”天下に最も近かった男” 袁紹はなぜ敗れたのか?

”天下に最も近かった男” 袁紹はなぜ敗れたのか?

「三国志」前半の主要人物である袁紹(字:本初)。曹操と華北の覇権を争い、西暦200年に官渡の戦いで敗れた。多数の優秀な人材を抱え、圧倒的な優位にたっていたにも関わらず、なぜ袁紹は敗れたのか。その敗因を探る。


名門の御曹司として期待された

名門の御曹司として期待された

名門の御曹司として期待された

 袁紹は、汝南袁家という名家の出身である。紀元1世紀(後漢の初期)に袁安という官僚が重臣として取り立てられ、汝南袁家の礎になった。4代にわたり三公(宰相)を輩出したことから、「四世三公」と称された名門中の名門だった。
 袁紹自身も、名門出身にふさわしい風格を備えていたらしい。彼の風采の評価には、以下のようなものがある。

・紹、姿貌威容あり。
・紹、外は寛雅にして局度あり。
・威容、器観あり。

 つまり、威厳があるとか度量の大きさを感じさせるような雰囲気を持っていた、といえる。宦官の家の出身である曹操、江南の豪族出身の孫権、貧しい家の出身の劉備(玄徳)といった面々とは、毛並みがまったく違うのだ。
 しかも、血筋がいいことを鼻にかけたりせず、遊侠の徒のような人々とも気楽に付き合ったので、自然と多くの人材が彼の周りに集まっていた。

 西暦189年、董卓率いる軍勢が洛陽に入り、董卓の暴政が始まる。袁紹は洛陽を脱出して冀州に逃亡。翌190年、董卓の圧政に反対する諸侯らによって、反董卓連合軍の盟主に担ぎ上げられた。
 反董卓連合軍は、のちに諸侯の内輪もめから瓦解してしまい、中国は各地で諸侯が勢力争いをする群雄割拠の乱世に突入した。
 こうした中で、冀州という有力な根拠地を手に入れた袁紹は、彼の血筋と風格に惹かれて集まってくる人材に支えられ、順調に勢力を伸ばしていった。弱小勢力を率い、自ら前線で苦労を重ねながら勢力を拡大していった曹操とは対照的だ。

圧倒的に袁紹有利なはずだった官渡の戦い

圧倒的に袁紹有利なはずだった官渡の戦い

圧倒的に袁紹有利なはずだった官渡の戦い

 西暦199年、袁紹は幽州の公孫サンを滅ぼす。一方の曹操も呂布を破り、張繍の降伏を受け入れてその勢力を吸収する。西暦200年までに、華北は大きく袁紹と曹操の勢力に二分された状態になっていた。
 西暦200年、両雄は現在の河南省にある官渡にて対峙した。しかし、華北の二大勢力といっても、兵力には隔たりがあった。
 袁紹の軍勢は約10万、対する曹操は2万にも満たなかったという。

 前哨戦である白馬・延津の戦いでは、曹操軍は巧みな用兵によって袁紹軍の二枚看板である顔良・文醜を討ち取る。だが、この時点でも兵力面で袁紹が優勢だった。官渡に築かれた砦に立てこもった曹操に対し、袁紹は大軍をもって圧迫を開始する。

 ところが、ここで1人の人物が状況を変えるきっかけを作った。
 袁紹の配下である軍師・許攸が曹操のもとに投降してきたのだ。彼は袁紹に策を進言したが聞き入れられず、嫌気がさして袁紹を離れたという。
 許攸は、烏巣という場所に袁紹軍の兵糧庫があること、そこの守備が手薄であることを曹操に教えた。曹操は兵糧庫を奇襲することを即断し、自ら5千の兵を率いて烏巣を急襲。敵将の淳于瓊を討ち取って兵糧を焼き払った。

