益州の攻防 劉備軍大苦戦と龐統(士元)の死

益州の攻防 劉備軍大苦戦と龐統(士元)の死

天下三分の計を実現するため、劉備(玄徳)は蜀(益州)に侵攻します。同族の劉氏でもあった劉備(玄徳)と劉璋(季玉)。当初は悪い中ではありませんでしたが、あえなく決裂。劉備(玄徳)の本格的な蜀への侵攻が始まります。しかし、天険の要害に守られた蜀の攻略は容易ではなく、劉備軍は大苦戦を強いられます。


武人の護り 劉備(玄徳)暗殺を見破られた楊懐と高沛

漢中の張魯(公祺)の攻撃から蜀を防衛するという名目で蜀に入った劉備軍でしたが、劉備(玄徳)と劉璋(季玉)が決裂。ここから、両陣営の激しい計略合戦が始まります。
まず、劉備軍は蜀からの撤退を劉璋(季玉)に伝えます。しかし、これは口実で撤退途中に通りかかる涪水関を奪い取ることが真の目的です。しかし、この計略を見抜いた涪水関の将、楊懐と高沛が劉備(玄徳)の行軍を労うと称して涪水関近くで小宴を設けます。この宴も劉備(玄徳)の隙を突いて暗殺しようということが目的です。
それぞれが持っていた剣を劉備軍の兵士に預け、劉備(玄徳)の幕舎に入る楊懐と高沛。さらに「別れを惜しんでゆっくりと語りたい」とわざわざ人払いをする劉備(玄徳)。幕舎の中に3人…暗殺実行の大チャンスです。
しかし、次の瞬間、幕舎の中に隠れていた劉備軍兵士が楊懐と高沛を取り押さえます。そして二人が隠し持っていた懐の短剣を取り上げ問いただします。

「これは何のための剣か?」

すると、楊懐と高沛はこう答えました。

「剣は武人の護りだ!」

しかし、「懐に隠した剣は武人の護りにあらず」とされ、二人は処刑されます。

計略の妙味 兵士を逆に用いて簡単に関を落とす

楊懐と高沛に同行した兵士を利用して龐統(士元)が一計を講じます。兵士たちに楊懐、高沛が劉備(玄徳)暗殺を企てた疑いで処刑されたことを伝え、彼らに次の選択肢を与えます。
 ◆楊懐、高沛と同罪として処刑される
 ◆劉備軍に協力して恩賞を受ける
兵士たちは迷わず後者を選びます。そして、味方の蜀軍がいる涪水関に向かいます。顔見知りの兵士が戻ってきた涪水関側の兵士達…楊懐、高沛の一行が戻ってきたものと思い込んで城門を開いてしまいます。そこに隠れていた劉備軍が怒濤のごとく突入。涪水関はあっけなく陥落となりました。

蜀の兵を逆に用いた龐統(士元)の計略が見事に的中したのです。

雒城の攻防 劉備軍も一枚岩ではない

涪水関陥落の報を受けた劉璋(季玉)は、慌てて雒城の守備強化を図ります。張任、冷苞、劉璝、鄧賢、呉懿(子遠)の5人の将を雒城に向かわせ、さらに雒城城外の山間に2つの陣を儲けます。陣を守るは冷苞と鄧賢。そして、劉備軍の黄忠(漢升)と魏延(文長)がこれを攻撃します。

しかしここで、劉備軍に思わぬ摩擦が生じます。黄忠(漢升)に強いライバル心を抱く魏延(文長)が軍功第一を狙い、「抜け駆け」し黄忠(漢升)率いる一軍より先んじて攻撃を開始するのです。劉備軍の攻撃を警戒していた蜀軍の冷苞が魏延(文長)を迎え撃ちますが、冷苞は伏兵を使い魏延軍を取り囲みます。劣勢となる魏延(文長)を後から来た黄忠(漢升)が救い出し、さらにその後ろから劉備(玄徳)自身が援軍に入ります。雒県の攻防は大混戦となりました。

