現実の名武将も演義では脇役扱い
■ 現実の名武将も演義では脇役扱い
現実の名武将も演義では脇役扱い
三国志演義(以下:演義)は蜀を建国した劉備(玄徳)(リュウビ 161年―223年)を主人公に添えており、強大な勢力を誇る曹操(ソウソウ 155年―220年)を悪役にして、関羽(カンウ 生年不明―220年)や張飛(チョウヒ 生年不明―221年)、趙雲(チョウウン 生年不明―229年)といった猛者と諸葛亮(ショカツリョウ 181年―234年)の鬼神的な知力が際立って描かれています。
そんな演義で三国志を見聞きした人にとっては、正史の名武将もただの脇役となります。そこで正史ではいっぱしの武将でありながら、演義上では名脇役になっている武将を見ていきましょう。
演義の狼狽ぶりとは雲泥の差を感じる呉の名将【魯粛】
■ 演義の狼狽ぶりとは雲泥の差を感じる呉の名将【魯粛】
演義の狼狽ぶりとは雲泥の差を感じる呉の名将【魯粛】
呉の都督にまで昇進した魯粛(ロシュク 172年ー217年)は、演義では諸葛亮と周瑜(シュウユ 175年―210年)との間で翻弄される役割となっており、到底2人には及ばない人物として描かれています。
しかし、魯粛は正史になるとその活躍ぶりは演義と雲泥の差といえます。裕福な家柄に生まれ、困っている人のためには私財を投げ打ち名声を高めていました。まだ呉に属していないころの県令(知事のようなもの)だった周瑜に対して食料の援助を行うなど、各地の名士と親交を深めていました。
魯粛は周瑜の勧めもあって孫権(ソンケン 182年―252年)に仕えるようになると、曹操を倒すには軍事的要となる荊州を取り、地盤を固めてから討って出るべきであると、諸葛亮の【天下三分の計】と同様の展開を進言しています。
曹操の南下が始まると、呉の国内では降服論が多数を占めていました。魯粛は劉備(玄徳)と同盟を結んで共に対抗するべきであると述べており、周瑜とともに開戦を主張していきます。孫権は魯粛の進言に従い、劉備(玄徳)との同盟に使者として魯粛を派遣します。魯粛は劉備陣営で軍師となっていた諸葛亮と親睦を深め、諸葛亮もその才能を認めていたと言います。
周瑜亡き後、呉の総大将的な立場に
■ 周瑜亡き後、呉の総大将的な立場に
周瑜亡き後、呉の総大将的な立場に
孫権が赤壁の戦いに勝利すると、劉備(玄徳)は曹操の領地である荊州南部の四郡を奪います。劉備(玄徳)が孫権の元へ赴いているとき、劉備(玄徳)が力を蓄えることは、呉にとって脅威となると踏んだ周瑜は、孫権に劉備(玄徳)を呉から返さないことを提案します。その上で荊州を占領し、益州まで手に入れて、天下を二分し、曹操に対抗する案を打ち出します。
しかし、魯粛はまだ曹操に対抗するには力がないと訴え、あくまでも劉備(玄徳)たちに力を与えて共に曹操に対抗することが必要だと訴えます。孫権は両方の案をとり、劉備(玄徳)は返すものの、周瑜に荊州侵攻を許可しています。
その矢先に周瑜が戦場の矢傷が原因で36歳という若さで亡くなると、後継者に魯粛を指名しており、以後は魯粛の方針に乗っ取って劉備(玄徳)との協調が進められていきます。
関羽相手に一歩も引かない魯粛
■ 関羽相手に一歩も引かない魯粛
関羽相手に一歩も引かない魯粛
荊州の守備に関羽が就くと、しばしば呉との争いが起こります。魯粛は関羽に対しても一歩も引かず、一人で交渉をまとめていきます。演義では関羽に一喝されてしまいますが、正史では同行者を怒鳴りつける凄みを見せて、毅然とした態度で関羽との交渉に臨んだといわれています。魯粛は217年に惜しまれつつも死去します。孫権は直々に葬儀に参列するほど悲しみ、諸葛亮も喪に服したといいます。
