魏軍武勇筆頭! 義にも厚かった猛将・張遼

魏軍武勇筆頭! 義にも厚かった猛将・張遼

曹操配下の将軍の中でもトップクラスの評価を受けるのが張遼だ。幾度か主君を変えた後に曹操に巡り合い、武名を大いに轟かせる。最後まで前線に立ち続けた武人の生涯をたどる。


 張遼(字は文遠)は、169年に雁門郡馬邑に生まれた。初めは丁原(呂布が最初に仕えていた人物)に仕え、丁原が殺されると董卓の配下となる。董卓暗殺後は呂布に従い、有力な部将となった。

 198年、呂布は曹操に敗れて処刑される。以後、張遼は曹操に仕えることになった。『三国志演義』では、命乞いをする呂布に対し、張遼は堂々と自分の首を差し出したが、劉備(玄徳)や関羽が取りなして助命されたことになっている。

関羽とも親交を結ぶ

関羽とも親交を結ぶ

関羽とも親交を結ぶ

 張遼の戦功の一つが、曹操が袁紹と雌雄を決した「官渡の戦い」(200年)である。前哨戦である白馬の戦いでは、関羽(当時は曹操のもとに降っていた)とともに出陣し、敵将の顔良を討ち取った。関羽はそのあと曹操のもとを去って劉備(玄徳)のもとへ向かうが、その時も見送りに行くなど、張遼と関羽には交流があった。武勇に優れたもの同士の敬愛の念があったのだろうか。勇猛さだけでなく、義理や人情にも厚かった人柄が察せられる。

 官渡の戦いのあとは、袁紹の遺児・袁譚と袁尚を追撃して破り、さらに北方異民族・烏桓の征伐でも大きな戦果を挙げた。

 だが、張遼の最大の見せ場は、215年の合肥の戦いだろう。合肥は現在の安徽省にある都市で、曹操と孫権の係争地となっていた。215年当時、合肥には張遼・楽進・李典が7000人の兵とともに駐屯していたが、そこに孫権が10万もの大軍を率いて迫ってきたのである。

800の兵で10万の敵に立ち向かう

800の兵で10万の敵に立ち向かう

800の兵で10万の敵に立ち向かう

 張遼と李典はもともと折り合いが悪かったが、この時は協力して難局に立ち向かった。張遼は精鋭800の兵を選び、なんと城から出撃して呉軍に突入していく。自ら先頭に立って呉の陣営に斬りこんだ張遼は、敵兵を次々と斬り捨てながら孫権のもとに肉薄した。驚いた孫権は戟を持って戦いながら退却する。

 孫権は態勢を立て直し、数に劣る張遼の軍勢を何重にも包囲した。にも関わらず。張遼は大軍による包囲を破って脱出する。逃げ遅れた味方が「将軍、私たちを見捨てるのですか」と叫ぶと、張遼は引き返して呉軍に突入し、部下を助け出して再度包囲網を突破したのである。張遼の勢いに対し、呉軍の兵は誰も正面からぶつかることができなくなってしまったという。

 張遼らが城外で戦ったのは半日ほどのことだが、その武勇に孫権軍は出鼻をくじかれてしまった。逆に合肥の守備隊の士気は大いにあがり、城を守りぬくことに成功した。

 孫権は、十数日城を包囲したものの陥落させるのは諦め、撤退を始める。これに対し、張遼は楽進らとともに城を出て呉軍を追撃した。彼らが敵軍に追いついたのは、逍遥津という橋のところである。橋を渡りきっていない呉軍には、最後衛で撤退の指揮をとっていた孫権と近衛兵、呂蒙・蒋欽・凌統・甘寧といった武将たちだった。

 破竹の勢いで呉軍に襲いかかる張遼に対し、凌統が必死の応戦をして孫権を逃がす。孫権はかろうじて橋のところまで逃げたが、橋はすでに魏軍が破壊していた。そのため、孫権は馬を操って命からがら川を越えたという。

 張遼は凌統の率いる部隊を打ち破り、凌統自身も全身に傷を負ったが、孫権が無事逃れたことを知ると、鎧を着たまま泳いで退却した。呉軍では、陳武が戦死した上、徐盛が負傷した上に旗を奪われるという屈辱的な敗北を喫したのである。

 この時の張遼の活躍は、呉の人々を大いに恐れさせた。中国の子供向け教科書『蒙求』には、当時の人々の間で張遼の武勇がどう受け取られたかを伝える逸話が載っている。張遼の武名は江東でも大いに轟いたので、江東の子供が泣き止まない時は、「遼来遼来(張遼が来るぞ)」と言って泣き止ませたという。

最後まで武人としての生き方を貫いた

最後まで武人としての生き方を貫いた

最後まで武人としての生き方を貫いた

 220年、曹操が亡くなり息子の曹丕(文帝)が跡を継いだ。50歳を超え、当時としては老境に入っていたが、まだまだ意気軒昂だったようで、孫権が魏に叛旗を翻すと再度合肥に向かっている。

 その後病を得たが回復し、222年にも曹休とともに海陵に駐屯し、孫権に睨みをきかせた。孫権は、「張遼は病み上がりだが、用心して対処せよ」と言って恐れたと言われる。

 張遼は孫権の部将の呂範を破ったが、病が悪化し、同年江都で死去した。享年54歳だった。主君の曹丕(文帝)は涙を流し、詔勅を発してその死を悼んだ。

 正史をもとにして書かれた小説『三国志演義』でも、魏の有力な将軍として活躍する。『演義』の合肥の戦いのくだりでも、楽進・李典を従える重厚な指揮官として描かれている。しかし、張遼の凄いところは、『演義』での活躍よりも正史で描写される活躍のほうが華々しいというところだ。『演義』での最期は、曹丕の呉征伐に従軍し、丁奉の矢を受けてその傷がもとで没することになっている。

 戦に強いだけでなく、
・関羽という、境遇の違う武将とも交流した。
・合肥の戦いでは、逃げ遅れた仲間の兵を助けに行った。
・亡くなった時、主君に大いに惜しまれた。
といった史実から、周囲から尊敬されていたであろうことが伺える。現在も、張遼は小説・漫画・ゲームなどで魅力的なキャラクターとして描かれ続けている。





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