饅頭の由来となった「南中」とは?「七縦七擒」の語源も!

饅頭の由来となった「南中」とは?「七縦七擒」の語源も!

三国志演義では、「南中」と呼ばれる地域が登場します。蜀の南方での争乱を防ぐため、諸葛亮が向かった場所です。また、「七縦七擒」の語源や饅頭の由来となった場所でもあります。孟獲ら南蛮の中心人物や戦い・文化もご紹介します。


南中の舞台は雲南省が有力説

南中の舞台となった地域は、雲南省の昆明市が有力説です。三国志演義では、毒泉やトラ・象などの猛獣が登場します。毒泉は以下の4つで構成されています。
1. 唖泉:甘味だが、飲めば口がただれて腸が焼ける
2. 滅泉:水を浴びれば肉が溶ける
3. 黒泉:手足が黒ずみ、激痛に見舞われる
4. 柔泉:飲むとのどが冷え、身体が綿のように柔らかくなる

こんな話を知ると、南中は怖い場所だと思うかもしれません。しかし、実際はのどかな地域なので、観光スポットとして注目されています。また、ミャンマーやベトナムと隣接しているため、異民族が実在します。

南蛮の中心人物・孟獲と仲間たち

三国志ネタで、「孟獲」「祝融」という人名を聞いたことがありますか?南蛮は、孟獲以外すべて架空の人物なのです。ここでは、三国志演義で活躍した人物を紹介します。

孟獲(もうかく)
雲南省付近で生まれたのち、蜀の南方で反乱を起こします。蜀の天才軍師・諸葛亮(孔明)に何度も捕まったのち、心服して帰順を誓いました。
三国志演義では、南蛮のあらゆる民族を束ねた大王として登場します。

祝融(しゅくゆう)
孟獲の妻にして、火の神・祝融の末裔。男勝りで、投げナイフ「飛刀」の名手とされています。
日本のねぶた祭りでは、三国志や水滸伝などの武者絵が登場します。なかでも、祝融が武将として描かれることがあります。

孟獲の兄弟 孟優と孟節

孟優(もうゆう)
孟獲の弟。
孟獲の計によって蜀へ偽の降伏をしますが、見破られて孟獲とともに何度も捕まります(その後、孟獲と同じく釈放)。

孟節(もうせつ)
孟獲と孟優の兄。
弟たちの悪行に嫌気がさした彼は、万安渓(ばんあんけい)で万安隠者と名乗ります。制圧に向かった諸葛亮らが毒泉にやられた際、解毒効果を持つ草「薤葉芸香(かいよううんこう)」と泉の水を与えました。

三洞元帥とその儚き末路

金環三結(きんかんさんけつ)
第一洞の元帥。同志の董荼那・阿会喃とともに出撃するも、趙雲の夜襲により討ち取られます。

董荼那(とうとな)
第二洞の元帥。張嶷に捕えられたあと、諸葛亮によって釈放されます。
再度出陣した際、馬岱からの罵倒を受けて撤退。孟獲から罰せられ不満を抱いた彼は、阿会喃の協力を経て孟獲を捕まえます。
しかし、諸葛亮が孟獲を釈放したあと、孟獲の手によって阿会喃とともに命を絶たれました。

阿会喃(あかいなん)
第三洞の元帥。張翼に捕えられたあとは釈放されたため、董荼那と共に再度出陣します。
董荼那と協力して孟獲を捕獲。しかし、孟獲が釈放されたあとは董荼那とともに殺され、谷に捨てられます。

方術士の木鹿大王、寝返った楊鋒

木鹿大王(もくろくだいおう)
八納洞の主。猛獣を自在に操る方術士でもありますが、意外なものに怯えてしまいます。
孟獲を助けるべく、サソリや狼・毒蛇などをけしかける彼。しかし、諸葛亮が発明した木製の巨獣に怯えてしまったのです。やがて、木鹿大王は逃げている最中に討ちとられました。

楊鋒(ようほう)
銀冶洞(ぎんやどう)二十一洞の主。諸葛亮からの恩義がきっかけで、5人の息子と精鋭兵とともに孟獲たちを裏切ります。
孟獲・孟優・朶思大王(禿竜洞の主)を宴会で酔わせたのち、彼らを諸葛亮に引き渡しました。

「七縦七擒」の語源・南蛮征伐

「七縦七擒」の語源は、三国志演義の南蛮征伐から来ています。

蜀の南方では、孟獲ら南蛮による反乱が起こっていました。諸葛亮率いる蜀軍は、心服させるため南中へ。南中の環境に苦戦する蜀軍でしたが、諸葛亮の計略によって南蛮の征伐に成功します。7度捕まった孟獲は、諸葛亮に心から帰順したことでその後も反乱を起こさなかったのです。

蜀といえば、君主の劉備(玄徳)を思い浮かべるかもしれません。なぜ諸葛亮が率いることになったのでしょうか?