 兵糧を失った袁紹軍は戦争継続の能力を失い、河北へと敗走を余儀なくされる。圧倒的に有利でありながら曹操に敗れたことで、袁紹本拠地の冀州では反乱が起き、袁紹幕下の内輪もめも深刻になった。

 袁紹は西暦202年に憂悶のうちに病死。袁紹の死後、長男・袁譚と三男・袁尚との間で後継者争いが勃発する。曹操は袁家が仲間割れしているのに乗じ、あっけなく袁家を滅ぼしてしまった。

 一軍師の許攸が離反するというちょっとしたきっかけから、袁紹は勝利を逃したばかりか家をも滅ぼしてしまったことになる。

有能な者の意見を採用しないという致命的な欠点

有能な者の意見を採用しないという致命的な欠点

有能な者の意見を採用しないという致命的な欠点

 しかし、官渡の戦いの際の袁紹の動向を見てみると、彼は敗れるべくして敗れたとわかる。許攸を重用せず離反させたのが敗北の直接のきっかけだが、袁紹はそれ以外にも部下の進言を取り入れず、器の小ささを露呈していた。

 前述の通り、袁紹の声望によって彼のもとには多くの人材が集まっていた。だが、せっかく優秀な人材がいたのに、彼らの意見を用いなかったのだ。

田豊のケース

田豊のケース

田豊のケース

 田豊は袁紹配下の代表的な軍師だ。博学で知略に優れていたが、歯に衣を着せない物言いによって袁紹に疎ましく思われていたようだ。
 官渡の戦いの直前、曹操は袁紹を迎え撃つ前に、劉備(玄徳)の軍を叩いて背後の心配をなくそうとした。この時、曹操の本拠地である許都はがら空きとなる。田豊は、今こそ許都を攻撃して曹操に打撃を与える好機であると進言した。
 しかし、袁紹は子供の病気を理由として兵を起こさなかった。田豊は主君の優柔不断さに、持っていた杖を地面に叩きつけて悔しがったという。

 両軍が対峙すると、田豊は同僚の沮授とともに、こう進言する。
「曹操の用兵は侮りがたいものがあります。決戦を急がず持久戦に持ち込み、敵の疲弊を待つべきです」
 だが、袁紹はこれを受け入れなかったばかりか、食い下がる田豊に怒り、投獄してしまった。

 獄中で袁紹が敗れたことを聞いた田豊は、こう言ったという。
「殿が勝てば私も助かったろう。だが、負けてしまったので私は殺されるだろう」
 果たして、田豊の言ったことは的中した。袁紹は、
「田豊は、今頃私の失敗を聞いて笑っているだろう」
 と言って、田豊を殺してしまった。

沮授のケース

沮授のケース

沮授のケース

 沮授は田豊と並び、袁紹配下の謀臣の代表格である。袁紹の勢力拡大に大きく貢献した人物だが、官渡の戦いでは彼の進言もことごとく退けられた。

 田豊とともに持久戦を主張したが無駄に終わったのは、前述の通り。

 他にも、前哨戦の白馬・延津の戦いでは、顔良を先鋒とする作戦について、
「顔良では任に耐えられないでしょう」
 と進言したが用いられなかった。沮授の危惧したとおり、顔良は孤立して曹操軍に討ち取られてしまう。
 さらに、烏巣における兵糧庫の守備を固めるように、という進言も、袁紹は聞き入れることはなかった。結局、烏巣の兵糧庫が奇襲を受けたことが命取りになった。

 袁紹の軍が敗走するとき、沮授は逃げ遅れて曹操に捕らえられた。曹操は彼の才能を惜しんだが、沮授は曹操に仕えることを拒否。脱走を図ったため、処刑されてしまった。

 田豊も沮授も、能力にふさわしい主君に仕えられなかった悲劇の参謀だったといえる。

袁紹の失敗は、すべてのリーダーへの反面教師?

袁紹の失敗は、すべてのリーダーへの反面教師?

袁紹の失敗は、すべてのリーダーへの反面教師?

