【前編】一族離散!!各地に散らばった諸葛家

【前編】一族離散!!各地に散らばった諸葛家

漢の劉氏や魏の曹氏、夏候氏、蜀に仕えた馬氏の五常など、通常はどこの国でも親兄弟、親戚は同じ君主に仕えています。ところが、諸葛亮孔明の兄弟、親戚はみな優れた功臣ですが、兄は呉に、はとこは魏に仕えています。血の結束は固いと言いますが、兄弟、親戚同士で争うことになってしまった諸葛家の悲劇の一部始終をお伝えします。


諸葛3兄弟の家族構成

諸葛3兄弟の家族構成

諸葛3兄弟の家族構成

諸葛3兄弟は徐州は琅邪郡の出身です。父親は諸葛珪といって、漢王朝の官僚をしており泰山郡丞(郡のナンバー2)の役職に就いていました。
生母は章氏、継母を宋氏といい長姉(名前不明)、次姉(名前不明)、諸葛瑾、諸葛亮、諸葛均、妹(異母妹:名前不明)という家族構成でした。

まるでホームレス中学生

まるでホームレス中学生

まるでホームレス中学生

一昔前、お笑いコンビ「麒麟」の田村さんが、自身の中学時代の自叙伝を出版しました。本のタイトルは「ホームレス中学生」。こちらの本では、田村さんが彼の父の「解散!!」のひとことで兄、姉、母、父と一家離散し、公園の遊具の中で寝泊まりしながら、段ボールや雑草を食べたりして生き延びたという壮絶な中学時代のエピソードがつづられています。

さすがにここまで壮絶ではありませんが、みんさんもよく知る三国志には欠かせないキャラクターが
一家離散を経験しています。それは、諸葛瑾、諸葛亮、諸葛均の諸葛3兄弟と親戚の諸葛誕です。

生母の死

生母の死

生母の死

諸葛家でいちばん先に離れていったのが、諸葛3兄弟の生母です。生母とは諸葛亮、諸葛均がまだ幼い頃に死別してしまい、諸葛瑾が父親の後妻である継母を実の母のように敬ったので、諸葛亮、諸葛均もそれにならいました。諸葛均は生まれてすぐに、諸葛亮もまだ物心がついていない年齢だったそうで、実の母の温かみはわからなかったそうです。

諸葛瑾の上洛

諸葛瑾の上洛

諸葛瑾の上洛

諸葛亮が物心ついたころ、兄の諸葛瑾は学問をするため後漢の首都洛陽へ巣立ちました。諸葛亮と諸葛瑾は7歳差の兄弟ということですので、諸葛瑾が親元を離れたのは10~11歳くらいだと思われます。

家族がバラバラに

家族がバラバラに

家族がバラバラに

姉の嫁入り

姉の嫁入り

姉の嫁入り

諸葛3兄弟には2人の姉がおり、いちばん年長の姉は蒯祺へ嫁ぎ、2番目の姉は諸葛亮に「臥龍」、龐統に「鳳雛」と渾名をつけた龐徳公の息子に嫁ぎました。龐統は龐徳公の甥っ子にあたるので、諸葛亮はまさか姉の嫁ぎ先の従兄弟が後に親友となり、同じ君主に仕え、蜀漢の創業を輔けるとは露ほどにも思っていなかったことでしょう。

こうして、諸葛家から2人が巣立ちました。

父との別れ

父との別れ

父との別れ

生母の死から時待たずして、またまた諸葛家から家族が減りました。諸葛3兄弟の父親です。父親の諸葛珪は元来病気がちだったそうで、諸葛瑾14歳、諸葛亮7歳のときに病のため亡くなりました。父親の死後、諸葛一家は本格的に離れ離れになります。

まず、諸葛瑾は勉強するために洛陽にいたため、下宿をしていました。その上、元服(成人)前で就職もしていませんでした。諸葛瑾は当初、継母と兄弟を引き取るつもりでしたが、「それでは荷が重すぎるだろう」ということで父親の弟で叔父にあたる諸葛玄が諸葛亮と諸葛均の後見人に名乗り出ました。

そのため、諸葛瑾は継母を、諸葛玄(叔父)は諸葛亮と諸葛均をそれぞれ引き取りました。ちなみに妹についてはこの後どうなったのか記録がありません。もしかすると、姉の元へ行くか諸葛瑾が継母とともに引き取っていたのかも知れません。

