劉備(玄徳)と曹操の死後。三国志終焉の経緯とは

劉備(玄徳)と曹操の死後。三国志終焉の経緯とは

220年代、中国に大きな打撃を与えました。蜀の劉備(玄徳)と魏の曹操が世を去った後、三国時代は晩期に入ります。三国志の目玉といえる戦いは数多くありますが、最後を飾る「五丈原の戦い」も欠かせません。また、新たなる国・晋はどのように誕生したのでしょうか。今回は、三国志終焉の経緯についてご紹介します。


劉備(玄徳)と曹操の死

劉備(玄徳)と曹操の死

劉備(玄徳)と曹操の死

劉備(玄徳)
蜀の初代皇帝。王族・漢の子孫でもあったので、国が「蜀漢」と呼ばれることもあります。
貧しい暮らしを経たあと、猛将の関羽、張飛とともに桃園兄弟の誓いを結びました。その後、10万の民を引き連れて逃げ延びたり、天才軍師・諸葛亮のもとを三度も訪れたりと数多くの逸話を残しています。

曹操
魏の基盤を築き上げた君主。もともと知勇ともに優れていたため、三国志以前から活躍していました。
洛陽を取り締まっていたころ、悪漢・董卓の暗殺に失敗します。以後、優れた武将を集めたことで蜀や呉を上回る戦力を誇りました。
曹操の死後、諸葛亮は北に位置する魏に6度侵攻しました。

桃園兄弟の後を追って

桃園兄弟の後を追って

桃園兄弟の後を追って

219年、樊城の戦いで関羽は呉に殺害されました。これを機に劉備(玄徳)と張飛は、呉への復讐を決意します。しかし、「復讐するにも準備がいる」と述べる部下に対し、張飛は彼らを鞭で叩きました。その夜、酔った勢いで寝込んだ張飛も刺殺されてしまったのです。

呉への復讐「夷陵の戦い」は失敗に終わり、劉備(玄徳)は病に倒れます。諸葛亮はその最期を間近で見届けました。

「息子(劉禅)が政治に向いていない場合は、そなた(諸葛亮)が王になれ」
劉備(玄徳)はそう告げたあと、蜀の未来を劉禅と諸葛亮に託しました。

曹操の警告

曹操の警告

曹操の警告

曹操がある遺言を遺したあと、息子の曹丕が初代皇帝となりました。
「司馬懿はどうも信用できない。お前たちも深く関わるな」
司馬懿は、曹操に才知を買われた名軍師です。曹操は、司馬懿と関わっていくにつれて何かを感じ取ったのでしょう。

余談ですが、関羽が討たれた樊城の戦いでは魏と呉が手を組んでいます。呉のある人物は軍神を殺した罰として「たたり」に遭い、そのまま他界しました。
では、曹操の死は災いによるものだったのでしょうか?

いいえ、魏は関羽の殺害には関わっていないため、災いに遭遇しなかったのです。
恐れた呉が関羽の亡骸を魏に贈り、曹操が手厚く葬ったといいます。

終焉に登場する名将

終焉に登場する名将

終焉に登場する名将

三国時代の晩期では、諸葛亮と司馬懿の二大巨頭が登場します。しかし、以下の3人も欠かせないため、過去の出来事とともにご紹介します。

劉禅
劉備(玄徳)の息子。劉禅が赤子だった頃、名将・趙雲に救出されたことがありました。蜀の第2代皇帝ですが、残念ながら国を治める力に乏しかったといいます。

姜維
元は魏の武将。若いころから知勇に優れていたため、諸葛亮に見込まれた人物です。趙雲との一騎討ちを仕掛けたり、諸葛亮を敗走させたりと驚くべき戦果をもたらしています。

陸遜
呉の軍師。夷陵の戦いでは、感情的な蜀軍を火攻めで追い込みます。その後は諸葛亮の罠「八陣図」に嵌るものの、見事脱出に成功しました。

蜀の頭脳・諸葛亮 孔明

蜀の頭脳・諸葛亮 孔明

蜀の頭脳・諸葛亮 孔明

山中で暮らしていたとき、劉備(玄徳)が3度訪れたことで蜀の軍師になります。「赤壁の戦い」では呉と協力して、屈強な魏を大火計で薙ぎ払います。この時点で、魏は呉と蜀の戦力をはるかに上回っていました。

赤壁の戦い前は呉の軍師らとの舌戦に勝利。その後、大火計のために東南の風を予言したり、10万本の矢を3日で用意したりと天才ぶりを発揮しました。

また、諸葛亮は相手の思考も読み取れるため、敵から大変恐れられていました。劉備(玄徳)の他界後は、劉禅の代わりに国を治めます。

孔明と互角に張り合う魏の司馬懿

孔明と互角に張り合う魏の司馬懿

孔明と互角に張り合う魏の司馬懿

曹操一族4代にわたって仕えた軍師。冷静で忍耐強く、諸葛亮と互角に張り合うほどの頭脳を有しています。
「泣いて馬謖を斬る」の語源となった「街亭の戦い」では、諸葛亮によって失脚。しかし、蜀の馬謖が暴走した隙をついて逆転勝利を収めました。

諸葛亮は司馬懿の失脚を図る際、「反乱を起こす可能性がある」という情報が魏で広がりました。その情報は数十年後に実現したため、諸葛亮の予感は当たっていたのかもしれません。

