私が蜀よりの人間なので、かなり偏った内容かもしれませんが、三国志、超、初心者向け概要を記述しました。
三国志 概略
■ 三国志 概略
三国志 概略
漢の末期、政治が乱れ、各地の飢饉で民が飢えている時代。張角 率いる 黄巾の乱が各地で勃発していました。そこで、漢帝国の将軍や、曹操・劉備をはじめ若き英雄達が、各地で乱を鎮めていきます。しかし、大地も人心も荒れ果てている中、さらに、中央・地方では汚職がはびこり、民たちは生きる術を、希望を失いつつあったのです。
そんな中、漢王朝の再興を目指す 劉備が、関羽と張飛と義兄弟の絆を結びます。
多くの英雄が争う中で、劉備は、まだまだ小さい勢力ですが、劉備のライバル 曹操 が台頭します。
天下統一を狙う曹操は、北を制圧し、南方の勢力、呉 への進撃を行います。
この頃、劉備は、天才軍師の諸葛孔明を登用して流れを変え、孔明の卓越した作戦に従い、呉とも組み、曹操を撃破します。さらに劉備は、西方の蜀を奪取。曹操の魏、呉 と共に天下を三分することに成功したのです。
その後、ライバルの曹操は死に、漢も滅び、孔明の反対を押し切って呉と戦った劉備も大敗して亡くなります。遺志を継いだ孔明は、曹操が実質的に建国した魏との戦いに挑みますが、志半ばで倒れ、メインの三国志は、物語の幕を降ろすのです。
孔明の死後、蜀も魏に滅ぼされ、魏・呉・蜀のいずれも天下は統一できず、孔明のライバル・司馬仲達の子孫が建国した新国家・晋が天下を統一したのでした。
三国志の最大の魅力は、多彩で個性的なキャラにあります。
そして、国盗りの軍略や合戦、武将、軍師、その周辺にある政治的な仕掛け、人物と共に、各所に出てくるさまざまな名場面がいろどりを添えた物語を作っています。
劉備と関羽、張飛が義兄弟になる「桃園の誓い」、絶世の美女が自らを犠牲にして呂布と董卓をたぶらかして争うように仕向ける「連環の計」、劉備が孔明を懸命に口説く「三顧の礼」、曹操が火計で大敗する「赤壁の戦い」、孔明と仲達が激突する「五丈原の戦い」などがあり、映画、書籍、コミック、ゲームと、様々な角度から掘り下げてコンテンツとなっています。
黄巾の乱
■ 黄巾の乱
黄巾の乱
黄巾の乱は、2世紀末から3世紀初めにかけて発生した、中国史上最初の大規模な農民反乱の1つです。黄巾とは、反乱を起こした農民たちが身につけた黄色い頭巾に由来します。
この反乱は、漢末期に起こった政治的混乱や経済的困難、地方豪族や官僚の横暴などが原因で発生しました。農民たちは、自分たちの生活を苦しめる税金や労役を軽減し、土地の平分や政治的自由を求めて反乱を起こします。
反乱は、184年に黄巾軍の指導者である張角が率いる数十万人の軍勢が首都の洛陽を包囲したことから始まりました。しかし、反乱軍は、指導者の混乱や組織の不十分さ、兵器の不足などの問題に直面し、長期戦に耐えられずに次第に勢力を失っていきました。
後漢の官軍や地方豪族の軍勢は、反乱軍を鎮圧するために積極的に動き、反乱軍の指導者である張角や張宝、張燕などを次々に討ち取りました。そして、反乱軍の勢力は次第に弱まり、最終的には、反乱軍の指導者たちが殺された後、反乱は鎮圧されました。
何進
■ 何進
何進
189年、皇帝「霊帝」崩御、14歳の劉弁が即位した時、朝廷の実権を握っていたのは、私腹を肥やすことばかりしていた宦官でした。
それに対抗する大将軍の何進は、袁紹・袁術らとともに各地の諸侯を呼び寄せますが、宦官側は、討たれる前に大将軍何進を騙し討ちします。
董卓
■ 董卓
董卓
この後、亡き何進の呼びかけに答えた董卓が上洛し、力を背景に権力を思うままに、劉弁を廃して、劉協を献帝として即位させます。
朝廷を支配した董卓は、悪逆の限りを尽くし、曹操・袁紹達は洛陽から脱出することになります。
さらに、董卓は、三国志最強の武将、呂布に名馬、赤兎馬(赤兎馬とは)を与え、養子とし最強を手に入れてしまうのです。
赤兎馬とは
■ 赤兎馬とは
赤兎馬とは
董卓の横暴に対し、反董卓連合軍を結成し董卓を倒そうとしますが、董卓は、首都の洛陽を焼き払い、守りの固い長安に遷都してしまいます。
一方、董卓の圧政に対して、大臣の王允は、美女の貂蝉を使う計画を実行し、董卓を呂布が殺すのでした。
群雄割拠
■ 群雄割拠
群雄割拠
董卓暗殺後、世はさらに乱れ、各地に群雄が割拠していきます。
結局のところ、曹操は帝を連れて丞相となることに。
