なぜ曹操は官渡の戦いで大軍相手に勝利することができたのか?

なぜ曹操は官渡の戦いで大軍相手に勝利することができたのか?

三国志という時代の流れを決定づける重要な戦いの1つが官渡の戦いです。この戦いで、曹操が袁紹に勝利したことで、曹操勢力の拡大につながっています。官渡の戦いでは、曹操軍は袁紹の大軍を相手に勝利を収めたわけですが、注目すべきはなぜ曹操が勝てたのかです。そこで今回は、官渡の戦いで大軍相手に曹操が勝利できた理由にスポットライトを当てていきます。


1.そもそも官渡の戦いとは?

1.そもそも官渡の戦いとは?

1.そもそも官渡の戦いとは?

いつ・どこで起こった戦い?

いつ・どこで起こった戦い?

いつ・どこで起こった戦い?

曹操軍VS袁紹軍の官渡の戦いですが、これは200年に行われた戦いとなっています。基本的には、官渡で起こった戦いのことなのですが、実はもっと広い意味でも使われています。曹操軍と袁紹軍による一連の抗争をまとめて、官渡の戦いと呼ぶことがあるのです。

そのため、前哨戦とされる白馬の戦いや戦いを決定づける鳥巣の戦いなども、官渡の戦いに含まれています。まさに中原一帯を巻き込んだ戦いとなっており、三国志の歴史の中でも大規模な部類に入る戦いなのです。

なぜ官渡の戦いは起こったの?

なぜ官渡の戦いは起こったの?

なぜ官渡の戦いは起こったの?

官渡の戦いが起こった理由は、曹操軍と袁紹軍が強大な力を持つようになったことが挙げられます。時代背景としては、後漢皇帝は存在しているのですが、すでに名目上の存在になり果てており、群雄割拠の時代です。そして、力のある勢力がどんどん力を伸ばしていった時代でもありました。

そんな中、曹操軍は黄巾の乱で功を立てて頭角を現し、数々の戦いの後に献帝を庇護したことで正当性まで手中に収め、兗州・豫州・司隸・徐州の4州を支配するほどになったのです。その一方、袁紹軍も反董卓連合などでは一線に立っており、どんどん勢力を拡大していきます。そして、冀州・青州・并州・幽州の4州を支配していたのです。

どちらも4州を支配下に治めたことで、中原には二大勢力が存在することになります。そうなれば、どちらも放っておくわけにもいかず、対立していくが必然です。そして、官渡の戦いへと発展していったのです。

曹操軍と袁紹軍の戦力差は?

曹操軍と袁紹軍の戦力差は?

曹操軍と袁紹軍の戦力差は?

官渡の戦いにおける曹操軍と袁紹軍の戦力差なのですが、実はとてつもなく大きいです。どちらも4州ずつ支配しているわけですが、曹操の領地の方が長期の戦乱で荒れており、兵力や経済力が低下しています。その一方で、袁紹が支配している領地は戦乱の被害が少なく、兵力の確保ができる状態です。さらに、袁紹は名門である袁家ということもあり、人材が集まりやすく、曹操軍と袁紹軍の戦力は大きく、圧倒的に袁紹軍の戦力が上とされていたのです。

ちなみに、両軍の兵力については様々な説があります。袁紹軍が10万に対して、曹操軍が1万や2万という説が多いです。いずれにしても、曹操軍の方が兵力は少なく、圧倒的な大軍を相手に曹操軍は勝利しているのです。

2.官渡の戦いの大まかな流れ

2.官渡の戦いの大まかな流れ

2.官渡の戦いの大まかな流れ

前哨戦である白馬・延津の戦い

前哨戦である白馬・延津の戦い

前哨戦である白馬・延津の戦い

官渡の戦いの前哨戦とされているのが白馬・延津の戦いです。ちなみに、この戦いの前に劉備(玄徳)が徐州で曹操に反乱を起こしており、曹操軍は反乱を鎮圧し、その際に捕虜となった関羽は曹操の客将となっています。そして、その関羽が白馬・延津の戦いで活躍します。

白馬・延津の戦いでは、袁紹軍が淳于瓊・郭図・顔良らを白馬に布陣させ、曹操軍に攻撃を仕掛けます。これに対し、曹操軍は于禁と楽進の部隊を利用して、淳于瓊と郭図を顔良から切り離し、張遼と関羽の部隊で顔良を攻撃したのです。この攻撃で関羽は、顔良を討ち取ったのです。

その後、袁紹軍の文醜に曹操軍を攻撃させるのですが、こちらも撃退して文醜は討ち取られています。このように、官渡の戦いの前哨戦は、曹操軍が勝利したわけです。ただし、あくまで局地戦であり、これからが本格的な曹操軍VS袁紹軍の戦いとなっていくのです。

