晋VS呉 三国の統一へ

晋VS呉 三国の統一へ

魏・呉・蜀漢が100年近くも争い続けた三国志も、蜀漢が滅び、魏は晋に禅譲し、残るは呉のみ。最後は呉が武帝(司馬炎)率いる晋に滅ぼされ、中国が統一されて終わります。これは正史でも演義でも同じです。最後の舞台となった晋と呉の決戦はどのように繰り広げられていったのでしょう!?


蜀漢の滅亡と魏から晋への禅譲

蜀漢の滅亡と魏から晋への禅譲

蜀漢の滅亡と魏から晋への禅譲

263年、魏の実権を握っていた司馬昭は鍾会・鄧艾を蜀漢に派遣し、これを滅亡させることに成功します。当然のごとく、このまま呉を攻めて、中国統一を考えますが、鍾会・姜維が益州で反乱を起こし、魏も大勢の将兵を失ってしまいます。特に呉を攻める上で不可欠な水軍が十分な用意ができません。結局、この混乱期に益州に攻めてきた呉の軍勢を追い返すだけで精一杯に終わります。この時期、呂興が交州で、呉に対して反乱を起こします。魏は元蜀漢の将である霍弋を派遣して援軍とします。呂興は戦死しますが、霍弋は引き続き、交州に太守を派遣したりして、交州における支配力を高めようとします。
魏の司馬昭は戦争ではなく、外交で呉を落とそうと、国力を高め、益州を安定させ、呉の国の人心を買おうと努めました。
翌264年、司馬昭は晋王の位に付きます。そして、呉に対してそのまま屈服させようと蜀漢滅亡の戦果をアピールします。ところが、翌265年司馬昭は病死してしまいます。息子の司馬炎が相国と晋王の位を引き継ぎます。そして、その年の内に魏の元帝から皇帝の位の禅譲を受け、魏は滅亡し、晋が興り、司馬炎は晋の武帝となります。一方、呉は蜀漢の滅亡や交州の離反で強大な晋の圧力をモロに受ける形になります。呉の皇帝である孫晧は一旦は下手に出ることで矛先をかわそうとしました。ところが、司馬昭が死亡した時、弔問に送った丁忠が
「晋は大したことない」
と進言したこともあって、外交を一方的に打ち切ります。そして、北伐を計画したり、酒色に耽けるようになり、諌めた忠臣を誅殺するなど暴君となり、怨嗟の声が国に広まっていきます。

西陵の戦い

西陵の戦い

西陵の戦い

孫晧は北伐と交州奪還の両面作戦を取りますが、どちらも撃退されてしまいます。一方、晋の武帝は羊祜を襄陽に派遣し、呉に対する最前線の将軍とします。荊州の総司令官です。羊祜は将兵を鍛え、食料を蓄え、さらには呉の民心を徐々に掴んでいきます。ところが、涼州で非漢民族の大規模な反乱が起き、対応に追われることになります。
同時期、交州を呉の虞汜(虞翻の子)・薛珝(薛綜の子)・陶璜らが再制圧します。ところが、西陵で歩闡(歩隲の子)が晋に降伏するとという出来事が起こります。孫晧が突然、歩闡を召還したため、誅殺されるのではないかと恐れたことがきっかけと言われています。この頃、孫晧は気に入らないことがあると誅殺と言ったことを繰り返していたので、歩闡もそうなるのではないかと考えたのでしょう。激怒した孫晧は陸抗(陸遜の子)を派遣します。晋では、羊祜が歩闡の援軍に向かいます。両者の軍が激突します。
羊祜は呉の、荊州における要所である江陵に向かいます。また、援軍を西陵に派遣します。一方、陸抗は西陵に到着すると、二重に陣地をひきます。内側は西陵城の歩闡に備え、外側は羊祜の援軍を迎え撃とうという意図です。呉軍の将兵は陸抗の作戦に納得せず、「早く西陵城を落とすべきだ」と主張します。そこで、陸抗は一度だけ出陣を許可しますが、戦果を上げることが出来ず、諸将は陸抗の命令に従うようになりました。
羊祜が江陵に向かったという情報を得ると、呉軍の諸将は
「楽郷に残り、江陵に備えるべきだ」
と主張しました。ところが陸抗は
「江陵は守備も堅い。また、落ちたとしても地勢的に取り返すのはそれほど困難ではない。だが、西陵が落ちると周りに動揺を与え、総崩れになる恐れがある」
と言い、楽郷から西陵に向かいました。
陸抗は江陵付近の平地を水没させ、敵を防ぎました。羊祜はその水を利用し、船で補給を確保しようとしましたが、意図を見抜いた陸抗は水を引いてしまい、羊祜の補給は大打撃を受けました。また、呉軍から晋軍へ寝返った将軍が出ました。陸抗はその将軍が呉軍の中で、異民族中心に結成されている弱点の軍を攻めてくると読み、夜の内に、古参の精鋭と交代させました。翌日、予定通りその場所を攻めてきた晋軍を大いに打ち破りました。晋軍の大敗を聞いた羊祜は全軍を引き上げさせました。引き上げを確認した陸抗は西陵城に総攻撃をかけ、歩闡らを捕縛し、処刑しました。

