息子と関羽の娘を政略結婚させる縁談を申し入れます。

縁談を伝えるために派遣されたのは、諸葛瑾です。諸葛瑾は書斎に控えている関羽に謁見すると、挨拶もそこそこに本題である縁談の申し入れをしました。
関羽はもともと赤い顔をさらに赤く染め、「虎(関羽)の娘(こ:娘)を犬(孫権)の子(こ:息子)にくれてたまるかっ!!」と一喝しました。あまりの怖さに萎縮しながらも、なんとか説得を試みる諸葛瑾でしたが、激昂した関羽に危うく斬られそうになり追い返されてしまいます。

これが原因で、呉と蜀の同盟は事実上修復不可能な状態になってしまい。孫権は方針を迅速にシフト変更、赤壁大戦では敵となった曹操と同盟を結んでしまいました。曹操にとってもこれは好都合だったので、あっさり承諾。諸葛瑾と諸葛亮は決別することになってしまいました。

ところが、荊州へ侵攻した曹操が「諸葛亮の家族を人質にすれば劉備を簡単に倒せるだろう」という姑息なことを考えたせいで、諸葛均と月英の捜索が始まりました。これをいちはやく察知した諸葛瑾が諸葛均へ手紙を送って諸葛亮のところへ避難するように知らせました。劉備は諸葛亮の家族を厚遇し、諸葛均は蜀へ仕官することになりました。

諸葛誕が魏に仕官

諸葛誕が魏に仕官

諸葛誕が魏に仕官

諸葛誕は文武両道を極めた優秀な青年に成長し、魏に仕官しました。このころすでに曹操や劉備(玄徳)、関羽、張飛、夏候惇など創業時代の英雄たちは次々にこの世を去り、時代は諸葛亮や司馬懿などの第2世代へ引き継がれていました。諸葛亮は劉備の成しえなかった北伐を、諸葛瑾も将軍のトップとして軍隊を指揮し、息子の諸葛格などの武将を率いて領地の守備にあたっていました。

これをもって「蜀は龍(諸葛亮)を、呉は虎(諸葛瑾)を、魏は狗(諸葛誕)を得た」と揶揄される、蜀・呉・魏に「諸葛」姓の功臣が散らばる構図が出来上がりました。諸葛亮、諸葛瑾の死後も息子や孫の世代が互いに敵対しあい、晋に統一されるまでの間に親戚同士が一致団結することはありませんでした。

引っ張りだこになった諸葛家

引っ張りだこになった諸葛家

引っ張りだこになった諸葛家

魏・呉・蜀などいずれの国が諸葛家の人々を欲しがった理由は諸葛家が優秀な一族だったからです。時代の波に翻弄され身内との死別や離散を経験し、後には兄弟、親戚同士で争うことになってしまいました。

この現象は、春秋戦国時代にも起こっており、儒家(孔子の弟子)たちも同じ釜の飯を食べて切磋琢磨した学友たちと国の盗り合い、命の奪い合いをしました。世の中に優秀とレッテルを貼られてしまえば、そのせいで被る苦痛もあります。優秀なことはいいことが半分、悪いことも半分なのです。

あと200年生まれるのが遅ければ、諸葛3兄弟と諸葛誕は同じ国の功臣として必ず名前が挙げられたはずです。「生まれる時代を間違えた…」というドラマにありがちなセリフは諸葛一族がいちばん似合っていると思います。





この記事の三国志ライター

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