曹操の同族・曹仁
■ 曹操の同族・曹仁
曹操の同族・曹仁
曹操が旗上げする時点から従い、その後も各地を転戦して活躍したのが、曹仁です。
字は、子孝。豫州沛国の出身で、祖父の曹褒は潁川郡太守を務め、父である曹熾は侍中・長水校尉を務めています。
曹褒は曹騰の兄にあたります。曹騰は優れた宦官として中常侍・大長秋まで昇進しており、養子に曹嵩を迎えました。その曹嵩の子が曹操です。
曹騰も曹褒も前漢の宰相・曹参の子孫ですが、その血を正式に受け継いでいるのは、曹操ではなく、曹仁ということになります。
曹嵩は夏侯氏の出身なので、その子である曹操と曹仁とは直接の血縁ではありません。同じ血を受け継いでいるのは、曹操と曹仁ではなく、曹操と夏候惇ということになります。
形式上はもちろん曹操と曹仁は同族です。
曹操軍の騎馬部隊を率いる
■ 曹操軍の騎馬部隊を率いる
曹操軍の騎馬部隊を率いる
曹操の陣営で、精鋭部隊として有名なのが「虎豹騎」という騎馬部隊です。その司令官としては曹純が知られていますが、曹純は曹仁の弟にあたります。曹純も曹操の同族ということです。
もともと曹操軍の騎馬部隊は、曹仁が率いていたと「三国志正史」には記されています。
193年には袁術が兗州を制圧すべく侵攻してきましたが、「匡亭の戦い」で曹仁は多くの敵を倒しました。さらに先鋒として徐州の陶謙を攻め、敵部隊を破り武功をあげています。呂布を相手にした兗州奪還戦でも敵将を捕縛する活躍をしました。
袁紹との激戦となった「官渡の戦い」までは、主力の騎馬部隊は曹仁が率いており、袁紹を撃退した後は、弟の曹純に任せて、さらに重要な役職を任されたものだと考えられます。
つまり、袁術、陶謙、呂布、袁紹という群雄たちを破る戦の中心人物が曹仁なのです。
司馬昭に仕えた傅玄は「傅子」において、曹仁の武勇は張遼に勝り、秦の武王の配下として活躍した武将・孟賁と夏育に匹敵すると記しています。
曹操陣営の最強武将?
■ 曹操陣営の最強武将?
曹操陣営の最強武将?
泣く子も黙ると畏れられた張遼よりも武勇が上だとすれば、曹仁は文句なしで三国志のトップクラスに位置する名将ということになります。
確かに曹操も曹仁の武勇と知略を評価していたとされています。弓術や馬術に優れていただけではなく、河北の制圧戦の際には、曹操に戦術面でアドバイスすらしているのです。
荊州に侵攻してくる周瑜と戦った際には、総司令官を任せられています。
配下の牛金が大軍に包囲されたのを見ると、騎馬部隊を率いて敵軍に突撃し、見事に牛金を救出しました。
陳矯は曹仁の勇猛ぶりを感嘆し、天上世界の人だと絶賛しています。
能力も実績も、曹操陣営の武将の中では、最強レベルといっても過言ではないでしょう。
戦上手のイメージが弱いのはなぜか
■ 戦上手のイメージが弱いのはなぜか
戦上手のイメージが弱いのはなぜか
しかし、曹仁の戦上手のイメージは、三国志読者にそこまで浸透してはいないのではないでしょうか。
むしろ曹操の同族だから将軍に任じられているだけで、戦の指揮は下手なイメージが曹仁にはあります。
これは明らかに「三国志演義」の影響です。
三国志演義は、劉備(玄徳)や蜀を主役にしたお話なので、曹仁の活躍はかなりカットされています。さらに脚色されて、引き立て役にされているのです。
有名なのは、曹操が荊州へ侵攻する際に、曹仁は劉備(玄徳)のいる新野を攻め、「八門金鎖の陣」という強力な陣を布くのですが、劉備(玄徳)の軍師役だった徐庶に見抜かれてあっさりと敗れるシーンです。
三国志読者はここで軍師の重要性を知り、その徐庶よりも格上とされる諸葛亮の登場に胸躍ることになります。そのための演出の踏み台にされたのが、歴戦の勇である曹仁です。
三国志正史に記されている徐庶の活躍は、劉備(玄徳)に諸葛亮の存在を教えたことぐらいです。曹仁は八門金鎖の陣立てなどしておらず、劉備(玄徳)軍に敗北すらしていません。
敗北したことは三国志正史にも記されている
■ 敗北したことは三国志正史にも記されている
敗北したことは三国志正史にも記されている
ただし、曹仁が周瑜に敗れて荊州南郡を失ったことは、三国志正史にも記されています(呉書)。この際に曹仁は、敵の総司令官である周瑜を負傷させています。
曹仁が負けたシーンはここくらいではないでしょうか。
江陵から撤退した後は、西から攻めてくる馬超・韓遂連合軍に立ち向かい、撃退する活躍ぶりを見せています。
さらに再び荊州の総司令官に任命されて、樊城に駐在しました。
関羽が侵攻してきて水攻めしてきた際には、龐徳や援軍の于禁などが捕虜となる中、最後まで兵を鼓舞して城を守り抜いています。
徐晃が援軍に駆けつけると、城から出撃し、関羽を追撃しました。
三国志演義で曹仁が戦下手に描かれているのは、主役どころの関羽と戦い、撃退する活躍をしたからかもしれません。呉の呂蒙と同様、そういった理由から不当に評価を下げられているのではないでしょうか。
総合的な曹仁の評価
■ 総合的な曹仁の評価
総合的な曹仁の評価
三国志正史を読むと、曹仁が、三国志の時代の中でも特筆すべき名将の活躍ぶりだったことがうかがえますが、最強クラスだったかどうかというと判断は厳しいですね。
その理由として、ひとつは、周瑜の荊州侵攻を防ぎきれなかったという点が挙げられます。赤壁の戦いで曹操率いる主力を破った周瑜の勢いは、さすがの曹仁をもってしても難しかったのです。
さらにもうひとつの理由として、孫権が劉備(玄徳)を裏切って関羽の背後を襲わなければ、曹仁が守る樊城は陥落していただろうと推測される点です。孫権がひそかに荊州を制圧し、関羽の兵站を断ったことと、樊城の援軍として派遣されていた徐晃の活躍があって、はじめて関羽を撃退できたと考えられます。
曹仁が、知勇兼備の優れた将であることは確かですが、こういった理由もあって、武将の最強ランクに位置づけするのは厳しいのです。ただし、トップクラスに近い実力の持ち主だったのは間違いないでしょう。
まとめ・大将軍を歴任
■ まとめ・大将軍を歴任
まとめ・大将軍を歴任
そんな曹仁は、文帝(魏初代皇帝・曹丕)によって大将軍に任じられています。まさに魏の大黒柱的存在です。さらに大司馬に昇進しています。
法を遵守し、模範とすべき武将だったようで、文帝が「曹仁をお手本にするように」とまで書面にしたためたほど、リスクペクトされる存在だったようです。
三国志を代表する人物として、曹仁は、もっとスポットライトを浴びてもいいのかもしれませんね。
(ちなみに三国志演義で禰衡に銭欲太守と蔑まれていますが、これは曹洪の間違いです)