諸葛亮亡き後、蜀を支えた三名臣
■ 諸葛亮亡き後、蜀を支えた三名臣
諸葛亮亡き後、蜀を支えた三名臣
演義では諸葛亮の死を以って物語はクライマックスを迎えようとしています。一方で正史では、諸葛亮の死後を託された、費イ(ヒイ 生年不明―253年)、蒋エン(ショウエン 生年不明―246年)、董允(トウイン 生年不明―246年)らによって蜀は国力を衰退することなく、魏にも攻められることはありませんでした。
彼らは諸葛亮と並んで蜀の四相ともいわれており、どのような活躍をしていたのでしょうか。
冷静沈着で諸葛亮の後継者となった【蒋エン】
■ 冷静沈着で諸葛亮の後継者となった【蒋エン】
冷静沈着で諸葛亮の後継者となった【蒋エン】
実質的な諸葛亮の後継者は蒋エンです。若い頃からその才能を見出されており、政治的手腕に優れており、諸葛亮が北伐を敢行しているときには留守を預かり、国力の安定を図っていました。また、諸葛亮が存命時はその補佐として大いに敏腕を奮っています。
諸葛亮が亡くなったあと、蜀内では不安が広まっていましたが、後を託された蒋エンが全く動じずに平常心で仕事をしているのを見て、人々は安心したといいます。諸葛亮の意思を継いで北伐を企画していきますが、病にかかってしまい、246年に亡くなってしまいます。
国力の安定を図った名宰相【費イ】
■ 国力の安定を図った名宰相【費イ】
国力の安定を図った名宰相【費イ】
費イは董允と友人であり、劉備(玄徳)の嫡男である劉禅(リュウゼン 207年―271年)の補佐に付きます。費イは諸葛亮によって才能を見出され、低い身分ながらも諸葛亮と同行することを許されていました。呉へ使者に赴いた時には孫権によって評価されており、蜀の中心人物になるとまで言わしめています。
諸葛亮の北伐に参加していた当時、軍の主力となっていた魏延(ギエン 生年不明―234年)と楊儀(生年不明―235年)がよくいがみ合っていました。費イは常に間に入り、両者を諌めていました。
諸葛亮の死後、魏が10万の大軍で攻めてくると、病が重くなった蒋エンの代理として軍を率い、見事退けています。費イは諸葛亮でも成し得なかった北伐を行うのは無理と見て、国力の安定を第一とし、善政を敷いていました。費イの死後は跡を継げるものがおらず、姜維の(キョウイ 202年―264年)度重なる北伐を経て蜀の国力は大いに後退していきます。
皇帝劉禅を戒めた【董允】
■ 皇帝劉禅を戒めた【董允】
皇帝劉禅を戒めた【董允】
董允はその多くを劉禅の補佐的役目を担い、近衛兵の指揮を担当していました。董允は劉禅の立ち振る舞いすべてに細かく指導していきます。劉禅が宮中の美女を増やしたいと言ってきたときには、厳しくそれを諌めており、劉禅は董允に対して意見を挟むことが出来にくくなっていきます。
劉禅は成長するにつれて、宦官の黄皓(コウコウ)を重宝するようになっていきます。黄皓は董允がいる間は大人しくしていたものの、董允が死去の後には権力を欲しいままにしていき、周囲の人材では劉禅を諌めることができませんでした。
董允亡き後、劉禅は黄皓の意見を取り入れるようになり、蜀の滅亡を招く最大の要因となっていきます。
まとめ
■ まとめ
まとめ
ここでご紹介した武将たちは各々が名将(名相)として扱われており、それぞれ周瑜や諸葛亮といった歴史に名を残す英雄たちの跡を継いでいます。また、周瑜や諸葛亮のように国を守り、貢献することで、後世の人々から賞賛されています。あまりに派手さが無いために演義では省略されてしまっていますが、自国を形成していくうえで欠かせない存在だったのは間違いありません。