 血筋と風格のおかげで、自然と優秀な人材が集まってきた袁紹。しかし、彼らの意見に耳を傾けるだけの器量がなかったために、曹操との決戦に敗れてしまった。
 正史の「三国志」の編者である陳寿は、袁紹にこんな評価を下している。

「才有れども用いる能わず、善を聞けども納(い)るる能わず」
(=才能ある人材がいるのに使いこなせず、良い進言を聞いても受け入れられなかった)

 袁紹の失敗は、現代に生きる私たちにも教訓を残している。リーダーであれば、部下の意見を柔軟に受け入れなければ、組織は立ち行かないのだ。

(参考文献:守屋洋「『三国志』の人物学」PHP文庫)





この記事の三国志ライター

歴史好きフリーライター。史実解説・トリビアをメインに書いていきたいです。

関連するキーワード


三国志 袁紹 曹操

関連する投稿


三国志の英雄がイケメンに!?三国志をテーマにした女性向けゲームアプリ!

日本の戦国時代や幕末をテーマとした女性向け恋愛シミュレーションアプリがあるように、三国志をテーマにしたものも存在するんです! 素敵な英雄と恋を楽しんでみませんか?


三国志の人材コレクター!曹操が集めた魏の武将たち

群雄割拠の三国時代において、抜きんでた兵力を誇った魏の国。その礎となったのは、「人材コレクター」の異名を持つ曹操孟徳が集めた、優れた武将たちの働きでした。曹操は優秀な人材なら出自を問わず重用し後の蜀の皇帝・劉備(玄徳)の腹心である関羽まで手に入れようとしたほどです。そんな曹操のもとに集った腹心たちをご紹介します!


三国志の始まり~王朝の乱れより黄巾の乱の始まり~

「蒼天己死」~そうてんすでにしす~ 腐敗した漢王朝に代わる新しい世界を求めた者たちは、この言葉のもと各地で蜂起する。これが「黄巾の乱」である。この反乱が成功することがなかったが、三国志の英雄たちを歴史の表舞台に登場させることとなる。


董卓~三国志随一の暴君~

黄巾の乱後の政治的不安定な時期を狙い、小帝と何皇太后を殺害し、献帝を擁護し権力を掌握していく朝廷を支配していた絶対的存在。 政権を握った彼のあまりにもの暴虐非道さには人々は恐れ誰も逆らえなかった。 しかし、最後は信頼していた養子である呂布に裏切られるという壮絶な最後を遂げる。


魏軍武勇筆頭! 義にも厚かった猛将・張遼

曹操配下の将軍の中でもトップクラスの評価を受けるのが張遼だ。幾度か主君を変えた後に曹操に巡り合い、武名を大いに轟かせる。最後まで前線に立ち続けた武人の生涯をたどる。


最新の投稿


春秋戦国時代 伍子胥の人生について

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代に活躍した楚の武人です。彼の本名は員(うん)で、楚の平王によって父と兄が殺されたため、復讐を誓いました。彼は呉に亡命し、楚との戦いで、ついに復讐を果たしました。しかし、後に呉王夫差が越王勾践を破った際、降伏を許そうとする夫差に反対し、意見が受け入れられず、自害させられました。


孫氏の兵法の孫武(そんぶ)とは?

『孫氏の兵法』における「孫氏」とは、古代中国の軍事思想家である孫武です。兵法書『孫子』を著し、戦争や軍事戦略に関する理論を全13篇から構成。特に「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」が有名で、戦争を避けることが最も優れた戦略であると説いています。 参考:ドラマ 孫子兵法 ‧


『キングダム』における羌瘣とは?

羌瘣は、漫画『キングダム』に登場する架空のキャラクターです。彼女は羌族出身の少女で、精鋭の暗殺者集団「蚩尤(しゆう)」に属していました。彼女は、原作、映画においても非常に魅力的なキャラクターです。その環境や周辺を史実を参考に紐解いてみます。


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング