魏延の登場
■ 魏延の登場
魏延の登場
魏延、字は文長。荊州義陽郡の生まれです。三国志演義では劉表の配下であり、客将の劉備(玄徳)を親愛していました。劉表の死後、後継者の劉琮は早々と曹操に降伏します。その際、襄陽を訪れた劉備(玄徳)に内応しようと反乱を起こしますが失敗し、荊州南部に落ち延びています。三国志正史では登場が劉備(玄徳)の益州攻略からであり、それ以前の経歴が不明です。三国志演義でも関羽の長沙郡攻略時から劉備に仕えており、入蜀時には黄忠と共に大活躍をしています。この辺りから「あれ、魏延って強いんじゃないか!?」と三国志読者も注目し始めます。
いわくつきの魏延
■ いわくつきの魏延
いわくつきの魏延
魏延というとその武勇以上に性格に問題がある印象が強いです。三国志演義では「反骨の相」という聞いたこともないようなことで、諸葛亮からいちゃもんをつけられます。頭蓋骨が後ろに飛び出しているのが反骨の相であり、これは裏切り者の証だそうです。確かに魏延は主君の長沙郡太守である韓玄を斬って劉備(玄徳)に内応しました。ここで読者には「魏延=裏切者」というイメージが植えつけられます。蜀びいきの三国志演義がなぜ魏延に不利な話を創作したのか、それは後年、魏延を処刑することに正当性を持たせるためです。「魏延は斬られても仕方がない」「むしろ魏延が処刑されてよかった」蜀ファンの読者はそう感じてその処置に疑うこともしません。
周囲と衝突を繰り返す魏延
■ 周囲と衝突を繰り返す魏延
周囲と衝突を繰り返す魏延
魏延の武勇と統率力、判断力は主君である劉備(玄徳)がしっかりと認めています。ただ戦闘に強いというだけでなく、強気な発言で周囲を牽引する力もあり、劉備(玄徳)から漢中の太守に任じられました。対魏の拠点であり、魏が攻めてくる際はまず漢中が戦場となるというほど重要な地です。関羽は荊州を守っていましたから、張飛が漢中太守となると思われていましたが、劉備(玄徳)は魏延を抜擢したのです。魏延はそれだけ政治力にも秀でていたということでしょう。蜀といえば「五虎大将軍」の強さが目立ちますが、実はそこに匹敵する総合力があったのが魏延ではなかったかと思われます。しかし性格は関羽のようにプライドが高く、張飛のように真っ向から自分主張をぶつけていくタイプでした。当然のように周囲との軋轢は強まるばかりです。特に丞相長史の楊儀とは犬猿の仲でした。これは三国志演義、三国志正史ともに同じ見解になっています。立腹した魏延が剣を抜いて楊儀に迫ったこともあったようです。三国志正史には他にも魏延と劉琰の不仲も取り上げています。三国志演義では益州侵攻の際に軍紀を乱す魏延を処刑すべきと黄忠に進言されたり、北伐の際には敵将・司馬懿と併せて諸葛亮の計略によって焼き殺されそうになっています。
第一次北伐で諸葛亮に戦略の進言
■ 第一次北伐で諸葛亮に戦略の進言
第一次北伐で諸葛亮に戦略の進言
そんな魏延ですが、もっとも気になるのが217年から218年にかけての第一次北伐の際の奇襲提案です。北伐の主役はもちろん諸葛亮なのですが、あろうことか魏延はあの天才軍師と呼ばれる諸葛亮の戦略にクレームをつけます。なかなかできることではありません。そんなことができるのは、よっぽど何も知らないか、諸葛亮に匹敵する戦略家のどちらかでしょう。諸葛亮はきっちりと時間をかけてこの第一次北伐の計画を練っています。隙などあろうはずがありません。何を言っているんだ・・・三国志読者もあきれ返ります。はたして魏延の提案した奇襲作戦とはどのようなものだったのでしょうか。
長安奇襲作戦
■ 長安奇襲作戦
長安奇襲作戦
蜀の最前線拠点である漢中から魏の領地を攻める道筋はいくつもあります。当初の予定では東の上庸を守る孟達が蜀に寝返ることになっており、魏の兵を分散させることが可能でしたが、司馬懿に見抜かれ孟達は討たれます。荊州への進軍の道は完全に断たれ、海抜2000mを超える秦嶺山脈を踏破することが必要不可欠となってしまいました。ここで漢中から長安を攻める最短ルートが「子午谷道」です。とても険峻であり、かつ敵が最も警戒するルートです。しかし敵は魏の皇帝である曹叡(明帝)が親征して長安に駐在していました。もし子午谷道のルートを攻める作戦が成功したら皇帝の首を獲れるかもしれません。まさに「ハイリスク・ハイリターン」の作戦といえます。その後も諸葛亮は北伐を何度も実行することになりますが、実はこの子午谷道のルートは一度も選択していないのです。これを提案したのが魏延でした。
祁山迂回ルート
■ 祁山迂回ルート
祁山迂回ルート
諸葛亮が選んだ作戦は、大軍を危険にさらさずに移動させ、さらに敵の意表を突くものでした。漢中から北へ出るルートは、子午谷道よりも西の駱谷道、そしてさらに西の褒斜道があります。メインルートはさらに西の散関から陳倉に出るルートです。諸葛亮は蜀の将兵にも褒斜道から魏を攻めることを告げました。そして趙雲、鄧芝を向かわせます。しかしこれは誘導でした。長安を守る主将である曹真をこちらにひきつけ、諸葛亮率いる本隊ははるか西の祁山を迂回し、天水方面から長安を突くのです。天水、南安、安定の三郡は諸葛亮の北伐に呼応し、作戦は順調に進みます。しかし重要拠点である街亭を馬謖の失態で失ったことで、諸葛亮の本隊が漢中と分断される危険性が出てきました。こうして北伐は失敗に終わったのです。魏延は諸葛亮の作戦が慎重すぎることと、馬謖の無様な失敗を悔しがりました。
まとめ・魏延の提案を受け入れていたら
■ まとめ・魏延の提案を受け入れていたら
まとめ・魏延の提案を受け入れていたら
魏延は一万の兵で奇襲させてほしいと提案したのです。一万の兵で長安の城を落とせるはずがありません。しかし魏をさらに混乱させ、分断させることは可能だったかもしれません。万が一、魏延の猛攻によって長安への道が開けていたら、魏の張郃も街亭を押さえるどころではなかったはずです。戦局に多大な影響を与えたことは間違いありません。ただしこれは後詰も期待できない決死の奇襲攻撃であり、全滅の危険性に満ちています。もし諸葛亮に一万の兵と魏延を見殺しにできる非情さがあったら、この誘導もまた効果的な作戦として選ばれたことでしょう。結果、諸葛亮の北伐は成功していたかもしれないのです。歴史が変わるそんな奇襲作戦になったかもしれないと考えると、ぜひ実行してみてほしかったと思ってしまいますね。