董卓~三国志随一の暴君~

董卓~三国志随一の暴君~

黄巾の乱後の政治的不安定な時期を狙い、小帝と何皇太后を殺害し、献帝を擁護し権力を掌握していく朝廷を支配していた絶対的存在。 政権を握った彼のあまりにもの暴虐非道さには人々は恐れ誰も逆らえなかった。 しかし、最後は信頼していた養子である呂布に裏切られるという壮絶な最後を遂げる。


董卓~辺境の将軍が下剋上を起こす軌跡~

三国志における悪役といえばこの董卓(とうたく)である。少帝を殺し、洛陽(らくよう)を焼き払い、暴虐の限りを尽くした男として知られている。涼州(りょうしゅう)の隴西(ろうせい)郡出身で、早くから羌(きょう)や匈奴(きょうど)といった異民族たちと親しかった。若いころから気風がよく、腕っぷしも確かだったため、部下たちや異民族たちからも慕われていたといわれている。彼は涼州で任官し、西域の反乱討伐などで活躍し、涼州の河東郡太守に出世する。黄巾の乱のときは、まともに戦おうとはせず、黄巾の乱後、怠戦の罪で断罪されそうになるが、宦官に賄賂を贈って切り抜けている。

その後、彼は涼州の豪族や異民族たちをてなずけ、半独立状態になる。それを懸念した漢政府が、異動や召還命令を出しても、まったく相手にせず、無視状態。割拠体制を強固なものにしていくのである。そんな彼が何進(かしん)の宦官誅滅計画の召還に応じたのは、間違いなく野心あってのことだろう。彼は涼州を出て洛陽に入る。そして、まったくの偶然から帝を手中にして、権力を握るのである。それまで王朝を支配していた外威も宦官も除かれ、宮中は新たな時代への期待感に溢れていた。とくに清流派(道教という宗教で蒼天己死と漢王朝の天下の予言をし、それに代わる者の登場
を求めるという思想に同調する者たちを称する)官僚たちには、董卓が清流派を自認していた何進の誘いに応じて上京した者であり、その政策を受け継ぐとの期待もあった。この期待感が董卓の政権奪取を容易にしたのである。

事実、彼は大学者である蔡 邕(さいよう)を重用したり、袁紹(えんしょう)や曹操(そうそう)といった者たちを懐柔しようとするなど、
その期待に応えようとした節がある。しかし、「私の人相は尊きことこの上なし」と自慢したり、袁紹に「劉氏の血など残す必要はない」と言うなど、失言や専横な振る舞いも多かったため、都の人士たちの支持は得られなかった。こののち董卓は、少帝を廃して献帝を立てたり、相国(しょうこく)という漢の大功臣蕭何以来誰も就けなかった地位に就くなど、力任せに権力を掌握していくのである。

このため袁紹や袁術、曹操たちは董卓を見限り、逆賊董卓討伐の名のもとに挙兵する。その後、董卓が洛陽を焼き払って長安に割拠し、やがて誅殺されるのは歴史の示すところである。董卓は力もあり、天の時は完全に彼の味方をしていた。だが、完全に政権掌握するまでの
ほんの数か月自重ができなかったことで、馬脚を現わし、それがため後世に汚名を残した。彼の言動や政治姿勢はむしろ粗雑で隙だらけであり、正直すぎるというものであった。むしろ、彼がもう少し食えない悪人であれば天下を取っていたであろう。とはいえ、董卓は漢に反乱し続けた羌や匈奴や異民族と交流のあったという出自から、漢に対する態度は粗悪であり自由であった。そういった彼であればこそ、漢王朝を破壊するという、歴史的役割が果たせたのであろう。

しかし、そんな董卓も武勇としてはかなりのレベルであったとされており、いろいろな伝説が残っている。その中で、馬を走らせながら左右の手で弓を射るなど、董卓の個人的な武勇は特筆に値する。また、洛陽で暗殺されかかった時も、短剣を腹に刺されたまま、暗殺者を捕まえている。この化け物じみた体力も、彼が恐れられた理由なのかもしれない。

董卓に関わる名脇役

貂蝉(ちょうせん)~三国志における絶対的美女~

王允(おういん)のために自らの操を犠牲にして、董卓と呂布の仲を引き裂いた女、貂蝉(ちょうせん)。もちろんこれは「演義」の中での創作ではあるが、昔から男たちを争わす要因の一つとして美女の姿があったことは間違いない。しかし、「正史」の呂布伝の中に「呂布は董卓の侍女と通じており、いつ発覚するか怯えていた」という記述がある。そこを王允につけ込まれて、呂布は董卓殺害を決意したとあるので、この侍女の記述を元に貂蝉という女性が創作されたと言われている。史実の呂布は単細胞で粗暴な武将だが、貂蝉とのエピソードで人間味が付け加えられ、物語に厚みをもたらしている。

また、ほとんどの三国志に関わる漫画や小説の中で、貂蝉を登場させなかった小説もある。ハードボイルド作家の北方謙三(きたかたけんぞう)氏の書く「三国志」である。興味のある方はぜひ読んで頂きたい。貂蝉は史実にない美女だけに民間伝承も作られ放題であり、いろいろな伝説が語り継がれている。その一つに、貂蝉は王允の依頼を受けた名医華佗(かだ)が、死体を集めて作った人造人間であった、というものさえ存在する。

徐栄(じょえい)~董卓から絶大なる信頼を得ていた将軍~

董卓配下の名将で、長安撤退時に追撃にきた曹操(そうそう)を撃退している。敗れた曹操軍が士気旺盛なのを見て、深追いを避けたという分別も持ち合わせていた。昔から西は強兵を出し、東は官僚を出すというように董卓配下には名将が多い。当時の董卓陣営の戦力は、反董卓連合軍を動けなくするほど評価が高かったと言われている。

蔡 邕(さいよう)~董卓に重宝された学問者~

天文、音楽、歴史など幅広い学問に通じた当時随一の大学者で、清流派からの支持も高かった。董卓からも重用され、失言と失政を続ける董卓政権を支え続けた人物である。義理に厚く、董卓の死後、彼の死を素直に悔やんだが、それ自体が罪であるとして、董卓政権を打倒した王允に斬殺されるという壮絶な最後を遂げる。

反董卓軍勢力~次の時代の英雄たち~

~反董卓軍勢力~
同世代に生きる者、それも生殺与奪の権を握られた者たちにとっては、董卓はやはりとんでもない男だった。それは、宮廷から相次いで藷将が逃げ出していったことでも分かる。もともと、小帝廃止に反対していた袁紹は、董卓から補佐を請われても辞退し、その足で地元・翼州へと逃走。

若輩ながら黄巾の乱で頭角を表わし始めていた曹操や袁術も、昇進の実はとりながら都を脱出している。こうして地元へと逃げ帰った諸将だが、独力では無理でも結集すれば董卓を倒せる、と連合軍を結成。袁紹、曹操を軸に、のちに呉国へとつながる磯を築く孫堅なども反董卓の名乗りを上げた。史実ではまだ名前すら出てきていないが、演義ではかの有名な劉備(玄徳)・関羽・張飛の三兄弟も参戦している。

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