劉備(玄徳)から息子・劉禅へ

蜀の君主・劉備(玄徳)が他界して間もないころ。息子の劉禅にバトンタッチしましたが、父と比べて戦いに興味を示さない様子でした。そのため、事実上は諸葛亮が蜀を治めていたのです。

国力の回復に専念しているなか、南方での反乱が起こりました。国境を超えての反乱は何度も起こっていたため、蜀の文化に従わせるよう仕向けます。

次は、孟獲が7度捕まる経緯についてご紹介します。

孟獲が7度も捕まった南蛮征伐

屈強な蜀軍に苦戦する南蛮。大王・孟獲はこれに怒り自ら出撃しますが、伏兵に囲まれて捕まります。

感情に流される孟獲に対し、不満をいだき始める三洞元帥の董荼那と阿会喃。2人に酔わされた孟獲は、ふたたび捕獲されます。

南蛮兵のフリした馬岱、落とし穴、楊鋒の裏切りや部下による献上。孟獲はここまでで6回も捕まっていたのです。6度目の捕獲にて孟獲は諸葛亮に対し、「7度目も捕まえたら降伏してやる」と告げます。

釈放された孟獲は、烏戈国(うかこく)の王・兀突骨(ごつとつこつ)に救援を求めます。兀突骨は追撃を試みましたが、諸葛亮の地雷によって焼死。
ついに捕えられた孟獲らは、観念して諸葛亮に心から帰順を誓ったのです。

「七縦七擒」の意味とは

こうして、七縦七擒(しちしょうしちきん)という語源が成り立ちました。この四字熟語は、「相手を思い通りにあやつること」をさします。

南中は本土やこれまでの戦場と異なるため、蜀軍も苦戦を強いられたことでしょう。しかし、短期間で計略を練った諸葛亮は、かなり順応性が高いと感じます。
実際は思い通りにならないことばかりですが、何事も少しでも良い方向に仕向けたいですよね。

饅頭の由来は風習を改めるため

南中によって生まれたのは四字熟語だけではありません。私たちの身近に存在する「饅頭」も、南蛮征伐から来ていたのです。

南蛮征伐を終え、蜀に戻ろうとした諸葛亮。しかし、風雨によって川が氾濫していたため、足止めを食らっていました。
南蛮では、氾濫を鎮めるために人間と黒牛・白羊を生贄にする必要がありました。諸葛亮はこの風習を改めさせようと、饅頭を作ります。この饅頭は人間の頭に似せたもので、小麦粉で練った皮と羊や豚の肉で構成されています。そしてその饅頭を川に投げ込むことで、川の氾濫は治まりました。

最初は「蛮頭」と呼ばれていましたが、のちに「饅頭」、日本では主に「肉まん」として知られるようになりました。

戦いで使われていたもの

ところで、孟獲たちはどういう武装をしていたのでしょうか?蜀で使用された兵器とともに見てみましょう。

孟獲
南蛮王・孟獲は、松葉模様の剣をふた振り所持していました。
頭には、宝石をちりばめた青銅の冠。真珠のネックレスと獅子模様の腰巻きもつけていたようです。
さらに鷹のくちばしに似た靴を履いていたことで、王としての威厳を示していたことがわかります。

木鹿大王
ふた振りの太刀と、猛獣を呼ぶ銅の鈴を持っていました。金・銀・真珠をちりばめたネックレスをつけていたそうです。

軽量にして丈夫な藤甲

烏戈国の王・兀突骨の配下「藤甲軍」。彼らは、藤のつるで編んだ鎧を身に着けていました。

山中の絶壁で育った藤のつる(蔓)を採り、半年間油に漬けます。漬けたつるを陽にさらしたあとはまた漬ける、というのを10回以上繰り返し。それらを編んで鎧にしたのが「藤甲」です。軽量にして丈夫。水にも強く、どんな刃物や弓矢も受け付けません。

しかし、鎧に染み込んだ油は南蛮征伐で仇となります。諸葛亮の地雷によって、鎧がさらに炎上。やがて兀突骨とその兵は谷底で焼死しました。

猛獣使いが怯えた蜀の巨獣

南蛮の猛獣使い・木鹿大王を怯えさせた木製の兵器。諸葛亮によって発明されたものです。
鋼の牙や爪を持ち、5色の毛におおわれています。中に硫黄や煙硝を積むことで、口から炎を、鼻から黒煙を出します。
しかも10人分の大きさなので、さすがの木鹿大王も怖くなったのでしょう。

南中の政治や文化など

南中の政治や文化はどのようなものだったのでしょうか?

まず、南中はいくつかの部落に分かれています。大きい部落のリーダーを「洞 主」、サブリーダーは「酋長(しゅうちょう)」と呼ばれていました。
つまり、裏切り者の楊鋒は銀冶洞二十一洞という部落のリーダーで、三洞元帥は各部落における軍隊の最高位だったのです。

そして南中には刑法がありません。罪を犯した時点で打ち首となります。

また、結婚相手は自分で見つけます。年頃になった男女が混浴で相手を見つけますが、親族は一切干渉できません。

病気になった場合はどうでしょう。実は薬を飲めないので、祈祷師に祈ってもらう必要があります。

中国とは違った文化を持つ南中

饅頭と七縦七擒は、三国志演義から生まれたもの。三国志演義は大幅に脚色された作品なので、孟獲が史実で何度捕まったかは現在も不明です。
しかし、南中には架空とは思えないほどの設定が盛り込まれています。もし三国志演義が存在していなかったら、饅頭や肉まんが生まれなかったのかもしれません。

また、孟獲の妻・祝融には飛刀を用いて武将を捕まえたという逸話があります。ねぶた祭で祝融の武者絵を見かけた際は、ぜひ思い浮かべてみましょう。

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