諸葛亮が命をかけた北伐の戦歴

諸葛亮が命をかけた北伐の戦歴

漢王朝の復興をかけて、蜀を建国した劉備(玄徳)ですが、志半ばで倒れてしまい、後の全権を諸葛亮(孔明)に託すこととなります。諸葛亮(孔明)は全身全霊をかけて、強大な魏に立ち向かい、幾度となく北伐を繰り返します。最終的には魏を倒すことができなかった北伐ですが、その戦歴はどのようなものだったのでしょうか。


南方の憂いを無くして出陣の意思を固める

南方の憂いを無くして出陣の意思を固める

南方の憂いを無くして出陣の意思を固める

劉禅(公嗣)が蜀の第2代皇帝に即位すると、諸葛亮(孔明)は足場を固めるために呉と同盟を復活し、益州南部に反乱が起こるとただちに軍を差し向けて鎮圧しています。北伐のためには南方から反乱を起されないように気を付けており、豪族の孟獲を相手に武力で降伏させてもいずれは裏切る可能性が高くなるため、若くして抜擢された馬謖(幼常)の進言もあって諸葛亮(孔明)は何度も解放しては捕えることを繰り返していきます。遂には孟獲を心服させることに成功しました。

後方の憂いが無くなり、呉との同盟が成し得ると、諸葛亮(孔明は)大規模な北伐を実行していきます。このとき、諸葛亮(孔明)が皇帝である劉禅(公嗣)に奏上したのが有名な「出師表」です。

これには劉備(玄徳)への感謝と若い劉禅(公嗣)には人材の大切さを説き、漢王朝の復興へ向けての決意を述べています。自身が遠征に出かけるので、留守を任せる劉禅を心配したといわれています。もしかしたら諸葛亮(孔明)は、強大な魏に立ち向かうのに、生きて帰れないかもしれないと悟っていたのかもしれません。

中原へ後一歩に迫った第一次北伐

中原へ後一歩に迫った第一次北伐

中原へ後一歩に迫った第一次北伐

魏国では曹丕(子桓)の跡を継いで曹エイ(元仲)が第2代皇帝に即位していました。劉備(玄徳)や関羽(雲長)、張飛(翼徳)、馬超(孟起)ら魏を苦しめた人材がすでに亡く、魏は蜀への警戒を怠っていました。

228年に出陣した諸葛亮(孔明)は趙雲(子龍)を囮として先陣にし、自身は西から回り込んで行軍していきます。蜀軍の侵攻を受けて、魏の内地では3郡が降伏していきます。その途中では、後に蜀の軍権を司る姜維(伯約)が諸葛亮に帰順しています。

慌てた魏は曹真(子丹)と張コウ(儁乂)を派遣します。曹真(子丹)は大軍を以って漢中から趙雲を攻めて打ち破りますが、これはもともと諸葛亮の策であり、趙雲はあくまでも囮に徹して敵軍を引きつける役目を担っていました。

一方諸葛亮(孔明)は街亭に布陣して張コウ(儁乂)を迎え撃つ役目に馬謖(幼常)を抜擢します。歴戦の強者である呉懿(子遠)や魏延(文長)を推す声も挙がりましたが、諸葛亮(孔明)は馬謖(幼常)の才能を愛しており、一任することにしました。

諸葛亮(孔明)は必ず道筋を抑えて山中には陣を構えるなと指示を出しますが、馬謖(幼常)は自身の策略に驕り、指示に背いて見晴らしの良い山上に陣をはります。副将らの進言を聞くこともなく、張コウ(儁乂)に水を絶たれてしまい、焦った馬謖(幼常)は討ってでますが、待ち構えていた張コウ(儁乂)に散々にやられ、蜀軍の大半を失ってしまいます。

泣いて馬謖を斬る

泣いて馬謖を斬る

泣いて馬謖を斬る

諸葛亮(孔明)は全軍退却の指示を出しており、戦犯となった馬謖(幼常)は斬首されています。諸葛亮(孔明)はその才能を一番理解しており、この判断には大きな悔いが残ってしまいました。もしもこの戦いで勝利していれば、長安に進出して一気に魏を倒す算段だっただけに、諸葛亮(孔明)の無念さは計り知れないものだったのでしょう。

街亭の戦い以降、魏は蜀への警戒を続けるようになり、北伐が容易ではなくなってしまいます。それだけに馬謖(幼常)の犯した失態というのは大きく、その後の蜀の運命を司ることになっていきました。

