冷酷非道なだけではない 曹操(孟徳)の慈悲心が垣間見られる漢中攻略

冷酷非道なだけではない 曹操(孟徳)の慈悲心が垣間見られる漢中攻略

劉備(玄徳)が蜀漢を建国した翌年の215年、曹操(孟徳)は蜀漢討伐を目指しますが、まずは蜀の入口に位置する漢中を攻略すべく征西軍を編成します。険しい山岳地帯への行軍で緒戦は苦戦を強いられるますが、人的にも物量にも勝る曹操軍は次第に優勢となります。そして、そんな中で曹操(孟徳)は「冷酷非道」を行わず、むしろ慈悲心を見せる場面がたくさん登場します。この頃の曹操(孟徳)を見ると、一代で中国の3分の2を支配した「実力」に納得させられます。


遠路の疲れ勢は陣の夜討ちに用心 緒戦は大敗した曹操軍

満を持して征西軍を編成した曹操(孟徳)。先鋒に夏侯淵(妙才)、張郃(儁乂)を立てます。険しい山岳地帯を行軍し、漢中最大の要害である陽平関に辿り着きます。想像を絶する険しい道のりであったため、兵たちは行軍だけで疲れ果てていました。そこで、二将は「兵を休ませ、陽平関攻撃は明日から」という方針を採りました。その日の夜は、皆、深い眠りに就く曹操軍の将兵たち…。

この状況が漢中軍に完全に読まれていました。

楊任、楊昂率いる漢中軍が夜襲を行い、曹操軍の「寝込み」を襲います。夜襲は大成功。曹操軍は抵抗するどころか、武器がどこにあるか分からない有様…夏侯淵(妙才)も張郃(儁乂)も鎧すら身に付ける間もなく着の身着のままの恰好で逃げ回ったとか…挽回の余地のない大敗を喫します。

激怒する曹操(孟徳)。夏侯淵(妙才)、張郃(儁乂)を打ち首にしようとしますが、他の将たちに諫められて思い留まります。そして曹操(孟徳)は怒気を含んでこう言います。

「遠路の疲れ勢は陣の夜討ちに用心」お前たち(夏侯淵、張郃)はこんな兵法の基本を心得ていなかったのか!

誘引の計 退却と見せかけて敵を誘い出す

陣を後退させた曹操軍、しばらく膠着状態が続きます。戦いは長期化すれば攻め込んでいる側の曹操軍が不利になります(攻め手は兵糧輸送の問題があるため)。そこで曹操(孟徳)は全軍に退却を命じます。もちろんこれは策で、退却すると見せかけて、実は夏侯淵(妙才)、張郃(儁乂)の二軍を山岳地帯にかかる濃霧の日に漢中軍の楊任、楊昂の陣の背後に回らせていたのです。

この策に引っかかったのは楊昂でした。

緒戦の勝利で勢い付く漢中軍、楊昂の一軍は直ちに追い討ちをかけました。しかし、曹操軍は後退した先で攻撃態勢を整え、追い掛けて来る楊昂軍を待ち構えていました。正面切っての戦いとなれば曹操軍有利は揺るぎません。罠にはまった楊昂軍は窮地に陥ります。

漢中軍の陣に残っていた楊任の軍はその異変に気付き、救援に向かいます。そして陣は「カラ」になってしまいました。そこに悠々と入ってきたのは夏侯淵(妙才)と張郃(儁乂)率いる曹操軍の一軍でした。結局、漢中軍は曹操軍に「挟み撃ち」にされて敗走。さらに、陽平関をにいた張衛(公則)(張魯の弟)は、楊任、楊昂が守っていた前衛の陣を失っては曹操軍と戦うのは不可能と判断。戦わずして陽平関を明け渡してしまいます。

存亡の危機に立つ張魯(公祺)漢中 迎え撃つのは龐徳(令明)

戦局は曹操軍絶対有利の形勢。存亡の危機に立たされた張魯(公祺)は龐徳(令明)を総大将として曹操軍を迎え撃ちます。
龐徳(令明)はかつて馬超(孟起)の片腕として活躍していました。馬超(孟起)が曹操(孟徳)に敗れ、漢中に身を隠していた時に龐徳(令明)も行動を共にしていましたが、馬超(孟起)の劉備軍への投降の際にたまたま病床に伏せていたため漢中に残っていたのです。漢中での立場は「客将」でしたが、「1日でも禄をいただけば家臣」という信念から張魯(公祺)の出撃命令を快く受け入れました。

