関羽・千里行
■ 関羽・千里行
関羽・千里行
「関羽・千里行」(または「千里走単騎」)は、三国時代の英雄・関羽が曹操の元から義兄・劉備の下へ帰還する際、五つの関所を突破する物語です。『三国志演義』で描かれるこのエピソードは、関羽の忠義と武勇を象徴する名場面として知られています。
徐州の戦い(200年頃)劉備が曹操に敗れ、離散する中、関羽は曹操に捕らえられます。曹操は関羽の武勇を高く評価し、厚遇しますが、関羽は「いずれ劉備に戻る」という条件で一時的に曹操に仕えます。
関羽は「漢寿亭侯」の爵位や赤兎馬を与えられ、曹操の配下として活躍(特に袁紹軍の顔良・文醜を討つ)しますが、常に劉備への忠義を忘れませんでした。
関羽・千里行 ~忠義の剣、千里を翔る~
■ 関羽・千里行 ~忠義の剣、千里を翔る~
関羽・千里行 ~忠義の剣、千里を翔る~
曹操の陣営に、ひときわ異彩を放つ男がいた。長く伸びた美しい髭、鋭く燃える瞳、そして、赤兎という名馬にまたがるその姿は、まるで天の武神のように凛としていた。名は関羽。字(あざな)は雲長。
本来、彼は曹操の配下ではない。義兄・劉備の右腕として長らく共に戦っていた。だが、運命の皮肉な流れの中で、曹操の元に一時身を置かざるを得なかったのだ。
劉備が敗走し、家族も散り散りとなった時、関羽は捕らえられた。そして――曹操の心に一石を投じた。
「この男を生かせ。」
曹操は即座に関羽を厚遇し、屋敷を与え、名馬・赤兎を贈った。名誉ある「漢寿亭侯」の爵位さえ与えられた。
しかし、関羽はその贅沢の中に安住しなかった。
その心は、常に劉備と共にあった。
決意の別れ
■ 決意の別れ
決意の別れ
ある夜、関羽の耳に一報が届く。
「劉備殿が、袁紹の元に身を寄せたそうです。」
それを聞いた瞬間、関羽の眉間には力強い皺が刻まれた。
――生きていたか、兄者。
すぐに曹操の元を訪れ、関羽はこう告げた。
「主君の所在を知りました。約束通り、私はこれより主君の元へ戻らせていただきます。」
曹操は深いため息を漏らした。
「……そうか。残念だ。」
一説には、曹操はその忠義を試すかのように、わざと五つの関所を難しく通すよう指示したとも言われている。
だが関羽は、何人たりとも、自らの信念を阻むことなどできぬと知っていた。
千里走単騎、始動
■ 千里走単騎、始動
千里走単騎、始動
関羽は、劉備の正妻・甘夫人と側室・糜夫人を連れ、従者とともに、許昌をあとにした。背後に曹操の恩義を、前に兄者への忠義を背負って。
その道のり、千里。待ち受けていたのは、五つの関所と、命を賭してそれを守る猛将たち。
最初の関所、東嶺関。
門番・孔秀が叫ぶ。
「ここは通さん!」
関羽は一言だけ返した。
「ならば――通るまで。」
刹那、赤兎が風を切り、青龍偃月刀が月光を裂いた。孔秀は、その場に屍を晒した。
関羽は語らぬ。恩を仇で返すことの葛藤を、胸に秘めていた。
洛陽・汜水・滎陽・黄河……試される忠義
■ 洛陽・汜水・滎陽・黄河……試される忠義
洛陽・汜水・滎陽・黄河……試される忠義
次に現れたのは、洛陽の関。韓福と孟坦が待ち構えていた。
「関羽は曹操殿に恩を受けながら、裏切って逃げ出す非道な者!」
韓福は弓を引き絞り、矢を放とうとする。
だが、関羽はそれより早かった。青龍偃月刀が稲妻のように閃き、韓福を真っ二つにした。孟坦もまた、数合持たずに地に伏した。
忠義とは、ただ恩を返すことにあらず。己が主を貫くことである――それが関羽の答えだった。
三つ目の関所、汜水関。
待ち受けていたのは、巧妙な罠。卞喜が、関羽を寺に招き、もてなすふりをして毒殺を企てる。
「疲れた旅の道中、ここでお休みを……」
だが、ひとりの老僧が密かに関羽に告げる。
「この者、毒を盛っておりますぞ。」
関羽は静かに盃を置き、笑みを浮かべた。
「その慈悲、忘れぬ。」
そして卞喜に問う。
「貴様の忠義は、誰のためのものだ?」
返事を聞くことなく、刀がうなりを上げた。
四つ目、滎陽関。守将・王植は、夜襲を企てる。
しかし、配下の胡班が密かに関羽に警告を入れた。
「王将軍は、あなたを夜討ちするつもりです。私はあなたの忠義に心打たれました。」
この言葉を胸に、関羽は敵陣へ突撃した。混乱の中、王植を斬り、胡班には一言の礼を残して去った。
そして最後の難関、黄河の渡口。
対岸には劉備の勢力圏が広がっている。だが、その目前で待っていたのは、曹操配下・秦琪。
「ここが、貴様の終着地だ、関羽!」
