そもそもの発端は関羽を交えた荊州の領土争い
■ そもそもの発端は関羽を交えた荊州の領土争い
そもそもの発端は関羽を交えた荊州の領土争い
当時の皇帝(献帝)は魏の曹操(ソウソウ 155年―220年)によって傀儡にされてしまい、権力をないがしろにされていました。劉備(玄徳)は皇帝の一族であり、これを憂いて漢王朝復興を志していました。そのためには強大な魏に対抗する領地が必要で、参謀の諸葛亮(ショカツリョウ 181年―234年)の「天下三分の計」により、都から離れた蜀の地を支配し、呉の孫権(ソンケン 182年―252年)と連携して曹操に対抗しようとしていました。
曹操が河北を統一し、南下してくると劉備(玄徳)は孫権と連合して立ち向かいます。この一連の戦いが赤壁の戦いで、連合軍は大勝し、曹操は辛くも退却しました。この戦いの隙間を塗って孫権・劉備連合軍は荊州の南郡を支配しています。戦後処理では劉備(玄徳)が益州(蜀の地)を手に入れるまで荊州の地を孫権から借り受ける形になり、劉備(玄徳)の勢力は次第に大きくなっていきました。
激戦区の荊州を任されていた関羽
■ 激戦区の荊州を任されていた関羽
激戦区の荊州を任されていた関羽
劉備(玄徳)が蜀を支配するころ、魏や呉との県境にある荊州の地は戦略的に重要で、どの勢力も荊州を欲していました。劉備(玄徳)は約束を反故にして孫権に荊州南郡を返さず、最も信頼する関羽(カンウ 生年不明―220年)に守備を任せています。孫権は怒って関羽に兵を差し向けており、呂蒙(リョモウ 178年―219年)によって南郡の半分を奪回します。
この後、呉の重鎮として活躍していた魯粛(ロシュク 172年ー217年)の活躍もあって孫権と劉備は和解しており、関羽は曹操軍への対応に集中していました。関羽が曹操軍の樊城へ兵を進めると長雨の影響もあって壊滅的なダメージを負わせ、荊州方面の司令官であった曹仁(ソウジン 168年―223年)を追い込みます。
劉備(玄徳)擁護派の魯粛の死により孫権が方向転換
■ 劉備(玄徳)擁護派の魯粛の死により孫権が方向転換
劉備(玄徳)擁護派の魯粛の死により孫権が方向転換
曹操は荊州へ大規模な援軍を送り込もうとしますが、配下の司馬懿(シバイ 179年―251年)らによって反対され、孫権を味方に付けて劉備(玄徳)を攻撃するように進言され採用しています。孫権は先の荊州の領土もあって関羽を疎むようになっており、劉備(玄徳)攻撃派の呂蒙の進言もあって、荊州に兵を差し向けます。和解からの方向転換には劉備(玄徳)擁護派で貢献してきた魯粛が前年に死去したことも影響していました。
関羽は孫権軍に対する備えをおろそかにしており、呂蒙は自身が偽りの病気と称して代りの将軍に無名の陸遜(リクソン 183年―245年)を抜擢します。陸遜を知らない関羽はますます警戒を無くします。しかし、陸遜は魯粛や呂蒙に引けをとらない智略を発揮し、隙をついて関羽の本城を奪回します。曹操も漢中から徐晃(ジョコウ 生年不明―227年)を援軍として差し向けており、徐晃は関羽軍を突き破る活躍を見せました。形勢逆転された関羽は呂蒙によって退路も断たれ、遂に捕えられて処刑されてしまいます。
劉備(玄徳)を大いに落胆させた関羽と張飛の死
■ 劉備(玄徳)を大いに落胆させた関羽と張飛の死
劉備(玄徳)を大いに落胆させた関羽と張飛の死
劉備(玄徳)は挙兵時から共に苦楽を味わってきた関羽の死を知ると、大いに嘆き悲しみ、孫権に対して強烈な怒りを抱きます。221年には諸葛亮の反対を押し切り、孫権に対して関羽の弔い合戦を仕掛けます。丁度このとき、関羽と同じく劉備(玄徳)の挙兵時から参戦している張飛(チョウヒ 生年不明―221年)が部下の裏切りに遭って殺されてしまいます。裏切った部下の張達(チョウタツ)と范キョウ(ハンキョウ)は共に張飛の首を持って呉に降りました。