龐徳(令明)は馬超(孟起)に匹敵する武力を持つ武将でした。疲れを見せず曹操軍の兵士を次々と蹴散らして行く龐徳(令明)。曹操軍は彼を「疲れさせる」戦術を取ります。張郃(儁乂)、夏侯淵(妙才)、徐晃(公明)、許褚(仲康)が次々と入れ替わりながら龐徳(令明)と戦い続けるのです。
それでも疲れを見せず、曹操軍においては武力第一人者と言われる許褚(仲康)を相手にしても全く譲りません。結局、決着はつきませんでした。龐徳(令明)の勇名は漢中および曹操軍にも轟き渡ります。

しかし、龐徳(令明)は「客将」。政治的には孤独な立場です。曹操軍はここに目を付け、南鄭城内に住む楊松という賄賂に目のない文官を買収して龐徳(令明)を陥れるよう工作します。

楊松に陥れられ曹操軍の計略にハマる龐徳(令明)

楊松は「四対一」の戦いについて「真剣に戦っていなかった」と張魯(公祺)に進言してしまいます。そして、龐徳(令明)が曹操(孟徳)と内通しているとまで語ります。そうなれば所詮は「客将」。張魯(公祺)は楊松の言葉を鵜呑みにし、「次の戦いで曹操(孟徳)の首を取らなければ罪に問う」と龐統(士元)に伝えます。
身に覚えのない「濡れ衣」を着せられた龐徳(令明)。何とか汚名を晴らしたいと功を焦ってしまいます。そのため、まんまと曹操軍の計略にハマり、落とし穴に落とされて取り押さえられてしまいます。「打ち首を覚悟した龐徳(令明)に曹操(孟徳)が一言。

「犬死を急ぐこともあるまい。どうじゃ、降伏せぬか?」

捕らえられた敵将のプライドを傷つけず、降伏を促す曹操(孟徳)の姿は、それまでの彼の行動にはあまり見られないものでした。そんな曹操(孟徳)に感激した龐統(士元)は進んで曹操(孟徳)に降伏します。

曹操(孟徳)の漢中平定 張魯(公祺)は打ち首にならなかった

龐徳(令明)を失った漢中軍。主要拠点だった南鄭城を捨て巴中城で徹底抗戦を計りますが、もはや戦力の差は歴然。兵士の士気も上がらず、張魯(公祺)は降伏します。

しかし、曹操(孟徳)は張魯(公祺)を打ち首にせず、手厚く迎え入れます。通常なら敵に占領される城には火を放ち、一粒の米も残さないようにしますが、漢中軍は「食料は天の授かりもの」としてこれらに火を放たず、倉に鍵を掛けただけで立ち去ったことを高く評価したのです。

余は主君を売って出世を図るなど好まん

張魯(公祺)が曹操(孟徳)に捕らえられたのは、移動した巴中城から単独で軍を率いて出撃したためでした。楊松の策略です。彼は、龐徳(令明)の後、さらに曹操軍から張魯(公祺)も裏切るよう賄賂を受けていたのです。

結局、楊松は賄賂によって主君を裏切ります。

防戦一方で追い詰められた張魯(公祺)に「兵の士気を高めるためにも主君(張魯)自ら出撃なされませ。この城は拙者(楊松)が守ります。」と進言し、絶対不利な戦場にまんまと張魯(公祺)を出撃させたのです。そして、目論み通り張魯(公祺)は降伏します。

張魯(公祺)降伏後、楊松は曹操(孟徳)に謁見します。「漢中平定の立役者」気取りです。この上ない褒美もあるだろう…。魏国での破格の出世も期待できるだろう…。「英雄」気取りです。しかし、曹操(孟徳)は一言…。

「余は主君を売って出世を図るなど好まん」

楊松は打ち首になります。

龐徳(令明)、張魯(公祺)、楊松…。曹操(孟徳)は「自身の配下として役立つか」という「能力」だけでなく「正しい信義を心得ているか」という今風に言う「モラル」がしっかりした人物を見極める目を持っていたようです。漢中平定では「冷酷非道」なだけではない曹操(孟徳)の別の一面が多く垣間見れるのです。

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