董卓軍の武将といえば
■ 董卓軍の武将といえば
董卓軍の武将といえば
洛陽を占拠し、朝廷を牛耳った董卓は、長安に強行遷都した後、司徒・王允や家臣の呂布のクーデターによって殺されました。
董卓の家臣として有名なのが、この呂布でしょう。三国志最強ともいわれています。
主君である董卓を討った後は、諸国を放浪、さらに張邈や陳宮と手を組み、曹操の拠点である兗州を制圧する寸前まで曹操を追い詰めています。
呂布以外の武将で勇猛なことで知られるのが、華雄です。三国志演義では、反董卓連合の勇将を次々と討ち果たしています。兵糧の尽きた孫堅を追い詰め、四天王のひとりである祖茂の首を獲っています。
ちなみに三国志正史の華雄はさほど活躍しておらず、陽人の戦いで孫堅に敗北し、戦死したと記されています。どうやら呂布が足を引っ張ったようです。
他にも、しびれを切らせて攻め込んできた曹操軍を伏兵で破った徐栄もいました。三国志演義では夏候惇に討たれていますが、三国志正史では無事に帰還、その後は孫堅を撃退するなどの活躍をしています。最終的には董卓の残党である李傕と戦って討たれてました。
董卓の残党
■ 董卓の残党
董卓の残党
呂布や徐栄のように董卓へのクーデターに加わった武将もいれば、董卓の没後もその兵を率いて抵抗した武将もいました。
李傕、郭汜、張済、樊稠らです。
董卓が死んだことを知った際には、降伏しようとしましたが、司徒・王允はこれを拒否。
李傕らは、涼州人を皆殺しにする命令が下ったことを知り、参謀・賈詡の勧めもあって、兵をまとめて長安の都を攻めました。この時、配下にいる王允や呂布と同じ出自の幷州人は、皆殺しにしています。
王允は董卓派を徹底的に弾劾したので、必要以上の憎しみを受け、李傕らを迎撃するはずだった武将らにも裏切られて敗北します。
李傕らは10万を超える兵力で長安を占拠、呂布を追い出し、王允を処刑することに成功するのです。主君を失うという逆境にあって、この数の兵を率いられるのは、統率力が高かった証拠かもしれません。
政治力ゼロのため治安悪化
■ 政治力ゼロのため治安悪化
政治力ゼロのため治安悪化
李傕は車騎将軍、郭汜は後将軍、張済は驃騎将軍、樊稠は右将軍に任じられ、朝廷は董卓の残党に牛耳られることになります。
兵は略奪に明け暮れ、民衆は飢餓に苦しみ、人が人を食らったと記されています。まさに地獄図です。2年間で数十万人が亡くなっています。
さらに李傕は、献帝に腐った食糧を与えたり、衣服や宮女を奪いました。
やがては幼馴染だった郭汜ともいがみ合うようになり、長安の治安は最悪の状態になります。
しかし、長安奪還を目論む馬騰や韓遂、劉焉らの軍勢は見事に撃退しているのです。
李傕、郭汜はそれ以前にも、洛陽の地で反乱を起こした朱儁を倒しています。朱儁といえば黄巾の乱で大きな働きをした戦上手の将軍です。
李傕、郭汜らは政治力こそ皆無でしたが、戦闘力はかなり高かったと考えられます。そうでなければ、あの董卓が将として抜擢していないでしょう。
関西は将を出だす
■ 関西は将を出だす
関西は将を出だす
古来より中国では、「関西は将を出だし、関東は相を出だす」といわれます。
関東は文を重んじる文人が多く、関西は武を重んじ、武勇に優れた将を輩出してきました。この関西の代表が李傕であり、郭汜なわけです。
三国志の小説や漫画、ゲームにおいて、李傕や郭汜は能力値が低く、どうしようもない小悪党のような設定になりますが、もしかすると、三国志の武将の中でトップクラスの武力を誇っていたかもしれないのです。
魏の張遼や曹仁、蜀の関羽や張飛、呉の太史慈や甘寧に匹敵する武将だった可能性だってあるのです。
最終的に献帝に逃げられ、長安を追われて、山賊となり、官軍に攻められて殺されてしまうという不甲斐ない最期を迎えたために、かなり評価が低いのですが、もしかしたら物凄く強かったかもしれません。
樊稠は強すぎて処刑された
■ 樊稠は強すぎて処刑された
樊稠は強すぎて処刑された
四人の中でもっとも武勇に優れていたのは樊稠だったようです。人望もあったと記されています。それを脅威に感じた李傕が、攻め込んできた韓遂を同郷の誼で見逃した樊稠を許さずに処刑したといいます。
また、郭汜の腕前もなかなかだったようで、あの呂布と一騎打ちを演じています。三国志正史に登場する一騎打ちは3組しかありませんので、呂布VS郭汜の一戦は貴重です。さすがに呂布の優勢勝ちでしたが、郭汜は首を討たれていません。そこそこ呂布と互角に渡り合ったということでしょう。
李傕も郭汜の武勇を恐れていたようです。郭汜は馬騰や羌族の兵を一万も討っていますし、兵数百で李傕軍数万を破ったとも記されています。
張済は協調を重んじるタイプだったようで、衝突する李傕と郭汜を仲裁しています。献帝が洛陽に逃れてからは、兵糧を確保するために荊州に進出しましたが、流れ矢に当たって戦死しました。兵は同族の張繍が引き継いでいます。
シャーマニズムを崇拝した李傕
■ シャーマニズムを崇拝した李傕
シャーマニズムを崇拝した李傕
武勇においては郭汜や樊稠に及ばなかった李傕ですが、それでも残党の統率者でいられたのは、李傕がシャーマニズムの信仰者だったからではないでしょうか。
鬼神や妖術の類を好んだという記載もあります。恐らく、それらを巫女に憑依させて予言などを聞いていたのでしょう。生贄を捧げていたとも伝わっています。
李傕は、信仰心などを巧みに操るスキルの持ち主だったのかもしれません。
四人の中では最も出世し、大司馬に任じられているのも、李傕が特殊な存在だったからではないでしょうか。周囲の武将たちはそんな李傕を畏れたとも考えられます。
邪馬台国の女王・卑弥呼もシャーマンとして有名ですが、彼女は李傕らが殺された40年後に、使者を魏に送り、親魏倭王に任じられています。
まとめ・曲者ぞろいの董卓残党
■ まとめ・曲者ぞろいの董卓残党
まとめ・曲者ぞろいの董卓残党
こうして振り返ってみると、董卓の残党も曲者ぞろいでなかなか手強いように思えてきますね。
三国志の登場人物の中では人気もなく、雑魚扱いの彼らですが、本来の実力が、蜀の五虎大将軍に匹敵する武勇だったとすると、三国志の時代は想像以上に熾烈な生存競争だったことになります。
本当はどのくらい強かったのでしょうか。
この四人が主役の話があったら、ぜひ読んでみたいですね。なかなか面白いストーリー展開になるのではないでしょうか。李傕と郭汜の友情物語になるかもしれませんね。