隻眼の猛将、「夏侯惇元譲」
■ 隻眼の猛将、「夏侯惇元譲」
隻眼の猛将、「夏侯惇元譲」
三国志ファンならずとも、この眼帯姿に見覚えがある人は多いのではないでしょうか?夏候惇は曹操の従兄弟にあたり、「黄巾の乱」鎮圧の挙兵からその生涯を終えるまで曹操と行動をともにした忠義の将です。
激情型の性格で、齢14にして学問の師を馬鹿にした男を殺してしまうほどだったと言います。三国志最強とも言われる武将・呂布との戦いにおいて、呂布の部下・曹性の矢で左目を射抜かれた際、眼球ごと矢を引き抜いて喰らったという逸話は気性の激しさを伝えるエピソードとして有名です。
大軍を指揮することができるだけでなく、太守時代には自ら灌漑・治水工事で土砂を運んだり農作を手伝ったりと、内政にも力を発揮した夏候惇。曹操の信頼は厚く、「不臣の礼」(曹操も夏候惇も漢王朝の家臣であり、魏の臣下として上下の区別を付けない)を与えられました。
王佐の才で曹操を助けた「荀彧文若」
■ 王佐の才で曹操を助けた「荀彧文若」
王佐の才で曹操を助けた「荀彧文若」
始め、袁紹(名門の実力者で大きな権力を持っていた武将)に仕えていた荀彧でしたが、袁紹を「大業を成すことのできない器」だと判断し、曹操のもとへ赴きます。曹操は荀彧を高く評価し、「我が子房」(前漢を興した劉邦の優秀な臣下・張良子房のこと)と呼ぶほど絶大な信頼を寄せました。
194年、曹操が徐州の陶謙を攻めるため留守にしていたとき、軍師・陳宮らが裏切って呂布に兗州を乗っ取らせてしまいます。しかし、荀彧はいち早く反乱を見抜くと、わずかな兵力を駆使して守り切りました。
天下分け目の戦いと呼ばれる「官渡の戦い」でも、袁紹の大軍の勢いに怯んで退却を考える曹操に励ましの手紙を送り、勝利に導きました。「王佐の才(君主を補佐できるほどの優れた才能)」を持つ荀彧は、曹操に「我が知謀は足下にも及ばない」と言わしめています。
巨漢の武将
■ 巨漢の武将
巨漢の武将
身の丈は184cm、腹周りは120cmに及んだという巨漢の武将。猛牛二頭の尻尾を掴んで引きずる姿を見て、村を襲った黄巾賊も逃げ出したという逸話が残るほどの怪力の持ち主です。村を制圧した曹操に仕えるようになった後は、曹操の警護を任され幾度となく危機を救っています。そんな許褚を、曹操は「我が樊繪」(劉邦の怪力の臣下・樊會のこと)と可愛がり、寝所に入ることも許すほど信頼していました。
猛虎のような怪力を持つ一方で、少々頭が鈍いところがあったので「虎痴」とも呼ばれていました。しかし、「潼関の戦い」では敵兵一万人の矢が降る黄河を曹操をかばいながら渡り切り、曹操への忠義を示しています。その後の会談の場で、曹操暗殺を企んでいた馬超(後に蜀の五虎大将軍にもなる武勇に優れた人物)が、許褚の威圧感に恐れをなして諦めたとも伝えられています。曹操の死後も、息子の曹丕に仕えて魏を支え続けました。
慧眼の軍師、「郭嘉奉孝」
■ 慧眼の軍師、「郭嘉奉孝」
慧眼の軍師、「郭嘉奉孝」
荀彧と同じく始めは袁紹に仕えましたが、大業を成す人物ではないと見限った郭嘉は、すぐに袁紹のもとを去ります。時を同じくして曹操が頼りにしていた軍師・戯志才が死去したため、代わりの軍師として荀彧に推挙されました。天下について語る郭嘉に、曹操は「我が大業を成してくれる男だ」と大いに喜んだと言います。
郭嘉は鋭い先見の明を持っており、後に蜀の皇帝となる劉備(玄徳)について「いつまでも人の下にいる人間ではないので早めに殺しておくように」と進言したこともあります。さらに、異民族・烏丸に対する北方征伐では「兵は神速を尊ぶ」の語源にもなった軽装兵による速攻を進言し、見事烏丸を討伐しました。
品行はあまりよくなく、破天荒な私生活を送っていたという記述も残っていますが、注意を受けても意に介さない態度が逆に曹操に愛されました。郭嘉の死後、「赤壁の戦い」に敗戦した曹操は「郭嘉が生きていれば大敗することはなかったろう」と嘆いたそうです。
死に際まで忠義を貫いた「典韋」
■ 死に際まで忠義を貫いた「典韋」
死に際まで忠義を貫いた「典韋」
三国志で忠義の将といえば関羽が浮かぶかもしれませんが、魏の忠将といえばこの典韋が筆頭に挙がります。もとは曹操の親友・張邈に仕えており、誰にも持ち上げられない牙門旗(本陣に掲げる旗)を片手で持ち上げて見せるなど怪力で有名でした。曹操はその怪力を褒めて「悪来」(殷の紂王時代の官僚で、剛力の持ち主)と呼んだそうです。
曹操軍に加わった後は夏候惇配下となり、戦功を重ねていきます。濮陽での呂布軍との戦いでは、降り注ぐ矢を物ともせず敵兵に短戟を投げて百発百中させ、その武勲が認められて曹操親衛隊となりました。
197年、降伏したはずの張繍が謀反を起こすと、曹操を守るべく奮闘。敵兵に囲まれて矢を全身に浴び、仁王立ちで叫びながら息絶えるという壮絶な最後を遂げました。忠義心を知る曹操は息子・曹昂の死よりも典韋の死を悲しみ、戦死場所を通りがかる度に弔ったといいます。
泣く子も黙る「張遼文遠」
■ 泣く子も黙る「張遼文遠」
泣く子も黙る「張遼文遠」
「遼来遼来(張遼が来るぞ)」と言えば子どもが泣き止んだという言い伝えが残るほど、圧倒的な強さを誇った武将です。呂布の養父・丁原、三国志の代表的な悪役・董卓、そして呂布……と主君を転々とした後に曹操に召し抱えられ、軍の指揮官として前線で戦い続けました。
張遼を語る上で無視できないのが「合肥の戦い」です。215年、合肥城に駐屯していた張遼らのもとに、呉の孫権が10万の兵を引き連れて攻め入ってきました。張遼はわずか800の精鋭とともに突撃して孫権の本陣に切り込み、孤立した仲間まで救い出してみせます。蹴散らされた敵兵の士気は下がり、呉軍は撤退していきました。
もしも南方の要衝である合肥城が陥落していたら、呉がそこから本格的に攻め上がって魏を潰し、歴史は大きく変わっていただろうと言われています。その意味で、張遼は「三国時代を作った」武将でもあるのです。
まだまだいる、魅力的な「魏」の武将たち!
■ まだまだいる、魅力的な「魏」の武将たち!
まだまだいる、魅力的な「魏」の武将たち!
以上で、曹操のもとに優秀な臣下たちが集っていた事実の片鱗をお見せできたかと思います。曹操に見る目があるのはもちろんのこと、曹操自身に「大業を成す器」があったからこそ部下たちが寄り添い続けたのだと思うと、魏という国がもっと魅力的に見えてきますね。
今回ご紹介したのは特に有名な人物というだけで、魏にはまだまだ興味深いエピソードを持った武将・軍師がたくさんいます。ぜひ、小説や漫画、ゲームなど三国志のコンテンツを手に取ってみてください!