袁紹と曹操の関係
■ 袁紹と曹操の関係
袁紹と曹操の関係
袁紹といえば、四世三公の名門・袁氏の出自ですから、エリート中のエリートです。
曹操も祖父が皇帝から信頼されていた宦官であり、父は三公まで昇進しています。やはりこちらもエリートといえます。
そんな袁紹と曹操が不良仲間だったというのは有名な話です。
「世説新語」には、袁紹と曹操が、他人の結婚式に乗り込み、花嫁を強奪したというエピソードが記されています。この時、袁紹は逃走にもたついていましたが、曹操が「ここに泥棒がいるぞ!」と大声で叫んだために、袁紹は必死になって逃げたそうです。
花嫁泥棒とは、まさに卑劣な犯罪で、許しがたい行為ですが、これはフィクションだと考えられています。
とりあえず袁紹と曹操がつるんでいたのは間違いないようです。
西園八校尉
■ 西園八校尉
西園八校尉
そんな二人が顔を揃えるのが、188年のことになります。
この年に後漢第12代皇帝・霊帝は、近衛兵団を組織しました。「西園軍」の結成です。そしてこの西園軍を率いる「西園八校尉」に袁紹と曹操は選ばれるのです。
霊帝直属の部隊ですから、名門の出身ということだけでなく、統率力や武勇も認められての抜擢だったのではないでしょうか。
ちなみに、西園八校尉には、後の「官渡の戦い」で、勝敗のカギを握ることとなる淳于瓊の名前も見られます。
袁紹、曹操、淳于瓊は、はたしてどんな会話をし、どのような働きをしたのでしょうか。
ただし、189年には霊帝が崩御してしまい、都に董卓が入り込み、朝廷を牛耳るようになったことで、西園八校尉は自然消滅しています。
袁紹と曹操はここで離ればなれとなってしまうのです。
反董卓連合の結成
■ 反董卓連合の結成
反董卓連合の結成
しかし、袁紹と曹操は、打倒董卓を旗印にし、再び手を組むことになります。
190年に袁紹を盟主とし、東の諸侯が結託して反董卓連合が結成されたのです。
ここでクローズアップされるのが、袁紹の優柔不断ぶりです。兵力で圧倒している袁紹は、いずれ董卓が降伏してくると思っていたのか、連日連夜酒宴をするだけで、まったく攻める素振りを見せません。
業を煮やした曹操は、董卓を攻めるように袁紹に進言しますが、袁紹は動きませんでした。主張をぶつけ合った後、曹操は鮑信らと共に強行します。しかし、董卓配下の武将である徐栄の伏兵に敗れました。曹操は一命をとりとめて帰還したものの、その後は反董卓連合とは行動を共にしていません。
董卓が長安へ強制遷都したため、この反董卓連合もまた、自然消滅しています。
反董卓連合消滅後、曹操 袁紹は対立したのか?
■ 反董卓連合消滅後、曹操 袁紹は対立したのか?
反董卓連合消滅後、曹操 袁紹は対立したのか?
反董卓連合内で意見衝突し、独断で兵を進め敗北した曹操に対し、袁紹としても快くは思っていなかったことでしょう。
それではここから袁紹と曹操は対立したのでしょうか?
それが真逆の状況になります。兗州に黒山軍が侵攻するにあたって、袁紹は東郡太守に曹操を推薦しました。さらに黄巾の残党百万が兗州に侵攻するにあたって、曹操は兗州牧となっています。
袁紹が曹操の力をあてにしていたのは確かなようです。
この時、袁紹は袁術と袁氏の家督を巡って対立状態にありました。袁術は袁紹の背後の公孫瓚や徐州の陶謙と結び、袁紹にプレッシャーを与えます。
袁紹は、袁術の背後の劉表や曹操と結び、袁術の勢力に対抗したわけです。
袁紹と曹操は共通の敵を倒すべく、再び手を組むことになります。
袁紹と曹操の強力タッグで周囲を圧倒
■ 袁紹と曹操の強力タッグで周囲を圧倒
袁紹と曹操の強力タッグで周囲を圧倒
袁紹勢力VS袁術勢力は、袁紹と曹操の活躍により、袁紹勢力の勝利に終わります。
陶謙は曹操に侵攻され、その後、病没。公孫瓚は袁紹に攻められ自害。袁術も曹操に攻められ、大敗し、病没しました。
徐州には陶謙が没した後、劉備(玄徳)や呂布が台頭してきますが、どちらも曹操に敗れています。
199年6月に袁術が没した時点で、袁紹・曹操の周囲には共通の敵がいなくなっていたのです。
199年12月には、曹操の勢力下にあった劉備が小沛で反乱を起こします。それに対し、曹操は自らが主力を率いて、その征討のために出陣しました。袁紹の軍師である田豊は、好機到来と喜び、曹操の背後を突くように進言しましたが、袁紹は子供の病気を理由にして動きませんでした。
国力や兵力で曹操を圧倒していた袁紹には余裕があったのです。それが慢心となり、優柔不断な判断に繋がっていきます。
つまり199年後半には、袁紹と曹操の同盟は自然消滅していたことになるのです。
なぜ袁紹と曹操は戦ったのか?
■ なぜ袁紹と曹操は戦ったのか?
なぜ袁紹と曹操は戦ったのか?
河北を制した袁紹と、献帝を擁護して諸侯を次々と倒して力をつけていく曹操が、決戦を迎えることは自然な流れのように描かれています。
ここでは、背後に敵を抱えることもなく、勢力も比較にならないほど大きかった袁紹がなぜ負けたのか?という点に注目が集まりますが、なぜ戦うことになったのかということに疑問を持つ人はあまりいません。
しかし、若い頃から友人であり、数々の共通の敵と戦ってきた袁紹と曹操が決戦する必要があったのでしょうか?
曹操は袁紹の威を恐れて、献帝を擁護した際には大将軍の位を袁紹に譲っています。曹操としては出来れば戦いたくない相手だったと考えられます。
では、なぜ袁紹は黄河を渡り、大軍を率いて兗州を攻めたのでしょう。
まとめ・袁紹は皇帝を目指していた
■ まとめ・袁紹は皇帝を目指していた
まとめ・袁紹は皇帝を目指していた
袁紹には曹操を倒さねばならない理由があったのでしょう。
実は、袁術は病没する直前に袁紹に降伏しています。自分の領土を捨て、袁紹のもとに逃亡している最中に亡くなったのです。袁術は197年に皇帝を自称していました。
逆賊である袁術を保護しようとしたということは、袁紹には後漢王朝を滅ぼす算段があったということではないでしょうか。そして自らが皇帝となり、袁氏による王朝を建国する目標があったのかもしれません。
そうなると、後漢王朝を牛耳っている曹操が邪魔になります。曹操を倒し、後漢王朝を滅ぼす。そのために袁紹は官渡の戦いに臨んだのではないでしょうか。
もし曹操が敗れていたら、三国の並立は存在せず、袁氏による王朝がその後長く続いたかもしれません。袁紹と曹操の決戦は、まさに天下分け目の大戦だったわけです。
このような最高の舞台での戦いを、旧知の友人同士で行えることに、二人はどのような思いだったのでしょうか。