双肩を亡くした劉備(玄徳)は誰の言う事も聞かなくなり、心配する諸葛亮を益州の守備に就かせて自身は4万もの大軍を用いて出陣します。関羽らと並び歴戦を共にした趙雲(チョウウン 生年不明―229年)も参戦しますが、やはり出陣には反対しており、劉備(玄徳)は万が一の備えとして趙雲に江州(益州から荊州へ進む地)の守備を任せます。なお、総司令官には馮習(フウシュウ)が就きました。
呉との決戦「夷陵の戦い」
■ 呉との決戦「夷陵の戦い」
呉との決戦「夷陵の戦い」
関羽と張飛の弔い合戦とした劉備の意気込みは凄まじく、破竹の快進撃で蜀軍は呉軍を討ち破っていきました。呉軍はすでに呂蒙が死去しており、総司令官に陸遜が赴任しました。陸遜は関羽討伐に名を残すものの、呉の歴戦の諸将達には不興を買っていました。
陸遜を甘く見ていた劉備と馮習
■ 陸遜を甘く見ていた劉備と馮習
陸遜を甘く見ていた劉備と馮習
劉備(玄徳)は呉軍がまとまらないのを見越し、長江の支流である漢江を船で渡り、陸遜を誘い込んで主力は陸路で攻撃する策を取りますが、陸遜は看破して動きませんでした。陸遜は表だって動かず、蜀軍の挑発にも決して乗らずにいました。連戦連勝していた劉備軍は気候が温まるのも待って攻め込み、222年には東進して夷陵の地まで進みます。
漢江を渡り東へ進むと退却するのに困難を極め、配下の黄権(コウケン)が劉備(玄徳)に後方で指揮を執るように進言しますが、怒りを忘れていない劉備は自身の手で呉軍を討ち破ることに没頭していたので、黄権の意見を採用せずに黄権を長江の北岸に配置させます。蜀軍の先鋒隊が夷陵の地に進むと孫桓(ソンカン)の部隊を包囲し、壊滅状態に迫ります。孫桓は陸遜に救援を申し入れますが、陸遜は呉の諸将が討って出るのを必死で止めて援軍を送りませんでした。
劉備本陣も夷陵にまで進軍すると、陸遜は遂に討ってでますが、勢いにのる蜀軍に押されて退却します。このとき陸遜は蜀軍の陣地が集中しているのを見抜きました。劉備と馮習は補給路を確保したり、退却しやすいように50近い陣営を近くに設置していたのです。
陸遜の火計によって壊滅
■ 陸遜の火計によって壊滅
陸遜の火計によって壊滅
陸遜はすぐさま火計の指示を出し、夜襲に乗じて蜀軍はたちまち炎に包まれてしまいました。この火計で40近い陣営が焼け落ち、蜀軍は総退却を始めますが、陸遜は追撃を緩めずに退路を断って攻撃しました。
黄権は退路を断たれて益州に帰ることも出来ずに魏へ投降します。馮習は呉軍によって斬り殺され、劉備(玄徳)は独断で救援に駆け付けた趙雲によって助け出され、命からがら白帝城に逃げ込みました。劉備(玄徳)はこの地を永安(エイアン)と名付けています。
多くの将を失った蜀軍と劉備の死
■ 多くの将を失った蜀軍と劉備の死
多くの将を失った蜀軍と劉備の死
この戦いでは蜀軍は数万規模の死者を出し、馮習や馬良(バリョウ)、王甫(オウホ)ら優秀な武将を亡くし、諸葛亮にも評価されていた黄権が魏に降服するなど蜀の戦力は大幅に低下してしまいました。また、劉備(玄徳)は意気消沈してしまい、病に倒れてしまいます。劉備(玄徳)は駆けつけた諸葛亮らに後事を託し、孫権と和睦して翌223年に死去しました。
まとめ
■ まとめ
まとめ
荊州の争奪戦から夷陵の戦いに至るまで、蜀の中枢を担った劉備(玄徳)や関羽は呉の呂蒙や陸遜に大きくやられてしまいました。当時の蜀は、参謀として劉備の蜀入りに貢献していた法正(ホウセイ 176年―220年)やホウ統(ホウトウ 179年―214年)といった策士がすでに亡くなっており、諸葛亮が益州の国力安定に注力をせざるを得なかったのが敗因の一つに挙げられます。