反董卓連合軍にて名声を上げた孫堅の息子であり、呉を築いた孫権の兄である孫策。字は伯符。中国では長男に「伯」という字をあて、次男には「仲」という字を用いるならわしがあって、この孫策と孫権にもそれが当てはまります。(孫権の字は仲謀)孫策の生涯はわずか26年で幕を閉じますが、偉大な父を持ちながらも、長い間不遇な目に合っていた過去があります。しかしその短い生涯のなかで「江東の小覇王」と呼ばれ皆から讃えられています。周瑜や二張を始め優秀な家臣にも恵まれた孫策とはどんな人物であったのか、紐解いてみました。
父は偉大なる孫堅
■ 父は偉大なる孫堅
父は偉大なる孫堅
熾烈な歴史を刻んだ三国志時代にあって、董卓が洛陽を焦土して長安に都を遷都したのは有名な出来事。そんな横暴な振る舞いに諸侯の勇士が力を合わせて作り上げた「反董卓連合軍」。その中にあっての最大の功労者であった孫堅は、劉表との戦いで亡くなってしまいます。その時、孫策はまだ17歳。路頭に迷ってしまった孫策は袁術の勢力に吸収されてしまいます。そして袁術のもとで孫策は武勇や兵法を学んでいきます。父に劣らず優秀だった孫策は日に日にそうやって力を蓄えていきました。
しかし袁術に対して以前からくすぶっていた思いは募り、ある行動に出ます。袁術に吸収された兵の返還を求めたのです。その頃にはすでに袁術にとって孫策はなくてはならないくらい貴重な存在。孫策の要求に応えます。この時、孫策の下にもどってきた武将には朱治、黄蓋、程普など優秀な武将が勢揃い。後に曹操との赤壁の戦いでも活躍する人材が戻ってきます。孫策はそんな武将達をとても大切にしました。孫策は父に似て短気ではありましたが、おしゃべりで親しみやすく、仁義を重んじ、それでいてとても美男子であったという記録が残っています。つまりいい男だったのです。
そんな孫策は、猜疑心が強く魅力にも欠ける袁術に対して呆れ始め、いつでも独立できるよう準備を始めました。そんな孫策のもとへさらに貴重な人材が集まり始めます。後に二張と呼ばれる張昭や張紘といった優秀で忠義にも厚い知謀の士や、蒋欽、凌操、周泰といった武勇に長けた士が孫策を慕ってやってきます。そんな孫策に、袁術は嫉妬や猜疑心を持ち始めます。「こいつ、いつか俺を裏切るのではないか?」と。そんな雰囲気を敏感な孫策はキャッチ。これ以上袁術のもとにいるのは危険だと察知して袁術から独立することを企てます。その当時、孫策の側近だった朱治は孫策に一つの案を授けます。「現在、袁術と交戦中である劉繇に援軍として申し出ましょう」もちろんこれはあくまで袁術のもとから離れるための口実。しかしながら援軍を自らかって出る孫策に対して、袁術はまんまとその提案に乗って孫策を送り出すことに。袁術にしてみれば丁度目障りになりつつあった孫策がこの戦いによって戦死してもそれはそれで構わないくらいの気持ちだったのでしょう。こうして孫策は袁術のもとを離れていきます。
孫策の幼なじみであった知将「周瑜」との出会い
■ 孫策の幼なじみであった知将「周瑜」との出会い
孫策の幼なじみであった知将「周瑜」との出会い