玉璽を手に入れた孫堅は、器を示すも劉表の部下 黄祖との戦で戦死し、その野望は、息子の孫策に引き継がれます。名門貴族の袁紹・袁術は、北と南で勢力を拡大します。
呂布と劉備は、付かず離れずの状況を繰り返します。
呂布は最強のまま勢力を伸ばし、曹操と対峙します。その時の劉備は呂布と決別し曹操の元で客将となり、曹操とともに呂布を倒しました。その後、劉備は、曹操の元から脱したのです。
官渡の戦い
■ 官渡の戦い
官渡の戦い
呂布を倒した曹操は、河北四州を制圧し、中華最大の勢力に成長した袁紹と対峙します。
袁紹は、曹操に対する勢力をまとめ上げる力量がなく、また、自力で曹操を倒せると過信し、曹操は、四方を敵に囲まれているにもかかわらず、すべての兵力・麦の一粒までもかきあつめて袁紹に挑みました。この統制力が、袁紹の大軍を破り、袁紹の勢力を失墜させることになったのです。
その頃、孫堅の意志を継ぐ孫策は、周瑜と長江南岸の支配に乗り出し、連戦錬磨で江東の小覇王と呼ばれるようになりました。
しかし孫策も死んでしまい、後継の孫権が孫策の臣下に支えられて勢力を伸ばし、周瑜も孫権を支え、天下を目指すことを決意します。
劉備は南に逃れて、皇帝の一族でもある荊州の劉表のもとに身を寄せますが、劉表は、年老いて、領土を守るのが精一杯で、後継者に悩む日々が続いていました。
次男劉琮は、幼いながらも、生母とその一族の後押しで、徐々に、後継者になろうとしていました。
軍師孔明の登場と蜀呉同盟
■ 軍師孔明の登場と蜀呉同盟
軍師孔明の登場と蜀呉同盟
北と中原を制覇した曹操は、かつての袁紹をはるかに超える勢力で、中華に敵なし。天下を目前とします。劉表をターゲットに動き出しますが、徐庶という軍師に戦術を教えられ、曹操軍の先鋒を打破できました。徐庶は、曹操の引き抜きに屈しますが、劉備の元を去る前に、荊州に、天才軍師「臥竜:諸葛亮孔明」が潜んでいることを教えてくれます。
天下三分の計
■ 天下三分の計
天下三分の計
天下は、定まっていない。劉備が、四川の地(蜀)を得て、呉の孫権とともに曹操に対抗する。
こうして、諸葛亮孔明の案、天下三分の計が進められます。
諸葛亮孔明は、ついに、劉備という主を得て、遅ればせながら戦乱の世に身を投じることになります。
そして、荊州の主、劉表が世を去り、後継の劉琮は、荊州を曹操に差し出してしまいます。
曹操軍は、荊州を奪い、再び、流浪の劉備や、呉の孫権を下すべく、数十万の兵を引き連れて進軍します。
数万の兵しか持たぬ劉備軍は、奮戦するも敵わず、単独で、曹操と戦うことはできないため、孫権との同盟で対峙しようと、諸葛亮孔明が孫権を説得に行きます。
しかし、圧倒的な曹操軍の前に、降伏論が強い孫権陣営でした。
そこに、周瑜と孔明の最大の軍師どうしが、孫権を奮い立たせ、曹操軍との戦いを決意させるのでした。ここに、三国志のクライマックスの一つとも言える赤壁の戦い始まるのでした。
赤壁の戦い
■ 赤壁の戦い
赤壁の戦い
圧倒的な兵力を誇る曹操は、周瑜率いる孫権軍と長江を挟んで対峙します。
三十万対三万とも言われる兵力差で、勝利を掴むために苦悩する周瑜でしたが、孫権軍の有利なポイントは、長江で鍛えた水軍でした。
結果、苦肉の策・連環の計・火計が続けざまに成功し、圧倒的な兵力の長江沿岸の曹操軍は、紅蓮の炎に焼かれて燃え上がり敗走させられることになりました。
赤壁で曹操を破った劉備と孫権は、孫権の妹が劉備に輿入れすることで、表面上は同盟が強固に見えました。
しかし、孔明の戦略「天下三分」に対し、周瑜の戦略は、劉備を外した「天下二分」なのです。水面下では、静かに英雄の溝を広げて行ったのです。
しかし、呉には最大の悲劇が訪れます。呉の総司令官として、荊州攻略にあたっていた周瑜が病に倒れて帰らぬ人になってしまいます。
稀代の英雄を失った呉は、劉備の益州侵攻を認めざる負えない状況でした。
一方、北西では、西涼を支配する錦馬超と呼ばれた名将の馬超と同盟者の韓遂が、曹操との戦いで五分の戦いを繰り広げていました。
劉備の益州攻略
■ 劉備の益州攻略
劉備の益州攻略
天下三分の計を目指して、益州に進出する劉備は、益州を支配する劉璋を降伏させました。
劉備は、臥竜・鳳雛と称された軍師の龐統を落鳳坡で失うなど苦戦しますが、さすがに戦なれした劉備軍は、益州を攻略し劉璋を降伏させたのです。
天下三分の計が叶った劉備。