龐統(士元)も感心する劉備(玄徳)の名裁き

雒県の攻防は劉備軍の勝利で終わります。追い込まれながらも魏延(文長)は冷苞を捕らえ、黄忠(漢升)は鄧賢を討ちます。雒県の2陣は劉備軍が占領しました。しかし、魏延(文長)の「抜け駆け」に納得できない黄忠(漢升)が劉備(玄徳)に進言します。「抜け駆け」は明白な軍律違反で打ち首に相当すると…。
ここで劉備(玄徳)は魏延(文長)に言います。「まずは黄忠(漢升)に危機を救われたことを謝せ」と…。魏延(文長)は素直に黄忠(漢升)に礼を述べます。しかし、その直後、また劉備(玄徳)が魏延(文長)に言います…。

「もう一言詫びよ」

劉備(玄徳)は理由も言いません。多くの将がいる前で、あえて魏延(文長)に恥を与えたのです。しかし、魏延(文長)は「抜け駆け」に対する罪であることを察し、これも素直に謝ります。そして劉備(玄徳)は「軍令違反の罪は免れぬが、黄忠(漢升)に筋を通し(恥を忍び礼と詫びを玄徳の前で行ったこと)、敵将冷苞を捕えたことで帳消しとする」と裁きます。そして黄忠(漢升)には恩賞を与え、一件落着とします。

黄忠(漢升)も魏延(文長)も後の蜀漢において大活躍する優秀な将軍です。魏延(文長)を打ち首にすることなく、黄忠(漢升)に不満を残すことなく…そしてしっかり筋を通した劉備(玄徳)の裁きに龐統(士元)も感心していました。

諸葛亮(孔明)に対する龐統(士元)の嫉妬心

紆余曲折を繰返しながらも劉備軍は雒城攻略を伺いますが、そんな時に荊州の諸葛亮(孔明)から手紙が届きます。

「西方に盛んなる気あり、客星の光弱く征軍に利あらず」

「天文によれば西方(蜀)に勢いがあり行軍に利する運気ではない。遠征も長期化して来ているので、一度荊州に戻り今後の作戦を練り直してはどうか?」という諸葛亮(孔明)の提案でした。劉備(玄徳)は諸葛亮(孔明)の考えを受入れ、一度荊州へ帰還しようと言い出します。

しかし、これに反対したのは現場の軍師たる龐統(士元)でした。

「苦戦しながらも勝利を続けている機運を無駄にすべきではありません。私(龐統)にも天文の心得があり、今は行軍に利する運気ではないにせよ、さりとて悪い運気でもありません。機を逸すれば戦いはますます長期化する訳ですから、ここは行軍を続けるべきです。」

そう進言して劉備(玄徳)を諫めます。そして、蜀侵攻が続行されます。

…この時、劉備(玄徳)は何を思ったでしょうか。劉備(玄徳)ほどの人物ですから龐統(士元)の心の奥底を察したかもしれません。そして、龐統(士元)の進言は戦いにおいて絶対にしてはいけない「無理押し」に繋がる可能性が大いにありました。劉備(玄徳)がその危険性を知らない筈はありません。そうまでしても、龐統(士元)の嫉妬心を抑えたかった劉備(玄徳)の心の葛藤もこの場面では伺えます。

しかし、この「続行」により龐統(士元)は命を落としてしまいます。

落鳳坡の衝撃 龐統(士元)36歳でその生涯を閉じる

蜀侵攻を続行させた劉備軍は、早速、雒城攻略に着手します。涪城から北の経路と南の経路に分かれて進むことにしたのです。龐統(士元)は北の経路を任されますが、これを蜀の伏兵に狙い撃ちされます。蜀軍は侵攻してくる劉備軍を山間に伏兵を置き、大将だけに的を絞って狙い撃ちする作戦を取りました。狙われたのは劉備(玄徳)でしたが、劉備軍が二手に分かれたために、龐統(士元)は劉備(玄徳)と勘違いされて無数の矢を浴びることとなってしまいました。36歳での若すぎる死でした。

まとめ

この時、龐統(士元)を失った北側の一軍は大苦戦を強いられ、追われるような形で雒城前に辿り着きます。しかし、雒城から出てきた蜀軍からも攻撃を受け窮地に立たされます。魏延(文長)を中心になんとか持ちこたえた劉備軍に南側から来た軍が合流し雒城前は大混戦となります。しかし、劉備軍は敗れ、涪城に引き返します。
大敗北を喫し、天才軍師(龐統)を失い、劉備(玄徳)は涪城に閉じ困られた形となります。そして、ここに至って劉備は悟ります「蜀は弱くない」と…。

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