五丈原の戦い

五丈原の戦い

五丈原の戦い

五丈原の戦いでは、諸葛亮と司馬懿が衝突。北伐は6度にわたって行われましたが、この戦いはその6番目にあたります。蜀は勝利を掴みましたが、諸葛亮が北伐のさなかに没しました。同じく蜀の魏延もこの戦いで謀反を起こしたため、楊儀に(間接的に)斬り殺されました。

諸葛亮の死を知った司馬懿は、撤退する蜀に追い打ちをかけます。しかし、蜀には、諸葛亮がまだ生きているかのような計略を秘めていたため、司馬懿たち魏軍は撤退しました。
これは、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の語源にもなっています。

兵糧不足、魏延と楊儀の不和

兵糧不足、魏延と楊儀の不和

兵糧不足、魏延と楊儀の不和

「魏を征すれば蜀に未来がある」
そう考えた諸葛亮は5度にわたる北伐を行いましたが、兵糧不足に常に悩まされていました。
紆余曲折を経て蜀と呉は再び同盟を締結。このとき呉に救援を求めましたが、陸遜が諸葛亮を警戒したため要請に応じていません。

その一方、魏延と楊儀の溝が深まっていました。勇猛な魏延はプライドが高いことから、楊儀が正面から制止します。この対立は五丈原の戦いでも露見されました。
魏から徹底する間、魏延が橋を焼いたことで楊儀の足止めを企てます。楊儀は足止めを免れたのちに劉禅に報告。魏延も楊儀への怒りをぶつけましたが、満場一致で謀反に走る魏延を斬り殺しました。

死せる孔明、生ける仲達を走らす

死せる孔明、生ける仲達を走らす

死せる孔明、生ける仲達を走らす

それでも蜀は、攻め入る魏を食い止めることに成功し続けました。病を押した魏の武将に対し、手紙で悶絶させます。さらに、張コウを伏兵で射殺することで兵糧不足を知略でカバーしていったのです。

司馬懿も諸葛亮の計略に翻弄されかけたものの、正面からの戦いを避けていました。中でも女性用衣装を送られる嫌がらせが有名ですが、硫黄と地雷を仕掛けられるという恐ろしい計略もあります。

その後、司馬懿は諸葛亮の死を機に追撃を開始。ところが、蜀はある計略をもって司馬懿に反撃したのです。車いすに座る諸葛亮。それは彼を模した木像でしたが、司馬懿は「さすがに死者を相手にできない」と撤退しました。

呉軍、合肥新城の攻略に失敗する

呉軍、合肥新城の攻略に失敗する

呉軍、合肥新城の攻略に失敗する

呉と蜀が再び同盟を組んでも、すぐに救援に応じなかった呉。それでも諸葛亮は再度救援を要請したため、呉は合肥新城に向かいました。

「魏は、蜀からの侵攻に精一杯だろう」
しかし、孫権(呉の皇帝)のその考えはすぐに覆されました。魏は曹丕死後も兵力に余裕があったため、呉の攻撃も見事防ぎます。

そこで呉の陸遜は新たに策を提案。魏の逃げ場を奪ったところで追い打ちをかけるという作戦の手紙を孫権に送ります。
ところが、その手紙を魏軍に奪われたため作戦に失敗。陸遜が撤退を命じたことで、呉軍は無事に帰還しました。

三国の滅亡。晋の時代へ

三国の滅亡。晋の時代へ

三国の滅亡。晋の時代へ

諸葛亮の死後、蜀の未来は姜維に託されました。魏への侵攻は9度にわたって行われましたが、魏からの反撃によって蜀の首都・成都が陥落します。
これに伴い、皇帝の劉禅が魏に降伏。かつて幽州にあった安楽県を治めました。
姜維はそれでも魏への攻撃を企てましたが、作戦が漏れて処刑されます。皇帝も離れたことで、蜀は滅亡に至りました。

一方、魏では司馬懿が曹家一族の1人を殺害します。司馬懿の死後も、息子の司馬昭が彼らを次々と処刑。司馬昭の次は、司馬炎が後を継ぎます。

蜀が滅亡した2年後には、魏最後の皇帝を退位させたのちに晋を建国しました。最後に、晋の時代について少しご紹介します。

司馬一族による晋の時代

司馬一族による晋の時代

司馬一族による晋の時代

晋が呉を滅ぼしたことで、三国時代は終わりを迎えます。このときの呉は暴政だったため、誰も自国を守ろうとしなかったのです。

さて、その後の晋はどうなったのでしょうか?
晋を治めていたのは司馬炎(司馬昭の息子)でしたが、統一した途端に堕落します。司馬炎の死後、王族同志の争いによって国内は大きく荒れました。

晋および司馬一族の時代は150年以上続いたものの、その内部はあまり機能していません。晋の滅亡後は「宋」という国が誕生し、再び新たな時代へと移りました。

三国志の中にある人情

三国志の中にある人情

三国志の中にある人情

関羽の死を機に、三国志は悲しい展開に変わります。
蜀と呉が再び同盟を結んでもなお、魏は相当な兵力を有していました。司馬懿は曹操の時代から仕えていたため、周到な計画を立てていたのでしょう。

また、いくら時代が続いても「誰かを思う心」は不可欠だと考えます。もしそのような心があれば、呉と晋は変わっていたかもしれません。

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」ということわざは、亡き人物が死後も大きな影響を与えることを示します。
生きているうちに自分なりの思いを貫けば、この世を去ったあとも誰かを喜ばせられると筆者は思います。


この記事の三国志ライター

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