実力は正史でも評価されていた蜀の猛将「魏延」
■ 実力は正史でも評価されていた蜀の猛将「魏延」
実力は正史でも評価されていた蜀の猛将「魏延」
魏延(ギエン 生年不明―234年)といえば「裏切り」が真っ先に思いつく三国志ファンのかたもいることでしょう。確かに魏延は諸葛亮(ショカツリョウ 181年―234年)にたびたび反目し、彼の死後、実権を握ろうとしていました。しかし、魏延は実はかなり優秀な武将であって、実際に蜀の中軸を担う人材でもあり、諸葛亮にも評価されていました。魏延が残した功績を見ていきましょう。
劉備(玄徳)の入蜀時から貢献していた魏延
■ 劉備(玄徳)の入蜀時から貢献していた魏延
劉備(玄徳)の入蜀時から貢献していた魏延
魏延は211年に劉備(玄徳)(リュウビ 161年―223年)が入蜀するとき、その配下としてたびたび貢献していました。劉備(玄徳)は間近で魏延の働きを見ていたので、その信頼は厚いものでした。
当時は蜀に入りたてで人心を掌握し、善政を敷いて国力を高めていくことが目的とされており、強大な相手となる魏や呉への備えとして、激戦の荊州(呉と魏に対する要の地)には関羽(カンウ 生年不明―220年)を置いていました。
劉備(玄徳)はもう一つの魏の牽制として漢中の太守には張飛(チョウヒ 生年不明―221年)ではなく、魏延を任命しています。魏延は劉備の前で漢中を死守することに対し、命をかけても曹操(ソウソウ 155年―220年)の大軍から守ると宣言しており、劉備(玄徳)から感心を受けていました。
劉備(玄徳)死後の諸葛亮時代も貢献
■ 劉備(玄徳)死後の諸葛亮時代も貢献
劉備(玄徳)死後の諸葛亮時代も貢献
劉備(玄徳)が223年に死去すると、諸葛亮が全権を掌握することになりますが、魏延の待遇は変わらないままでした。諸葛亮は国力を高めて、南征を完了させると、228年に魏へ向けて北伐を開始します。劉備(玄徳)の遺志を継いだこの北伐では、魏延は前線部隊の指揮官を任されており、諸葛亮からも武勇には信頼を置かれていました。
別働隊を率いることを却下されて徐々に不満を覚えていく
■ 別働隊を率いることを却下されて徐々に不満を覚えていく
別働隊を率いることを却下されて徐々に不満を覚えていく
魏延は諸葛亮に自身も別働隊の1万を率いて、侵攻することを提案しますが、諸葛亮に却下されています。諸葛亮存命時に北伐は5回行われており、魏延はたびたびこの作戦を提案しており、すべて却下されています。このことから、魏延は諸葛亮に対し、「自分の能力を過小評価している」「諸葛亮は臆病である」という認識を抱いていきました。
魏軍を退ける大活躍で出世していく
■ 魏軍を退ける大活躍で出世していく
魏軍を退ける大活躍で出世していく
230年に魏の大将軍となっていた曹真(ソウシン 生年不明―231年)は大規模な南征を行い、漢中へ侵攻してきます。この背景には第三次北伐を敢行していた蜀の国力が低下していると睨んでの出陣であったといいます。
この出陣には魏の実力者でもある司馬懿(シバイ 179年―251年)も参戦しており、曹真とは別働隊で漢中を目指してきました。さらに漢中を迂回して北方からは魏の名将張コウ(チョウコウ 生年不明―231年)が攻めてきました。このルートは諸葛亮にとっても意外性があり、攻めの行軍には使っても、守備を意識してはいませんでした。
しかし、9月に入り、長期間の雨による影響で道は分断されてしまい、魏軍は戦わずして退却していきます。諸葛亮は北方ルートを見直し、漢中よりも北に位置する羌中に注目し、この地に住んでいる独立勢力の羌族を味方につけるように画策します。
羌中の戦いで魏軍を破る活躍
■ 羌中の戦いで魏軍を破る活躍
羌中の戦いで魏軍を破る活躍
諸葛亮は魏延に羌中へ侵攻するよう命じます。これは侵略するのではなく、魏によって制圧されている羌族を助ける意思があることを示すものであり、北伐に協力させる目的がありました。
魏延は漢中から出陣して魏軍の郭淮(カクワイ)と費曜(ヒヨウ)を討ち破り、魏延は征西大将軍に昇進し、仮節を与えられました。仮節とは皇帝の許可がなくても代りの権限を有していることを意味し、三国志の時代には軍令の違反者を処罰(死罪)できました。また、将軍の上位に位置する意味でも捉われていたともいわれ、複数の将軍を率いることができたともいわれています。
