領土分割における幽州・遼東
■ 領土分割における幽州・遼東
領土分割における幽州・遼東
孫権は皇帝に即位し、蜀から慶賀使として訪れていた陳震に対し、二帝並尊の原則を説いて結束を固め、魏を滅ぼした後の領土分割の提案を行いました。
その中で最北の幽州は呉に分割されることになりますが、その南に隣接する冀州は蜀の取り分です。呉が幽州を攻めるためには、陸地では繋がっていないため、黄海を北上するしかありません。その際に協力する勢力として孫権が目をつけたのが、遼東の支配者である公孫淵です。
孫権は公孫淵と手を結ぶことによって、幽州・遼東支配を進めていくことを画策するようになります。実は陳震が呉を訪れる前に、孫権はすでに校尉の張剛と管篤を使者として公孫淵のもとに派遣していたのです。
孫権は蜀だけでなく、公孫淵とも同盟し、魏を倒す算段でした。
公孫淵の対応と魏の警戒
■ 公孫淵の対応と魏の警戒
公孫淵の対応と魏の警戒
当初は呉と手を結ぶことに慎重だった公孫淵でしたが、孫権の粘りの交渉も功を奏し、232年、呉の将軍である周賀と校尉の裴潜が使者として公孫淵と会見することに成功します。
周賀は見事にその役目を果たし、公孫淵は年末になって、呉に臣従する意を示す使者を孫権に送りました。
ただし、それ以前に、周賀らは公孫淵への使いの帰途、山東半島にある港・成山で魏の将軍・田豫に待ち伏せされ、殺されています。
魏としても孫権と公孫淵が手を結ぶことを警戒していたからでしょう。ただでさえ西からは諸葛亮が率いる蜀軍が侵攻してきますし、東からは孫権らの呉軍が侵攻してくるのです。さらに北の公孫淵までが敵対するとなると、防衛線の維持は困難になります。
魏は公孫淵に対し、軍事力を持ってプレッシャーをかける必要性を感じ始めます。
公孫淵の裏切りと使節団の逃亡
■ 公孫淵の裏切りと使節団の逃亡
公孫淵の裏切りと使節団の逃亡
孫権は当然のように公孫淵の臣従を喜びました。さっそく公孫淵を「燕王」に封じます。そして大使節団を遼東に送り込もうとしました。
太常の張弥、執金吾の許晏、将軍の賀達ら400人にも及ぶ大使節団と、1万という大軍です。孫権の家臣らは反対しましたが、孫権は耳を貸しませんでした。
しかし、魏に軍事力でプレッシャーをかけられている公孫淵は、孫権を裏切ります。
使者として訪れていた張弥や許晏を処刑し、その首を魏に送り、恭順の意を示したのです。魏はその見返りとして、公孫淵を楽浪公に封じました。
怒りが収まらないのは呉の孫権です。孫権は大軍を率いて遼東を攻めようとします。裏切り者の公孫淵を討とうと考えたのですが、さすがに無謀すぎるこの案は大勢の家臣に止められ、中止となります。
不幸中の幸いは、公孫淵の虐殺を免れた呉の使節団の一部が、西の高句麗まで逃亡し、高句麗の王に謁見することができたことでした。
高句麗の臣従と裏切り
■ 高句麗の臣従と裏切り
高句麗の臣従と裏切り
高句麗の王・宮(東川王)は、この使節団を無事に呉に送り返し、さらに呉に臣従することを約束しました。
これで孫権は、高句麗と手を結び、公孫淵を倒し、さらに北から魏に圧力をかけていくことが可能になったわけです。孫権は喜び、高句麗王に対し、「単于」の称号を与えます。
しかしこちらにも警戒していた魏は、幽州刺史から高句麗王に対し、呉の使者を殺すよう指示を送りました。
236年、高句麗王は指示に従い、呉の使者である胡衛を処刑し、その首を魏に送り届けました。呉は公孫淵に引き続き、高句麗にも裏切られたのです。
それでもその後、孫権は高句麗に対し、使者を送り続けています。
高句麗の苦悩
■ 高句麗の苦悩
高句麗の苦悩
高句麗はツングース系の夫餘から分かれた部族国家です。かなりの軍事力を誇っていたと考えらえますが、公孫度に敗れ、その後も公孫氏に圧力をかけられ、丸都に移りました。ちょうど呉に対して朝貢外交を行った時期になります。
239年、高句麗は魏の司馬懿に協力し、兵を出して公孫淵を制圧することに成功しました。高句麗を苦しめた公孫氏はこれによって滅亡します。
しかし高句麗はその後、度々魏の領土を侵すようになります。244年には魏の将軍である毌丘倹についに攻め込まれました。高句麗王は2万の軍勢を率いましたが、連戦連敗だったようです。丸都城も陥落していますが、すぐに捕虜と共に返還されています。
それでも高句麗は服従せず、246年にかけて毌丘倹は出陣し、またも見事に丸都城を陥落させ、逃亡を図る高句麗王・宮を王頎に追撃させました。しかし捕らえることはできず取り逃がします。王頎はそのまま帯方郡の太守となっています。
その頃の孫権は後継者を巡る紛争の真っただ中で、とても遼東にまで手を伸ばしている余裕はなかったと考えらえます。孫権の遺志を継ぐ人物も登場してきていません。呉は長く内紛の時代に突入していきます。
こうして孫権の遼東支配は夢のまま終わったのです。
高句麗の大逆転
■ 高句麗の大逆転
高句麗の大逆転
高句麗王が逃れたため、滅亡を免れ、ここから少しずつ高句麗は息を吹き返してきます。
高句麗が再び盛り返してくるのは、三国が晋によって統一された後の312年から313年にかけてのことになります。孫権も没しており、魏はおろか、すでに呉も滅びていました。
高句麗は晋の内部の混乱に乗じて、楽浪郡を滅ぼします。ちなみに帯方郡も韓によって滅ぼされています。
こうしてまた遼東は混乱の時代に突入していくことになるのです。4世紀の末には朝鮮半島に侵攻してきた倭とも高句麗は交戦するようになります。
まとめ・孫権が遼東を支配できていたら
■ まとめ・孫権が遼東を支配できていたら
まとめ・孫権が遼東を支配できていたら
公孫淵や高句麗が孫権と手を結び、遼東を支配できていたら、魏もそうやすやすと攻略はできなかったことでしょう。呉は北と南から魏を挟撃できる態勢をとれていたはずです。揚州や徐州への侵攻も成功していたかもしれません。
ただし、問題は遼東と呉の交通手段が海路だったということでしょう。この時代はまだそこまで航海術が発達しておらず、細かな連携はなかなか難しかったと考えられます。それがわかっていただけに、公孫淵も高句麗もそこまで呉を頼りにできなかったのかもしれません。
呉としては強大な国家である魏を崩すために、遼東支配に力を注いでいた時期もありましたが、ほとんど成果はあげられなかったことになります。魏がしっかりと警戒していたことも、外交を進展させられなかった要因だったようですね。
悔しがっている孫権の姿が想像できるようです。