第二次北伐では諸葛亮が敗北

第二次北伐では諸葛亮が敗北

第二次北伐では諸葛亮が敗北

諸葛亮(孔明)は同年春に、再び北伐を開始し、大軍を以って陳倉に進出します。しかし、魏の大将軍になった曹真(子丹)は、事前に諸葛亮が北伐をすぐに再開して陳倉城を通過することを予測し、あらかじめ防壁を強化していました。

夏には魏軍が大軍で呉を攻めていますが、名将の陸遜(伯言)によって大敗を喫し、蜀軍の侵攻には援軍を期待できない状況でした。諸葛亮(孔明)はその隙をついて陳倉城を攻めます。

陳倉城を守るのはカク昭(伯道)で、諸葛亮(孔明)が直接指揮を執って臨みますが、懸命に死守し、遂には蜀軍の兵糧が尽きて退却する羽目になっていきました。魏軍は追撃を開始しますが、諸葛亮(孔明)は巧みに反撃し、将軍の王双を討ち取っています。

司馬懿と対決する4回目の北伐

司馬懿と対決する4回目の北伐

司馬懿と対決する4回目の北伐

翌229年の春には第三次北伐を行います。食料輸送の難があることから、ここでは魏への道筋を作るため、益州北部の2郡を制圧することで退却しています。

諸葛亮(孔明)は、しばらく国力を高めるために出陣を控えていましたが、231年には再度四度目の北伐を決行します。この北伐に対し、魏は司馬懿(仲達)を派遣していきます。蜀軍は二手に分かれ、祁山を包囲する動きを見せて、王平(子均)を別働隊としていきます。

司馬懿は自身が率いる本軍を諸葛亮へ向け、王平には張コウ(儁乂)を差し向けます。王平は懸命に陣を守備しており、張コウ(儁乂)は退却せざるを得なくなります。

張コウを討ち取る

張コウを討ち取る

張コウを討ち取る

一方諸葛亮は局地戦で司馬懿に勝利し、蜀軍が有利になっていきます。しかし、大雨が続き食料輸送が困難に陥ると、撤退を余儀なくされます。諸葛亮(孔明)は司馬懿(仲達)が追撃をしかけてくると予測し、伏兵を潜ませていました。

司馬懿は張コウに追撃を命じますが、伏兵の弓矢部隊によって射殺されてしまいます。歴戦の武勇を誇った張コウを討ち取られた魏国内は大いに悲しみに暮れたといわれています。司馬懿は諸葛亮に畏怖を抱き、討ってでることは危険であると認識し、以降の戦い方を変更することになっていきました。

五丈原の戦い

五丈原の戦い

五丈原の戦い

連戦を続けていた蜀は、国力の疲弊を回復するべく力を蓄えていきました。234年に10万にも及ぶ大軍を以って北伐を開始しています。どうしても持久戦になると遠征軍だけに不利なだけに、諸葛亮(孔明)は五丈原に進出して兵たちに屯田を敷かせます。現地で刈入れを行えば、食料難に陥ることもなくなり、長期に渡って遠征することが可能といえました。

一方の魏軍は司馬懿(仲達)が総大将として赴き、渭水の南に陣を築きます。諸葛亮は司馬懿に対して搖動作戦を実行しますが、諸葛亮の怖さを身に染みて分かっている司馬懿は討って出ることなく、持久戦を繰り広げます。蜀軍の執拗な挑発に、魏軍の中には討ってでるべきであると主張する将軍もいましたが、司馬懿は皇帝直々に持久戦に持ち込むべきとの指示がでているとして、諸将を納得させていました。

諸葛亮の死で終結

諸葛亮の死で終結

諸葛亮の死で終結

同時期に呉軍が魏へ攻め入りますが、敗れ去ってしまい、呉軍は全軍退却をしています。両面から攻めたてる作戦を敷いていた諸葛亮は司馬懿が討って出てこないことを悟り、この戦いでの敗北を実感していました。

諸葛亮は自身が病になり、死期が迫っていたのを受けて、自分の死後に魏軍が追撃してくることを予測し、また、魏延が反乱を起すであろうとして策を残していいました。諸葛亮は陣中で亡くなり、蜀軍が退却していく様をみて、司馬懿は追撃しますが、蜀軍の抵抗によって中止しています。司馬懿は諸葛亮が去った陣営を見て「天下の奇才」という評価を残しています。

諸葛亮によってもたらされた北伐は、第一次の街亭において勝利していれば、長安にまで進出していただろうといわれています。諸葛亮の死後、蜀は魏に攻め滅ぼされてしまいますが、その存命中は攻められることがなかったことを踏まえると、いかにその存在が大きく、魏によって驚異だったかを物語っています。





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