袁術のもとを離れ、多くの逸材が揃っているとはいえ孫策はまだまだ他の勢力に比べれば弱小軍団に過ぎませんでした。そんな孫策に、後に呉の軍師となる周瑜と再会します。孫策と周瑜は幼なじみ。また2人はウマもあって周瑜は孫策のもとに下ります。周瑜はその時、まだ24歳。周りから周郎と呼ばれていました。三国志ファンの間でも人気の高い周瑜は、孫策に負けず劣らずルックスも良く、頭脳も明晰で、人望も厚い、まさに非の打ち所のない男。後に曹操との「赤壁」の戦いでは曹操をこてんぱんに返り討ちにしてしまいます。そんな周瑜と孫策はのちに三国志の中にあって美女として名を残す大喬小喬姉妹を妻に迎えます。(孫策が大喬、周瑜が小喬)これによって2人は義兄弟となり、より結束を強めます。その後、父であった孫堅時代のツテを使って少しずつ自分たちの地盤を固め始めます。そして最初は1,000人くらいであった兵力もやがては5,000人を超えるまでに。そうして袁術から逃れる口実であった劉繇に対して進軍を始めます。この時、西暦195年。孫策が後に小覇王と呼ばれる戦いの幕開けです。
のちに呉の礎を築いた孫策の凄まじい一生
■ のちに呉の礎を築いた孫策の凄まじい一生
のちに呉の礎を築いた孫策の凄まじい一生
劉繇との戦いに勝利した孫策は、劉繇の領土を拠点とします。この時点ですでに袁術から独立したことは明白。孫策はさらに江東へと勢力を拡大していきます。まずは会稽郡の王朗を攻略。こうした戦いで得たものは領土だけでなく、貴重な人材も孫策は得ていきます。特に呉の中でも猛将として知られる太史慈までも自軍に引き込んでいき、さらに孫策の軍勢は勢いを増してゆきます。そんな孫策の活躍を憎むあの人が孫策に対して進軍を始めました。そう、あの袁術。この時にしてようやく劉繇の援軍が自分のもとを離れるための策略だと知った袁術は祖郎を筆頭にして軍を差し向けますが孫策はそれを返り討ちにするだけでなく、祖郎を仲間にしてしまいます。これに対して袁術はさらに激情しますが、手にしてしまった玉璽(本物の玉璽かどうかははっきりしていませんが)をもとに自分を皇帝だと名乗ってのぼせてしまった挙げ句、財産を使い込んだり、度重なる負け戦や飢饉によって孫策に差し向ける国力はすでにありませんでした。孫策はその後も精力的に領土を拡大していきますが、そんな活躍を周りの対抗勢力は不気味に思い、徐々に孫策を警戒しはじめます。敵対勢力へと変わっていった中で、許貢が孫策に送った刺客によって孫策は深い傷を負い、それが日に日に悪化して結局は帰らぬ人となってしまいます。孫策は死の淵に立ったとき、実の弟である孫権を呼んで国の後を託します。その時、孫策は苦痛に歪んでいた顔を穏やかな表情にして「お前の不安な気持ちは分かる。私も父が死んだ時は17歳だった。しかしお前には頼りになる家臣がたくさんいる。内政で困った時は二張(張昭、張紘)に、外交については周瑜を頼りにしろ。そうして国を盛りたててゆけ」と最後の言葉を残します。26歳というあまりに短すぎる生涯でした。その後、孫権は兄の意思を継ぎ、後に三国時代となる呉の礎を打ち立ててゆくのでした。
短い生涯でありながらも、眩い光を放った孫策
■ 短い生涯でありながらも、眩い光を放った孫策
短い生涯でありながらも、眩い光を放った孫策
孫策は短い生涯でありながらも、その印象は三国志において深く刻まれるくらい印象的な人物です。不遇な青年時代を送りながらも、めげずに己の道を進んで行く姿には、どこか現代には失われてしまったハングリー精神が宿っているように思います。そんな孫策だからこそ、あれだけの優秀な人物が彼を慕っていたのでしょう。そんな孫策だからこそ、未だに三国志の中でもファンが多いのではないかと、同じく孫策ファンの一人である私は考えています。常に戦いの連続だった孫策。そしてその戦いに勝ち続けた孫策。人々はそんな孫策のことを讃えて「小覇王」と称号を与えるのでした。