三国志の始まり~王朝の乱れより黄巾の乱の始まり~

三国志の始まり~王朝の乱れより黄巾の乱の始まり~

「蒼天己死」~そうてんすでにしす~ 腐敗した漢王朝に代わる新しい世界を求めた者たちは、この言葉のもと各地で蜂起する。これが「黄巾の乱」である。この反乱が成功することがなかったが、三国志の英雄たちを歴史の表舞台に登場させることとなる。


黄巾の乱

黄巾の乱

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太平道教祖 張角(ちょうかく)

太平道教祖 張角(ちょうかく)

太平道教祖 張角(ちょうかく)

張角はその字も生年も不明である。出身地が冀州(きしゅう)の鋸鹿(きょろく)都であるということ以外、その出自に関する記録はなく、その生涯も謎に包まれている。
その人格を窺わせるようなエピソードも残っておらず、彼の足跡は太平道の歩みをそのまま追うしかない。
張角は170年ごろ、太平道を設立している。彼は病人たちに自分の罪を告白させ、符水(ふすい)という護符を沈めた水を飲ませて病気を治すという療法で信者を集めた。
彼の教団は急速に成長し、十数年で徐州(じょしゅう)、幽州(ゆうしゅう)、冀州(きしゅう)、荊州(けいしゅう)、揚州(ようしゅう)、豫州(よしゅう)などの八州で数十万の信徒を獲得する。
この時の信者数は諸説によるが40~50万人とも言われている。この当時の人口数で考えると大規模な地域で大多数の市民たちが賛同していたことが明らかである。
張角はこの信者たちを、数千から一万人で構成される"方(ほう)"と呼ばれる管区に分け組織化し、渠師(きょすい)と呼ばれる頭目に統率させた。
ここで、知らざれる巧みな編成の手腕が有名である。張角は乱に参加する民軍を主に7千人と1万人ごとに分け、それぞれに小方、大方というリーダーを置くといったように指揮系統をはっきりさせ、整った軍制をしいたのである。生来のアジテーターであるだけでなく、用兵の才も備えていたといっても過言ではない。
また、この組織化した集団をまとめ上げるためにも信頼のおけるものには役職や階級といった責任を与え、指示系統をトップダウン方式とするような組織体系を作った。
まず、弟の張梁(ちょうりょう)を人公(じんこう)将軍、同じく弟の張宝(ちょうほう)を地公(ちこう)将軍に任命する。
自信は大賢良師(だいけんりょうし)、天公(てんこう)将軍と称するようになった。
張角は彼ら信者に
「蒼天己死(そうてんすでにしし) 黄点當立(こうてんまさにたつべし) 歳在申子(としはかつしにあり) 天下大吉(てんかだいきち)」
と各地の官庁に落書きをさせ、蜂起を予告させたのである。
これは当時の民からは、悪の象徴である漢王朝への不満を爆発させる起爆剤となった。そして我先にと黄色の帽子を被り集団化していった。
それとともに渠師の一人である馬元義(ばげんぎ)に荊州と揚州の信者を統率させ、冀州の鄴(ぎょう)に集結させる。
馬元義は宮中に入り込み、宦官(かんがん)の封藷(ホウショ)、除奉たちに内応の約束を取り付け、184年の3月に官中と地方で同時に蜂起し、漢王朝を転覆させようとしたのである。
しかし、この計画は張角の弟子である唐周が裏切り、密告したため頓挫。馬元義は車裂きにされ、官中の内応者たちも誅殺された。
反乱の計画が露呈したことを知った張角は、漢に先手を打って各地の方に命じて一斉に信者たちを蜂起させる。これが俗にいう太平道の乱の詳細である。
蜂起後は、反乱自体が計画とは違ったものとなったため、各地との連携もうまくいかず、態勢を立て直した漢王朝の軍によって各個撃破されていく状態となった。
実際に張角が戦闘の指示を直接行うことは少なく、常に後方より戦況を見つめ予言のようなことを伝達役を使って前線まで指示を与えていたといわれている。
そして、太平道は最終的に広宗という城に追い詰められる。ここで最後の抵抗を試みるが、張角の病死によって太平道の乱はひとまず鎮圧されることになる。
この乱はたんなる大規模な住民反乱などではなく、宮廷内までも巻き込んだ国家転覆の計画であった。
それゆえ、地方のみならず宮中にまで同調する者が多数いたのである。太平道は間違いなく、漢王朝に代わって天下を担おうと生まれた組織であり、
その教主張角もまた天下を狙った英傑の一人なのである。
現在に置き換えると、群衆を束ねて現状の政党や国自体をひっくり返すクーデターを起こそうとしたのだから、ある種の革命家であることには間違いない。
賛否両論さるが、三国志という時代を作ったのは張角であるためヒーロー的な扱いをする専門家も少なくない。
しかし、歴史的な資料が少なく情報も乏しいため、現状では正史や演義、地方に伝わる人物伝からの情報を読み解いていくしかない。
小説や漫画、ゲームなどでは信者を騙した悪の教祖というイメージであるが、その当時は漢王朝に代わって劉氏以外の王朝が立つとの思想をいち早く実行した先駆者である。
その思想があって、後の魏、呉が成立する各目的根拠ともなっていくのである。
また、イメージ画では術師のような恰好をしているが、これは演義の時に怪しい呪いや太平道の名において天よりお告げをうけていたという予言師という
情景からきたイメージであり、実際は自ら黄色の帽子を被っており、身のこなしも一般の兵とほとんど変わらなかったのではないかという説もある。

張角にまつわる小ネタ

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前進は五斗米道(ごとべいどう)?

前進は五斗米道(ごとべいどう)?

前進は五斗米道(ごとべいどう)?

実は張角の張性は太平道ではなく、五斗米道(ごとべいどう)で受け継がれる姓である。
始祖張陵以来、代々張姓を名乗ってきた五斗米道は、自分の一族を太平道に送り込んだのではないかという説もある。
ある小説ではその説をうまくストーリーに取り入れているものもある。
正史や演義では、張角が活躍する姿はあまり描かれずあっさりと病死してしまうため物足りなさを感じるが、三国志マニアには張角は一体何者か?を必ず語り合うネタの一つである。

五行説

五行説

五行説

五行説とは、森羅万象(しんらばんしょう)を木火土金水の相生と相克で説明する、古代中国の世界観である。
王朝もこの例外ではなく、それぞれの王朝に五行を当てはめ、木火土金水の順に移り変わっていくとされた。
それによれば漢は火徳の王朝であり、続くのは土徳を持った王朝とされた。
太平道もその説に従って、土徳を象徴する黄色の頭巾をかぶって蜂起したのである。
また、のちに魏、呉王朝が成立したとき、その年号を魏は黄初、呉は黄武としたのも、
この説に従ったものである。

棚からぼたもち将軍? 何進(かしん)

棚からぼたもち将軍? 何進(かしん)

棚からぼたもち将軍? 何進(かしん)

太平道のクーデター失敗により宦官の威信が低下したことを利用し大将軍となった棚からぼた餅、何進(かしん)。
張角のおかげ?で一瞬の夢を見れたといっても過言ではない。
実は何進の妹が美貌で霊帝に溺愛され、その娘が曹操の側室となっている。
しかし、何進がどういうルックスであったかは
現在の書物からは記録が残っていない。もしかしたら美男子だったのかもしれない。


この記事の三国志ライター

三国志超大好き!一番のお気に入りは関羽です。 漢(おとこ)の生き様に憧れます。

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