一騎、一刀。
互いの忠義が激突する。
だが、赤兎が舞い、関羽の刀が火花を散らしたその瞬間、秦琪は膝をついた。
関羽は無言で黄河を渡った。
風が吹いた。東の地平から、太陽が顔を出した。
劉備が袁紹を頼った理由
■ 劉備が袁紹を頼った理由
劉備が袁紹を頼った理由
劉備は当初、陶謙(とうけん)から徐州を譲られましたが、呂布に奪われます。その後、曹操と協力して呂布を討ち(198年)、一時的に曹操の配下となりました。
しかし、劉備は曹操から独立する意志を持ち、車冑(しゃちゅう)を殺して徐州を奪還(199年)、反曹操の兵を挙げます。
曹操は劉備の反旗を許さず、すぐに徐州へ攻め込みます(200年)。
劉備は兵力で圧倒的に劣り、曹操の速攻の前に大敗(「下邳の戦い」)。
劉備の正妻・甘夫人と側室・糜夫人を守り切れないと思った関羽は曹操に降伏、張飛も離散するという危機的状況に陥りました。孤立無援となった劉備は、生き延びるため、新たな庇護者を探さなければなりませんでした。
当時、曹操に対抗できる勢力は限られており、劉備が袁紹を頼った主な理由は以下の3点です。
1. 袁紹が反曹操の盟主だった
- 袁紹は河北(冀州・幷州・幽州)を支配する最有力勢力で、曹操と対立していました。劉備は「漢王朝復興」を掲げており、曹操を「漢の脅威」と見なす袁紹と利害が一致したのです。
2. 他の勢力には頼れなかった
- 呂布は既に曹操に滅ぼされ、袁術は淮南で孤立し衰退中でした。
- 劉表(荊州)は距離が遠く、まだ関係が薄かった。
- 孫策(江東)は勢力が小さく、縁もありませんでした。
3. 「漢の皇族」としての大義名分
- 劉備は「漢の景帝の子孫」を称し、名門・袁紹と組むことで、曹操への対抗勢力としての正当性を高めようとしました。
袁紹は劉備を賓客として厚遇し、対曹操の象徴的な存在として活用しました。しかし、袁紹は官渡の戦い(200年)で曹操に大敗し、劉備は袁紹の将来性に疑問を抱きます。その後、関羽と再会し、荊州の劉表を頼って新たな活路を見出すことになるのです。
この時期の劉備の流浪は、後の三顧の礼による諸葛亮の招聘や「天下三分の計」へとつながる重要な転換期でした。
古城にて、再会
■ 古城にて、再会
古城にて、再会
荒れた古城の門。そこで待っていたのは――弟分・張飛だった。
張飛は目を吊り上げ、叫んだ。
「兄者を捨て、曹操に仕えた恥知らずが、今さらどの面下げて来た!」
関羽は剣を抜かず、ただ静かに言った。
「それでも、おまえの兄弟であることを、忘れたことはない。」
そこへ現れたのは、追ってきた蔡陽。曹操の命を受けたとされる追討隊であった。
関羽は、蔡陽を前に刀を構える。そして張飛に言った。
「俺が曹操に下ったのなら、蔡陽とは戦わん。だが見よ。」
次の瞬間、蔡陽の首が地に落ちた。
張飛は拳を握り、目を潤ませた。
「兄者……すまぬ。」
関羽はようやく、微かに笑みを浮かべた。
「これで、義は果たされた。」
曹操の沈黙
■ 曹操の沈黙
曹操の沈黙
都・許昌の一室。曹操は報告を聞き、目を閉じた。
「関羽、五関を越え、黄河を渡り、劉備の元へ戻ったとのことにございます。」
家臣が言う。
「追撃を命じましょうか?」
曹操は、しばらく沈黙し――首を横に振った。
「いや、追うな。あの男に剣を向けるのは、天を斬るようなものだ。」
窓の外、春の雨が静かに降っていた。
曹操の目に、その雨が涙を隠したかどうかは、誰にもわからない。
千里の道に、義を貫く
■ 千里の道に、義を貫く
千里の道に、義を貫く
関羽の千里行――それは、単なる逃走劇ではない。彼の心に貫かれた一本の柱、「義」とは何かを問う旅だった。
かつて、劉備・関羽・張飛は桃園で義兄弟の契りを交わした。
「生まれた日は違えども、死すときは同じ日を願わん。」
その誓いが、彼の足を動かしたのだ。
五つの関所、六度の死地。だが関羽は、信じた道を選び、進んだ。
人はときに、恩と義の間で迷う。
だが、関羽は迷わなかった。どちらが「自分の生き様」かを知っていたからだ。
この物語が、時を越えてなお語り継がれるのは、彼がただの猛将ではなく、「忠義」を生きた人間だったからかもしれない。
そう――
たとえ、千里あろうとも。
義のためならば、ただ一人で走り抜ける――それが、関羽という男だったのだ。
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