馬超を下した曹操が、漢中から益州の劉備を倒そうと向かいます。
荊州に残る関羽は、荊州から北進し、中原をうかがいます。
劉備は、益州と孔明を得て、いままで曹操に追い回されるばかりでしたが、ようやく互角に戦えるようになりました。
英雄 関羽の死
■ 英雄 関羽の死
英雄 関羽の死
漢中・荊州と2方面からの劉備軍の侵攻に苦しむ曹操の状況をみて、呉の孫権は、劉備が勝った後の心配をし、蜀を裏切ります。
中原を伺い侵攻する関羽は、蜀呉の同盟に安心して、背後をがら空きにしていました。
そして、孫権の裏切りで関羽が戦死してしまいます。
同じ時に生まれなくても、同じ日に死ぬことを願った義弟の死に動揺する劉備は、呉の孫権を討つことに決めます。
信義と徳を信念に生きてきた劉備は、愚策を知りつつ孔明の反対を押し切り戦に向かいます。
そして、もうひとりの弟、張飛の命もまた尽きてしまいました。
魏を放り出して、弱い二国が争うのは、戦略としては、まったくの愚策でした。
ただ、魏王となった曹操の命もまた尽きようとしていました。
後継を長男の曹丕に譲り、己の死に向けて準備する稀代の英雄が、そこには居ました。
弔い合戦 夷陵の戦い
■ 弔い合戦 夷陵の戦い
弔い合戦 夷陵の戦い
関羽・張飛の敵討ちと、長江を下る劉備軍に対して、孫権は、若き英才「陸遜」にすべてを委ねて迎え撃ちます。
破竹の進撃を見せる劉備軍の前に、孫権軍は、押しまくられていましたが、夷陵まで下がった陸遜は、乾坤一擲の策を成功させて、蜀軍を打ち破りました。
敗れた劉備は、白帝城で死期を悟り、孔明を呼ぶことになります。
残された諸葛亮孔明と次代の英雄達
■ 残された諸葛亮孔明と次代の英雄達
残された諸葛亮孔明と次代の英雄達
三国志初期の英雄達が次々に世を去り、残された諸葛亮孔明は、戦で疲弊した蜀の国力を回復させ、呉との同盟を復活させて、魏に挑む準備を整えていきます。
蜀の南の異民族を服属させた孔明は、出師の表を劉備の息子「劉禅」に捧げて、魏攻略の戦を始めました。
劉備の遺志を継ぎ、魏に戦いを挑む孔明と、宿命のライバル司馬懿仲達を総司令官に任じて、孔明の侵攻を防ぎます。
孔明は、魏を何度も追い詰めるが、どの戦でも、運が味方せず、撤退を余儀なきされます。
陣を固め、まったく動かない司馬懿に対し、長引く戦は、諸葛亮孔明の体を蝕んでいきました。
そして、ついに、「五丈原の地に巨星墜つ」英雄・豪傑が去り、愛弟子を斬り、それでも、戦に挑んだ孔明は、ここに、死んでしまったのです。三国志は、孔明の死をもって幕を下ろすほど大きな死でした。
実際、三国志は、まだまだ続くのですが、諸葛亮孔明の死で、多くの映画、書籍、コミック、ゲームなど、速足でストーリーが進むような気がしてなりません。
やはり、魅力ある英雄たちの大きなエピソードが前半に詰まっているのかもしれませんね。
コミックなのか、映画なのか、ゲーム? ご自身の好きな コンテンツを通して一度でも触れてみると、好きになること間違いなし!の三国志だと思いますよ。
そして、三国志 最後 に 勝っ た の は
■ そして、三国志 最後 に 勝っ た の は
そして、三国志 最後 に 勝っ た の は
蒼穹に浮かぶ星々の光が、遠くの時代を照らし出していた。
その歴史の中でも、数多の英雄たちが熱き戦いを繰り広げ、栄光と悲劇を刻み込んできた。彼らの中でも特に知られるのが、中国史上最も壮大な戦乱の舞台として名高い「三国志」であった。
その名を聞けば、多くの人がその壮絶な物語を想像することだろう。
三国志とは、中国東部を舞台に三つの勢力が争い、辣腕を振るった時代で、その勢力は、魏・呉・蜀と呼ばれ、曹操・孫権・劉備という名だたる英雄がそれぞれを率いていた。
彼らは、数々の戦いや策略を巡らせながら、その地位を築き上げていったが、歴史の中で最後に勝利を収めたのは、果たして誰なのだろうか?
その結末がどうなったのか、そして、どのような経緯でその結末に至ったのかについて追記します。
劉備は、晩年に病に侵され、ついに亡くなりました。
彼の死後、そして諸葛孔明の死後、その後継者たちは争いを始め、急速に三国時代は終焉を迎えることになります。
魏の曹丕は、彼の父である曹操という名将の跡を継ぎ、国を発展させていき、ついに、蜀の最後の君主、劉禅を降伏させることが出来ました。
こうして三国志の物語は終幕を迎えました。
古代の雑学を発信