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三国志・一騎打ちの勝率で父親である張飛と関羽を凌駕した張苞と関興の活躍ぶり
蜀の猛将「関羽」と「張飛」にはそれぞれ息子たちがいました。三国志演義ではその息子たちが、父親以上の活躍を見せているのです。 「張苞」と「関興」の一騎打ちの成績に注目してみましょう。
三国志・袁紹配下で最強レベル「文醜と顔良」の一騎打ち対戦成績は優秀だった!
曹操のライバル・袁紹の配下で有名な武将といえば「文醜と顔良」でしょう。果たしてどれほど強かったのでしょうか?その一騎打ちの足跡を辿ります。
三国志・呉の武将の中で最も多くの一騎打ちを演じたのは甘寧だった
呉の武将の中で猛将と呼ばれる「甘寧」ですが、三国志演義で確認してみても、確かに素晴らしい武功をあげています。甘寧の一騎打ちの成果を見ていきましょう。
蜀を代表する猛将「魏延」。劉備(玄徳)からも、諸葛亮(孔明)からも認められた武勇を誇りましたが、意外にも三国志演義での一騎打ちの勝率はかなり低いのです。
三国志・徐庶はなぜ強烈なインパクトを放ちながら、一瞬で退場していったのか
劉備(玄徳)に諸葛亮(孔明)を推薦して陣営を去っていった徐庶。一瞬の登場でしたが、そのインパクトはまさに衝撃的でした。なぜ徐庶はここまで強烈なインパクトを放ちながら、すぐに消えてしまったのでしょうか。
三国志・孫堅は焦土と化した洛陽で玉璽を発見し、持ち帰ったのか?
孫堅が洛陽で玉璽を発見したのは、三国志では有名な話です。しかしそこには諸説あります。玉璽にまつわるお話をご紹介いたします。
三国志の登場人物たちの名前は「姓」「諱」「字」に分けられますが、「姓+諱+字」で表記することは間違っているのでしょうか?
大国「魏」に対抗するため、「呉」の孫権は、北方の遼東に目をつけます。そして度重なる外交交渉を進めていくことになるのです。
遼東に一大勢力を築いた公孫氏の興亡の経過をお伝えしていきます。そこには「因果応報」の理が見え隠れしています。
今回は、三国志に登場する英雄たちから選抜して、ワールドカップでも活躍できそうなチームを編成していきたいと思います。
三国志・職業軍人VS文官官僚 なぜ張飛は劉巴にシカトされてしまったのか
武人と文人、三国志には大きく分けてこの2種類の人たちが活躍します。しかし重んじられたは文人の方だったようです。特に印象的なエピソードを交えてお伝えしていきます。
三国志・荀彧はなぜ曹操に仕えたのか?荀一族は意図的に分かれた
「吾の子房なり」と曹操に認められた「荀彧」。名門の出自で、同族は董卓や袁紹などに仕えています。荀彧はなぜ、小勢力である曹操に仕えたのでしょうか?
三国志・ビジネスマンは、孫策の江東制圧戦から学べることが多い
凄まじい勢いで、江東を制圧していった「孫策」。しかし、相手も備えは充分です。もちろんそんな簡単にはいきませんでした。奪った拠点を奪還されたりもしているのです。
董卓の後継者として朝廷を牛耳った李傕、郭汜ら董卓の残党。彼らの評価はとてつもなく低いですが、果たして本当に雑魚武将だったのでしょうか。
三国志・曹操の従弟である曹仁は、武将としてどのランクに位置するのか?
三国志演義ではあまり注目されることのない「曹仁」ですが、最強ランクの名将だったという説もあります。その背景を考察していきましょう。
曹操はなぜ赤壁の戦いで大敗することになったのでしょうか。三国志の時代の水軍と共に紹介していきます。
三国志、事実上同盟関係にあった曹操 袁紹 はなぜ戦ったのか?
旧友同士である袁紹と曹操。なぜ二人は、決戦することになったのでしょう? その経緯を追っていきますよ。
三国志・科挙の受験生には必須の「文選」に掲載された陳琳の檄文は、曹操を激怒させた
曹操を烈火の如く激怒させた「陳琳」の「檄文」。あまりの名作のために「文選」にも編纂されています。今回は文選や檄文についてお伝えしていきます。
三国志・徐州牧の陶謙が劉備に徐州を譲ったプロセスとややこしい勢力関係を整理
劉備は陶謙から徐州牧の座を譲られます。そして味方だった袁術に攻められ、敵だった曹操を頼ることになるのです。なぜそのようなことになったのでしょうか。
三国志・用心に用心を重ね籠城した公孫瓚を討つのに、袁紹は何年費やしたのか?
難攻不落の堅城・易京城を陥落させるために、袁紹はどのくらいの年月を費やしたのでしょうか。その経緯をお伝えしていきます。