黄巾の乱の勃発
■ 黄巾の乱の勃発
黄巾の乱の勃発
「黄巾の乱」三国志演義や漫画では「黄巾賊の乱」「黄巾党の乱」と呼ばれることがありますが、正式名称は「黄巾の乱」です。この事件は184年に太平道の教祖様である張角を指導者として起こった農民反乱です。日本では稲作が国内に広まりつつある時で、まだ農民という概念もなかったでしょう。農民反乱というものが起こるだけで、当時中国がいかに進んでいた国だったかが分かります。
当時は、漢王朝の末期、霊帝の時代でした。漢王朝の特徴として一族を非常に重用しました。そのため、外戚の権力が非常に強くなりました。同時に後宮を取り仕切る宦官の力も増大しました。そして、権力争いが盛んになり、朝廷・国内が大いに乱れました。それに合わせるように羌族が度々侵攻してきます。内政の混乱と度重なる戦争によって民衆の疲弊度が高まります。また、有力豪族による土地併合も進んでいきます。土地を失い、食べるものもない農民の逃げ先として、宗教である太平道や五斗米道が選択されます。そうやって力をつけた太平道が反乱を起こし、黄巾の乱が起こったのです。
400年前に、世界初の農民一揆である陳勝・呉広の乱がきっかけで秦帝国が滅びたのと同じように、黄巾の乱がきっかけで漢帝国滅亡の幕開けとなるのです。
張角--太平道の教祖
■ 張角--太平道の教祖
張角--太平道の教祖
黄巾の乱の首謀者は張角です。彼は教科書にも名前が出ている、歴史学的にも非常に重要な人物です。三国志の登場人物で、他に教科書に名前が出ている人物は曹操・曹丕親子くらいでしょう。
張角は冀州の出身です。そして太平道という宗教の教祖・指導者として信者を中心に農民たちを率いて大規模一揆を起こしました。では、太平道はどのような宗教なのでしょうか?流行った時代と場所は漢王朝末期、華北の地域です。信仰は「太平清領書」という経典を信者に読み聞かせ、聖水を与えることで病気の治療をしていたそうです。その「太平清領書」は于吉(三国志演義で孫策に殺された于吉仙人のモデル!?)という方士が泉のほとりで手に入れたと言われています。その後の経緯は不明ですが「太平清領書」を張角が手に入れました。張角も太平道の教祖として、病気の信者の治療をして、回復した信者達に厚く信頼されていました。太平道の中身のメインは
・吉凶や幸不幸は本人の行いによる
・善行の積み重ねが長寿につながる
・静かな部屋での内省
などを重視していたようです。仏教の禅宗とかに近い考え方なのでしょうか!?
こうして、信者を中心とした農民たちを張角、その弟の張宝・張梁が率いて黄巾の乱は起こります。
蒼天已死
■ 蒼天已死
蒼天已死
黄巾党には有名なスローガンがあります。
「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉」
意味的には
「青空は既にない。黄色い布を巻いた男たちを今こそ立ち上がれ。甲子の年(184年)に良いことが起こるぞ!!」
という感じです。演義では五行陰陽説と結びつけて漢王朝を蒼色、新しい時代を黄色に例えていますが、これは五行説的にも間違っています。当時の漢王朝は赤色を名乗っていました。当時名乗っていましたというのは、実は漢王朝は自分たちを五行のどれであるかをコロコロ変えています。ですが、霊帝の時代には漢王朝は火徳の赤色ということになっていました。なので、蒼色を打倒して黄色の時代を作ろうというのは全く的外れになってしまいます。
黄巾党の決起
■ 黄巾党の決起
黄巾党の決起
黄巾党は国を揺るがすくらいの大規模反乱を起こします。通常、農民反乱ですと、結局戦い方を知らないため、鎮圧軍にあっという間に負けてしまったりするのですが、そうはなりませんでした。黄巾党は計画・準備をもって戦っていきました。
まず、馬元義将軍を洛陽に送り込み、中常時の何名かに内応の約束を取り付けさせます。ところが、それに対して裏切り者が出て、決起の計画がばれて、馬元義は車裂きの刑にあって処刑されてしまいます。ことを重く見た霊帝は張角捕縛の命令を下します。それに対して張角は予定より早く、弟の張宝・張梁と共に兵を起こします。朝廷は何進を大将軍とし、兵を率いさせます。盧植将軍を張角に向かわせ、皇甫嵩・朱儁将軍をそれぞれ黄巾党の勢いの強いところに派遣します。
黄巾党VS官軍
■ 黄巾党VS官軍
黄巾党VS官軍
朱儁は予州の潁川で黄巾党の波才と激突し、敗走します。そして皇甫嵩とともに籠城して対抗しますが波才の軍勢に取り囲まれます。劣勢となりますが、皇甫嵩が火攻めの計をもって波才軍を打ち破ると、別部隊の曹操軍とも合流し黄巾党の軍勢を大いに破ります。そして、さらに別働隊の王允と共に、予州を平定します。
荊州の南陽では張曼成率いる南陽黄巾党が蜂起します。張曼成は討ち死にしますが、新たに趙弘を指揮官に取り立てて宛城にこもります。朱儁は趙弘を破り戦死させますが、黄巾党は今度は韓忠を指揮官にして抵抗し続けます。それに対して、朱儁配下であった孫堅の奮闘もあり、ついに官軍は宛城を落とします。韓忠は降伏しますが、許されず処刑され、南陽黄巾党はその後は孫夏を中心に抵抗し続けます。ですが、最後に朱儁が黄巾党を打ち破り、南陽黄巾軍は壊滅します。
黄巾党の大将である張角軍に向かった盧植軍は黄巾党に対して有利に戦い続けます。張角は広宗に籠城し、盧植は包囲します。盧植は優勢なままですが、やってきた役人に賄賂を送らなかったため、更迭されてしまいます。そして、変わってやってきた将軍が董卓です。ですが、彼は黄巾党に撃破されてしまいます。
朝廷はこれに対して皇甫嵩を冀州に派遣します。皇甫嵩は期待に応え、張梁・張宝を打ち破り戦死させます。また、張角は既に病死しており、指導者がいなくなった黄巾党は急速に衰え、乱は収束に向かいます。
黄巾党のその後
■ 黄巾党のその後
黄巾党のその後
黄巾党の指導者たちはいなくなりますが、漢王朝の政治が安定したわけでは全く無いので、残党たちは山賊行為・盗賊行為を繰り返していきます。これらの内、楊奉・韓暹が率いている残党は「白波賊」と呼ばれていました。彼らは献帝が長安を脱出し、李傕・郭汜の軍勢から逃げる時手助けをします。
曹操は黄巾党の残党を討伐した際に百万人を超えるとも言われる彼らを降伏させます。その中から、精鋭を選び、自軍に彼らを加えます。彼らは「青州兵」と呼ばれ、後に曹操軍の中核を成すことになります。
また、黄巾党の勢力の強かった華北から江南や益州に避難した民衆も多数いました。そのことが揚州・益州を人口の多い豊かな地域にすることになります。そして、三国の呉・蜀漢が成立する基盤となるのです。