トホホな大将軍・何進、意外と有能?―――何進を再考する(1)

トホホな大将軍・何進、意外と有能?―――何進を再考する(1)

三国志の冒頭でキーパーソンとなる武将、何進(かしん)。美人の妹のおかげで大将軍に出世するも、政敵のワナにはまり、あっけなく生涯を終えました。それでも、低い身分から出世街道を歩んだ何進。とりあえず黄巾の乱も鎮圧しています。実は意外とデキる人だったんじゃないか? そんな視点から、まずは彼の前半生をふり返ります。


妹が皇后に! 兄も出世コースへ

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後漢の皇室の外戚(がいせき/★後述)として、権力の座をのぼりつめた、大将軍・何進。
彼のプロフィールでひときわ異彩を放つのは、なんといってもその出自です。

彼は荊州・南陽郡(けいしゅう・なんようぐん/注1)の屠殺業(とさつぎょう)の家に生まれました。屠殺とは、主に食用のために動物を殺すことで、当時の中国では低い身分の人の仕事とされていたのです。
そのような家に生まれた何進に出世の道はなく、ましてや軍の責任者である「大将軍」になるなど、普通では考えられないことでした。

そんな何進が、いったいどうして出世できたのか?
それはズバリ、妹(異母妹)が美人だったからです。
何進は、容姿端麗な妹を利用して、身を立てようと考えたのでしょうか。同郷の宦官(かんがん/★後述)に頼み、妹を宮中に送り込んだのです。

このもくろみは見事に成功し、皇帝(霊帝。後漢の12代皇帝)に愛された妹は、見事、男子を産みます(後の少帝・劉弁)。そしてついには皇后となるのです(180年)。これにあわせ、兄の何進も政府の要職に取り立てられました。
このように何進の一族は、宦官の力を借りて出世し、外戚として権勢を得るにいたったのです。

(注1)州・郡・県……漢代の行政単位。州、郡、県の順に大きい。州は最大の行政単位で、三国志の時代には、中国全土に13の州があった。州の中に複数の郡が、郡の中に複数の県がある。
(注1)荊州(けいしゅう)……現在の中国湖北省を中心とする一帯に存在した州。
(注1)南陽郡(なんようぐん)……荊州の北端にあった郡。

「外戚」と「宦官」 普通は対立するけれど……

「外戚」と「宦官」 普通は対立するけれど……

「外戚」と「宦官」 普通は対立するけれど……

さて、ここで出てくる、中国史の重要な単語2つをおさらいしましょう。

★外戚(がいせき)……皇帝の母、またはお后(妻)の一族。
★宦官(かんがん)……去勢(きょせい)された役人。皇帝一家の身の回りの世話などをする。

外戚(がいせき)については、日本の歴史の例でもピンときますよね。平安時代の藤原氏などが、天皇に娘を嫁がせることで「天皇家の親戚」となり、権力をにぎりました。
中国でも同様に、皇帝に娘を嫁がせた家が、権勢をふるうことがたびたびありました。こういう人々を「外戚」といいます。

一方の宦官(かんがん)。これは日本人には理解しがたい存在です。
彼らは皇帝一家の身の回りの世話をする男性の役人なのですが、なんと彼らは皆、去勢(性器を切り取ること)をしているのです。
皇帝のそばに仕えるために、男性性器を切り取る……ちょっと日本人には理解しがたい制度ですが、清王朝が滅びる20世紀初頭まで、中国の王朝には宦官が存在しました。
また、宦官になることは、身分の低い人が出世する限られた方法でもありました。性器を切り取らねばならない代わりに、皇帝のそばに仕えることができます。宦官として高位に登れば、皇帝やその政治を、意のままにあやつることさえできたのです。

外戚と宦官、いずれも皇帝を利用して権力を振るいたいので、当然ながらお互い衝突します。後漢時代の歴史は、まさに外戚と宦官の抗争の歴史といってもいいくらいで、両者は激しく権力闘争をくり広げました。

と……ここまで考えると、おかしいですよね。
そう。何進は美貌の妹を、他ならぬ「宦官」に頼みこんで宮中に入れています。つまり外戚でありながら、宦官との協力で権力を手にしたのです。何進兄妹は、中国史全体の中でもめずらしい存在でした。

黄巾の乱、勃発! 「大将軍・何進」の誕生!

黄巾の乱、勃発! 「大将軍・何進」の誕生!

黄巾の乱、勃発! 「大将軍・何進」の誕生!