軍務・政務・人事のすべてに携わっていた諸葛亮がこのような裁量を与えたというのは、魏延に対して一定以上の評価をしていたことがうかがえます。
魏の総司令官司馬懿を撃退
■ 魏の総司令官司馬懿を撃退
魏の総司令官司馬懿を撃退
蜀は231年、第四次北伐を敢行すると魏延も先鋒隊として参戦します。蜀軍は陳倉(漢中の北寄り)に出陣し、魏は先に張コウが布陣すると、諸葛亮は祁山まで後退します。曹真は病に倒れており、代わりに総司令となった司馬懿が合流すると、各地で小規模な戦闘が起こりますが、どれも決定打にならず、諸葛亮は魏延らを率いて祁山の東に位置する鹵城(ロジョウ)に強固な陣を築きます。
司馬懿は諸葛亮の策略によって短期決戦を余儀なくされ(山に陣を築くが包囲されて、ふもとの麦を刈り取られていた)、鹵城を攻めますが、司馬懿の正面には魏延が布陣し、高翔(コウショウ)、呉班(ゴハン)らとともに魏軍を撃退しました。張コウが魏延らの陣に攻めず、南方に布陣していた王双(オウソウ)と戦闘状態になっていたのも功を奏しました。
しかし、蜀軍は食料不足に陥り、撤退を余儀なくされてしまいます。魏軍は張コウが追撃をしますが、魏延ら蜀軍は退却するときも諸葛亮の策略によって伏兵を用いており、張コウは弓矢を受けて戦死しています。
誰も意見ができない宿将となっていた魏延
■ 誰も意見ができない宿将となっていた魏延
誰も意見ができない宿将となっていた魏延
第四次北伐を終えた蜀ですが、魏延の発言力は大きくなっており、関羽・張飛・馬超・黄忠といった諸将はすでに亡く、魏延に対抗するのは諸葛亮の直属で、軍の事務型筆頭ともいえる楊儀(ヨウギ 生年不明―235年)だけでした。しかし、魏延は武力に長けており、楊儀に剣を向けて脅すような仕草を見せていました。これに対して諸葛亮に参戦していた政務のトップである費イ(ヒイ 生年不明―253年)が間に入ることによって、事なきを得ています。
諸葛亮は2人の才能を理解しており、仲が悪いことを悩んでいました。諸葛亮はすでに自分の死期を悟っており、自分の死後に魏延が反乱を起すようであれば、それを収拾することは難しいであることを考えていました。
諸葛亮の死後、退却せずに指揮官となって戦おうと決意
■ 諸葛亮の死後、退却せずに指揮官となって戦おうと決意
諸葛亮の死後、退却せずに指揮官となって戦おうと決意
魏延は234年の第五次北伐にも先鋒隊として参戦します。間もなく五丈原に陣を敷いていた諸葛亮が病死してしまいます。諸葛亮は死の間際、楊儀・費禕・姜維(キョウイ 202年―264年)といった諸将を集めて、密かに退却の指示を出します。魏延に殿を任せ、もしも指示に従わない場合にも迷わず退却するように指示しています。
魏延は諸葛亮の死を聞きつけると、自分が実権を握り、指揮官となって北伐を続けることを言い放ちます。しかし、軍を掌握していた楊儀は退却の指示をすでに出しており、魏延は怒り狂って楊儀を討とうとします。
裏切り者扱いを受けて殺される
■ 裏切り者扱いを受けて殺される
裏切り者扱いを受けて殺される
魏延は先に蜀の皇帝劉禅(リュウゼン 207年―271年)に楊儀の裏切りを報告しますが、楊儀もまた同じように魏延の裏切りを報告していました。劉禅は幕僚の蒋エン(ショウエン 生年不明―246年)と董允(トウイン 生年不明―246年)の意見を参考にし、魏延に疑いの目をかけてしまいます。
そうとも知らずに魏延は楊儀と戦闘状態になりました。楊儀は王双に魏延の相手をさせ、王双は魏延の部隊に対して、国の中心ともいえる諸葛亮の死後に、「どうして仲間内で戦闘しているかをよく考えろ」ときつく言い放ち、指示を聞かない魏延の非を認めた兵たちはこぞって逃げ出しました。
魏延は子どもとともに、漢中に逃げますが、魏に降ることはなく、追ってきた馬岱(バタイ)によって切り殺されてしまいます。
まとめ
■ まとめ
まとめ
魏延は裏切り者として扱われていますが、最期まで魏に降服をするわけでなく、兵を率いて魏軍を倒そうとしていました。これは決して国を裏切ったわけではなく、武人としてのプライドや亡き劉備(玄徳)を思いやっての行動だったのではないでしょうか。もしも諸葛亮の北伐が成功していたら、魏延は功労者として祀られていたかもしれません。