三国志から神になった関羽とその息子たち

三国志から神になった関羽とその息子たち

三国志中でも最も有名な武将である関羽は現代でも神として祀られています。関羽の活躍と共になぜ神になったのか、その子孫はどうなったかに迫ります。


美髯公・関羽

美髯公・関羽

美髯公・関羽

関羽の蚕のような眉は「臥蚕眉」と呼ばれ若くして科挙に主席合格する人相であり、その鳳凰の眼は「鳳凰眼」は出世して王侯となる人相です。さらに熟したナツメのように赤い顔だったと伝わっています。関羽のトレードマークであるあごの髯は二尺(およそ50cm)あり、その立派な髯から美髯公とも呼ばれます。あの諸葛亮も関羽の自尊心を尊重して手紙では「髯殿」と呼んでいました。身長も九尺(およそ210cm)もあったと三国志演義には書かれており、愛用する青竜偃月刀の重さは八十二斤(およそ20kg)あったそうです。魏の猛将・典韋が使用していた双戟の重さが八十斤であり、三国志演義に登場する武器の中で最も重いとされています。水滸伝の魯智深はそれに対抗して百斤の禅杖を作ろうとしています。

関公三約

関公三約

関公三約

関羽には名場面が多いですが、その中の一つが曹操に降るシーンでしょう。関羽を部下にしたい曹操の思惑と関羽の義がぶつかります。曹操は関羽と交流のあった張遼を使者に出し、降伏を呼びかけます。主君である劉備(玄徳)の夫人を守っていた関羽は、降伏を求める代わりに三つの条件を提示しました。
① 曹操ではなく漢に降るということ
② 劉備(玄徳)の夫人に誰も近寄らせないこと
③ 劉備(玄徳)の行方がわかり次第駆けつけること
曹操は承諾しながら、その一方で劉備(玄徳)のもとに帰ることができないよう関羽と劉備(玄徳)の夫人を同室に泊まらせました。しかし関羽はそんな誘惑にも屈せず、灯りを持って夜明けまで戸外で見張りをしていたそうです。
関羽は袁紹との戦いで武功をあげて曹操の恩に報います。曹操は喜んで「漢寿亭侯」の爵位を与えました。最初は「漢」の一文字がなく、関羽が喜ばない様子を見て曹操が付け加えたそうです。関羽はさすが曹操は自分の心がわかっていると喜びました。
やがて関羽は劉備(玄徳)の生存を聞きつけて命がけで帰還することになります。
まさに公言した三約を実行に移したのが関羽なのです。

曹操との関係

曹操との関係

曹操との関係

敵勢力の武将や参謀を数多く部下に加えることに成功していた曹操ですが、その中でも関羽に対する思いは強かったようです。でなければ敵将の夫人をここまで丁重に扱うはずもありません。曹操が関羽に惹かれたのはその圧倒的な武勇とともに忠義の心でした。
爵位を与え、恩賞も与えましたが、関羽はなびきません。そして恩賞には手をつけずに関羽は曹操のもとを離れます。曹操は関羽の義に感心し、追っ手を出さなかったそうです。
三国志「正史」の注釈者である裴松之は「曹操は関羽の心をくみ、去る関羽を追わず、その義をまっとうさせた。まさに王者の度量である」と曹操を評価しています。
忠義に生きる関羽も凄いですが、それを認めて尊重した曹操もまた素晴らしいといえます。
主君と部下とはまったく異なるつながりが二人の間にはあったのかもしれません。

華容道の物語

華容道の物語

華容道の物語

曹操と関羽が再び出会うことになるのが、有名な「赤壁の戦い」です。
この戦いで関羽は特に武功をあげたわけではありません。諸葛亮の策で華容道を押さえていました。諸葛亮は、周瑜が曹操を破ると見抜いていたわけです。大敗した曹操は諸葛亮の読み通りに華容道を退却していきます。
ここで待機していた関羽に遭遇するのです。関羽は曹操追撃の命令に背かないという誓紙を提出していましたが、かつて自分が曹操のもとから去る時に追っ手を出さなかったことを思い出します。関羽はその千里行の際に曹操配下の将六人を討ち、五つの関を破っています。にも係わらず曹操は自分の手違いだったと関羽を許していました。
結局関羽はこの時の恩を捨てることができず、義をもって曹操を放ちました。
自らが処刑されるかもしれないこの決断は後世に「絶義」として語り継がれています。
これこそが「三国志演義」が書かれた明の時代に最も尊ばれた「利他の義」なのです。

関羽の死

関羽の死

関羽の死

そんな関羽にも終わりが訪れます。
219年の荊州・樊城攻めです。魏王となった曹操に対し、劉備(玄徳)は漢中王を自称しました。そして関羽は曹操の領地に攻め入るのです。曹操軍は押されっぱなしでしたが、劉備軍と同盟を結んでいた孫権が裏切り、関羽の背後を突いたために関羽は敗戦し、孫権軍に捕らわれて処刑されてしまいます。この時関羽の右腕として活躍していたのが息子の関平です。養子であるという記述もありますが、父に殉じて関羽と共に関平も首を斬られました。
諸説あるものの、残されたのは次男の関興、三男の関索、そして長女の関銀屏となります。
この中で関索と関銀屏はフィクションの要素が強いですが、関興は確かに存在して関羽の跡を継いでいます。三国志演義では劉備(玄徳)に従い孫権を攻め、「夷陵の戦い」で父親の仇を見事に晴らしています。関興のこの活躍はどうやら完全に創作にようですね。

神となった関羽

神となった関羽

神となった関羽

武勇と忠義の英雄である関羽は、後世になって神として崇められるようになりました。
「関帝」として日本でも横浜中華街などに祀られています。その脇には息子である関平の姿もあります。
しかし戦勝祈願の神ではありません。意外なのですが「商売の神」です。それはもともと関羽が司隷河東郡解県の出身であることに関係しています。解県には中国最大の塩湖があります。解池です。古くから塩の産地だったのですが、漢代以来政府の専売品になっていたのです。若き頃の関羽はこの密売に係わっていたとも伝えられています。
こうして関羽は解池の水神信仰や解県商人のビジネスの広がりと結びついていくのです。
三国志演義の古いテキストでは関羽だけは名前を避けています。「関公」「関某」として書かれているのです。関帝信仰を意識して書かれたのは間違いありません。

まとめ・関羽の子孫

まとめ・関羽の子孫

まとめ・関羽の子孫

樊城攻めの際に関羽は敵将の龐徳を捕らえて処刑しています。
後年、この龐徳の末子である龐会が鍾会と共に蜀に攻め込みました。263年のことですから、44年後のことになります。
関羽の跡を継いだ関興は若いうちに病死しており、その息子の関統がさらに後を継ぎましたがこちらも若くして病死しています。関興の庶子がその跡を継いだとありますが、成都に入った龐徳が根こそぎ虐殺しました。関羽の血統はこの恩讐によって途絶えたとされています。
ちなみに張飛や諸葛亮の子孫は現代でも健在で、繁栄しているそうです。





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