宮中に入った何進の妹は、兄の期待通りに皇帝(霊帝)の寵愛を受け、ついには皇后となりました(180年)。以後は何皇后(かこうごう)、または皇后何氏と呼ばれるようになります。
それにともない何進も高位に上りますが、低い身分の出身としては、とてもめずらしいことでした。

ちょうどそんなときに、三国時代の幕を開ける大事件が起きます。
そう。中国全土をゆるがす宗教反乱「黄巾の乱」(こうきんのらん/注2)が起きたのです(184年)。

(注2)黄巾の乱(こうきんのらん)……184年、張角(ちょうかく)という教祖の率いる、「太平道」という宗教が起こした反乱。年内に鎮圧されたものの、後漢王朝が衰退するきっかけとなった。

太平道(たいへいどう)は、中国古来の宗教である道教(どうきょう)の流れをくんでおり、重い税金に苦しむ庶民の心をとらえました。そしてついに、漢帝国をひっくり返さんと、大規模な反乱を起こすまでに到ったのです。

あわてたのは霊帝です。この時、すでに何進の妹は皇后となっており、外戚の何進は武官の最高位・大将軍(だいしょうぐん)に任命されました。
いくら皇后の兄だからといって、この難局で軍の最高位につけるには、軍事経験にとぼしい気もしますが……。
結論からいうと、大将軍・何進のもと、黄巾の乱はなんとか鎮圧されます。
皇甫嵩(こうほすう)・朱儁(しゅしゅん)・盧植(ろしょく)といった名将たちの活躍もあり、黄巾軍を各地で破りました。
また何進自身も、黄巾軍のスパイのたくらみを発見し、首都での謀略を未然に防ぐという功績をあげました。

もっとも、乱が鎮圧されたとはいえ、このあと中国全土は乱れに乱れていきます。
後漢末期の民衆は、重税と政治腐敗に失望しきっていました。民衆の一部は黄巾軍の残党と結びつき、各地で反乱を起こしたり、盗賊となったりしていくのです。

何進は出自のハンデを乗り越えた

何進は出自のハンデを乗り越えた

何進は出自のハンデを乗り越えた

黄巾の乱の後も、何進は大将軍の地位にとどまり、外戚として権勢を振るいました。
その後、長らく協調路線を歩んできた宦官と対立するようになり……抗争の末、何進は命を落とすことになります。
彼の評価が低いのは、死の直前の優柔不断ぶりがあまりに情けないうえ、悲惨かつマヌケな殺され方をしたからでしょう。

しかし、ここであえて、大将軍・何進を再評価してみたいのです。
まず、彼を大将軍とする体制のもと、漢王朝は黄巾の乱の鎮圧に、とりあえずは成功しています。
何進自身も、黄巾軍のスパイの謀略を未然に防ぐなど、首都を守る仕事はソツなくこなしています。政治的・軍事的に大きな失敗もありませんし、国の重臣としては、そう悪い部類には入りません。

また何進は、出自のハンデをそれなりに乗り越えてきた人だと思います。
当時の中国は、家柄が非常にモノをいう世界でした。しかし何進は屠殺業(とさつぎょう)の家に生まれた男。当時の中国では、決していい身分ではありません。
そんな低い身分から、美人の妹を後宮に入れて、出世への足がかりを作るのですから、それなりに頭が回る人物だったともいえます。

さらには大将軍となってからも、名門出身の有力者を多く従わせています(大将軍とはいえ、低い出自の人が名門出身者を従わせるには、ある程度の人徳が必要なはずです)。
何進はそれなりに、出身のハンデを克服した人物といえるのではないでしょうか。

何進は人々の心をつかんでいた

何進は人々の心をつかんでいた

何進は人々の心をつかんでいた

何進はそれなりに、人の心をつかむ能力があったように思えます。
彼の周りには、多くの有力者・知識人が集まってきました。
特に名門である袁氏の存在は大きく、三公(注3)にもなった袁隗(えんかい)や、その甥である袁紹(えんしょう)・袁術(えんじゅつ)らが味方についたことで、何進は勢力を伸ばすことができました。
さらには、後に曹操の名参謀となる荀攸(じゅんゆう)なども、何進に仕えていたのです。

(注3)三公……国の最高位である3つの官職。司徒、司空、太尉を指す。

また何進は、配下の将兵に対しても、日ごろからやさしく接しており、恩義に感じる者が多くいたといいます。
後に何進が宦官に討たれた後、部下たちは皆、涙を流して「大将軍のカタキを取ってやる!」と奮い立った―――そんな記録もあるのです。

何進は武将として華々しい戦功があったわけではありませんが、人の心をつかむ、コミュニケーション能力は備えていたように思います。
それは、低い身分に生まれ、世の中でもまれてきたおかげだったりするのかもしれません。





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