従兄弟と過ごす諸葛亮と諸葛均を襲った悲劇

従兄弟と過ごす諸葛亮と諸葛均を襲った悲劇

従兄弟と過ごす諸葛亮と諸葛均を襲った悲劇

叔父の諸葛玄に引き取られた諸葛亮と諸葛均は、従兄弟である諸葛玄の子供たちと平和に暮らしていました。叔父の諸葛玄も漢の地方官僚の仕事に就いていました。諸葛亮が16歳になったころ、諸葛玄は袁術に豫章太守に赴任することを命ぜられました。しかし、本来太守という役職は朝廷から派遣されるのですが、この頃袁術は自称天子という似非皇帝だったので、真面目な諸葛玄はこれを無視することができず、豫章に赴任しました。
ところが、漢の朝廷では正式に朱皓が豫章太守に任命されました。漢朝廷と袁術の板挟みに巻き込まれてしまった諸葛玄は職場を追い出されてしまい、突然失業してしまいます。これではマズイということで、旧知の仲だった劉表に諸葛亮、諸葛均の養育を頼みました。それから間もなく、諸葛玄は笮融が扇動した人民反乱に巻き込まれて殺害されてしまいました。

諸葛亮の書生時代

諸葛亮の書生時代

諸葛亮の書生時代

諸葛亮と諸葛均は書生として劉表に仕えました。書生というのは家賃の代わりに雑用や稼業の手伝いをしながら下宿、居候をする学生のことです。今風に言い換えると学校に通学しながらハウスクリーニングや事務員のバイトをしている学生といったところでしょうか。

諸葛亮はこの頃に劉表から支給されていたお小遣い(報酬?)を貯金して、荊州へ移住する元手にしました。また、一説では劉表が「自力で生活していきたい」と決心した諸葛亮の申し出に痛く感激し、常々旧友の諸葛玄を助けられなかったことを悔やんでいて諸葛兄弟に何かをしてあげたいという気持ちがあったことから、隆中の田畑と空き家を手配して生活できるように仕立てたとも言われています。

諸葛瑾の落ち着かない生活

諸葛瑾の落ち着かない生活

諸葛瑾の落ち着かない生活

諸葛亮と諸葛瑾が叔父や劉表を頼って何とか生活をしている頃、兄の諸葛瑾も慌ただしい生活を送っていました。諸葛瑾は学問を修めるために洛陽へ移住していましたが、このころは董卓が権力にものを言わせていた時代です。董卓VS反董卓連合の戦乱の最中、董卓は長安への遷都を無理矢理強行しようと洛陽を焼き払います。この戦災から逃れるべく、諸葛瑾は継母を連れて揚州に移住しました。そのあとは、何とか生活できるように働いて日々を過ごしていました。この時期はちょうど呉の孫策が亡くなって孫権が呉主に就任したばかり。孫権の義理の兄が諸葛瑾の非凡さを買い、官僚に推薦してくれたおかげで、呉に就職しました。

諸葛亮と諸葛均、荊州へ移住!!

諸葛亮と諸葛均、荊州へ移住!!

諸葛亮と諸葛均、荊州へ移住!!

劉表を頼って数年、諸葛亮は諸葛均を連れて農夫となることを決めました。劉表はこれを許したので、諸葛亮は弟の諸葛均を連れて荊州へ移住することになりました。
諸葛亮は劉表から持たせてもらったお金と貯金を使って小さい草蘆(そうろ:屋根が草でできた庵)で、農業を営みながら生活しました。
未経験な農業を営むにあたり、近所の農家から野菜の栽培方法などを聞いたり手伝ってもらったりしてなんとか生活していました。

諸葛瑾は弟たちが飢えないように仕送りをしていました。諸葛亮は本を買うのに糸目をつけなかったので、時には2人の一週間分の食費を使ってしまうこともあったそうです。そのため、諸葛均が財布の紐を握っていました。諸葛亮はこの時期に黄承玄の娘の月英と結婚し、兄の仕送りと嫁の実家の支援を受けて質素に暮らしていました。

まとめ

まとめ

まとめ

諸葛3兄弟は幼少期~十代にかけて両親の死、姉の嫁入り、兄弟の離散、叔父の死など親しい人々を亡くし、厳しい現実に直面しました。
諸葛誕は諸葛亮が荊州で生活していたころにやっと生まれました。これまで結構な文字数を書いてまいりましたが諸葛家はこの後ますます決別していきます。次回にこうご期待!!





この記事の三国志ライター

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