ターニングポイントの官渡砦の攻防戦

ターニングポイントの官渡砦の攻防戦

ターニングポイントの官渡砦の攻防戦

本格的な戦いは、官渡で行われます。曹操軍は白馬から撤退し、防衛線を構築した官渡での戦いに挑むのです。官渡は複数の河川が交差しており、比較的防衛に適しています。そこで曹操軍はあらかじめ砦を築き、袁紹軍を官渡で迎え撃ったのです。

官渡砦の攻防戦で、袁紹軍の沮授は持久戦に持ち込むことを進言しています。しかし、袁紹はその案を却下し、袁紹軍本隊で曹操軍を攻め立てます。この攻撃に曹操軍は退却し、官渡砦に立て籠もることになったのです。

その後、お互いに決め手もなく、兵糧の奪い合いになります。しかし、曹操軍は食糧不足に悩まされることになり、曹操は撤退を検討するほど追い詰められます。だが、荀彧はこれを諫めたのです。そして、許攸の寝返りというターニングポイントを迎えるのです。

勝負を決めた鳥巣の戦い

勝負を決めた鳥巣の戦い

勝負を決めた鳥巣の戦い

許攸が寝返ったことにより、戦局は大きく変化することになります。許攸は曹操軍に寝返ると、烏巣に袁紹軍の大部分の食料があることを報告したのです。この情報を得たことで、曹操軍は烏巣を襲撃することを決めたのです。

曹操軍は、烏巣にいる袁紹軍の淳于瓊の部隊を強襲します。袁紹軍は援軍を派遣するも撃破され、淳于瓊は楽進によって討ち取られたのです。烏巣の戦いで勝利を収めた曹操は、そこにあった袁紹軍の兵糧を焼き払います。これにより、袁紹軍は戦いが困難になるほど大混乱となり、曹操軍の勝利で官渡の戦いが幕を閉じたのです。

3.曹操が官渡の戦いで大軍相手に勝利できた理由とは?

3.曹操が官渡の戦いで大軍相手に勝利できた理由とは?

3.曹操が官渡の戦いで大軍相手に勝利できた理由とは?

袁紹の無能さ

袁紹の無能さ

袁紹の無能さ

曹操が官渡の戦いで大軍である袁紹軍に勝てた理由の1つが、袁紹の無能さが挙げられます。袁紹の判断によっては、官渡の戦いで袁紹軍が勝っていた可能性は十分あります。まず、官渡の戦いの前には、沮授や田豊が持久戦で戦うことを主張しています。しかし、袁紹はこれらを却下し、沮授の権限を縮小させ、さらに田豊を投獄したのです。これにより、まずは袁紹軍がゴタゴタしてきてしまいます。

官渡砦の攻防戦でも沮授は、持久戦に持ち込むことや兵糧を失わないように、烏巣の防衛力を高めることを進言しています。しかし、袁紹はこれらも却下し、最終的には烏巣が強襲されて敗北したのです。

袁紹がもっと有能で、沮授や田豊の助言を聞いていれば、結果は変わっていたかもしれません。官渡の戦いで曹操が勝つことができたのは、袁紹が誤った判断ばかりしてくれたからなのです。

荀彧の存在

荀彧の存在

荀彧の存在

曹操が官渡の戦いで勝つことができたのは、荀彧の存在が大きいです。荀彧は、官渡の戦いの際には許昌にて留守番をしています。しかし、官渡砦の籠城戦で苦しい曹操は、荀彧に対して「引き返して、袁紹軍をおびき寄せてから滅ぼすつもり」という手紙を出します。これは、暗に撤退をしたいという意味が込められているのですが、荀彧はこれを諫めたのです。

荀彧は、袁紹軍がゴタゴタであることを見抜いており、勝利するチャンスはあると考えていました。これが見事に当たっており、許攸の裏切りにつながります。荀彧が諫めなかったら曹操は撤退し、大敗を喫していたことでしょう。それだけに、荀彧の存在は大きく、戦場にいないにも関わらず、荀彧のおかげで勝利できたと言っても過言ではないのです。

許攸の寝返り

許攸の寝返り

許攸の寝返り

官渡の戦いで曹操が勝てた最大の理由は、許攸の寝返りにあります。許攸が寝返ることがなければ、袁紹軍の兵糧の多くが烏巣にあるという情報がわからず、官渡の戦いがどうなっていたのかがわかりません。それだけに、許攸の寝返りは、官渡の戦いにとって大きな意味があり、曹操軍が勝利した理由となっているのです。

4.まとめ

4.まとめ

4.まとめ

今回は、曹操が官渡の戦いで勝利できた理由をメインに紹介してきました。曹操が勝てた理由は、「袁紹の無能さ」「荀彧の存在」「許攸の寝返り」などが挙げられます。官渡の戦いは、三国志の前半戦の流れを決定づけるものです。しかし、曹操もある意味では、紙一重の戦いだったことがわかります。歴史に「もし」はありませんが、それでも官渡の戦いで袁紹が勝っていたらどうなっていたのか気になるものです。もしかしたら、袁紹が天下統一していたかもしれません。


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