羊祜と陸抗--羊陸之交

羊祜と陸抗--羊陸之交

羊祜と陸抗--羊陸之交

前述した通り、晋と呉の合戦において中心的役割を果たした将軍は羊祜と陸抗です。どちらもその有能さから最前線に配置されていました。なので、国境を挟んで領土は隣同士です。ですが、二人共相手の才能を認め合い、信頼の足る人物だと認識しあっていたので、互いの領土を侵略しないことを暗黙の了解としていました。それでいて、二人共公私混同することもなく、戦場で会った時は手心を加えることなく、お互いの祖国のために全身全霊をもって戦いました。
ある時、陸抗が病気になると羊祜は薬を送りました。呉の将兵が
「敵からの贈り物です。危険なのでは」
と忠告しますが、陸抗は躊躇なくそれを使用し、何事もなくやがて病気も治りました。そして、後日
「薬のお礼です」
と酒を羊祜に贈りました。羊祜も敵方からの贈り物であるにも関わらず、毒味もせずに飲みました。彼らがお互いを信用するのはかくのごとしでした。
中国で「羊陸之交」と言うと、政治的な立場に左右されない友情のことを表す成語となりました。また、羊祜は呉軍の将兵にも気を配り、投降しやすい環境を作ったり、討ち取った呉の兵士の遺体を丁重にお繰り返したりなどして、敵ながらも「羊公」と呉軍の中で呼ばれ、敬愛されていました。

呉の滅亡と中国統一

呉の滅亡と中国統一

呉の滅亡と中国統一

274年に呉の大黒柱である陸抗が死亡します。続いて278年には晋で呉の征討を主張し続けていた羊祜も死亡します。翌279年には非漢民族の反乱も収まり、晋の武帝は呉征討の軍を起こします。羊祜が生前に称えていた作戦で、六方向から呉に攻め入ります。呉では、生前の陸抗を初め、多くの将兵が晋に備えるべきだと主張していましたが、孫晧が聞き入れませんでした。
晋軍は西陵・夷道・楽郷・江陵・江安・建平を攻めて殆どで大勝を収めます。唯一建平だけは吾彦がよく守りましたが、体制に影響はありませんでした。また、益州の方向からも攻め入り巴丘・夏口・武昌・零陵・桂陽・衡陽・夏口・武昌と攻め入り、長江の上流を完全に支配下に収めました。
晋軍が呉の首都である建業に迫り、孫晧は迎え撃とうと将兵を出陣させますが、殆どが戦う前に逃亡してしまいます。そして最期には、孫晧は片肌を脱いで後ろ手に縛られるという格好で投降をします。これにより、呉も滅亡します。このことは、後漢末期から続いていた、群雄割拠及び三国鼎立の時代が終わり中国が再び統一国家になったことを意味します。





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