五虎大将軍の一人 馬超(孟起)の迷走と劉備軍への帰順

五虎大将軍の一人 馬超(孟起)の迷走と劉備軍への帰順

渭水の戦いにおいて離間の計に敗れた西涼軍。韓遂(文約)は曹操(孟徳)に降伏。馬超(孟起)は逃走します。流浪の立場となった馬超(孟起)は漢中の張魯(公祺)を頼りますが、張魯(公祺)は食客として迎えるものの、積極的に召し抱える訳でもなく、いいように彼を使い始め劉備軍と戦わせます。


曹操(孟徳)さえも進軍を見送った漢中の独立勢力

漢中は中原(洛陽、長安)と益州のほぼ中間に位置しますが、山険しく、天険の要害とされ行軍が非常に厳しい地形にありました。さらに張魯(公祺)の独立勢力がしっかりと統治していたため、朝廷(曹操が丞相)は毎年貢物を献上すれば自治を認めるという懐柔策を採っていました。

張魯(公祺)は自身を「師君」と称し、門徒を「鬼卒」と呼び、さらには道術を深く学んだ一部の者を「祭酒」という地位につけ、教団の統率に利用しました。教団の規模が拡大すると、「祭酒」の上に「治頭大祭酒」を置き、さらに勢力を拡大して行きます。また、漢中は街道の整備が進んでおり、旅人(漢中に利をもたらすとの信仰がある)に無償で寝泊まりさせるための「義舎」(休憩所や食堂の類)も建てられていました。ただ、「無償」をいいことに必要以上に貪りつくような者には容赦なく罰が与えれていたようです。

しかし、信者から得ていた税や寄進などによる5斗の米も、自身の享楽に使うことはほとんどなく、旅人や着者への扶助に費やし善政を敷いていました。

劉備(玄徳)の入蜀による漢中、益州の動乱

三国志の時代背景としては、劉備(玄徳)が赤壁の戦い後、諸葛亮(孔明)が提唱した「天下三分の計」をいよいよ実行すべく行動(益州攻略)している時期でした。天険の要害に守られ、長年戦乱の起きなかった蜀(益州)。それに対して常に戦乱の最中をくぐり抜けてきた劉備(荊州)軍…。力の差は歴然と考えられていた益州攻略ですが、雒城の戦いにおいては軍師の龐統(士元)が戦死。蜀軍に城外を取り囲まれ劉備(玄徳)は孤立。荊州の守りについていた諸葛亮(孔明)が急遽益州に入らざるを得ない状況になるなど、劉備(荊州)軍は大苦戦を強いられます。

劉備(玄徳)の入蜀に危機感を感じる張魯(公祺)

苦戦しながらも着々と成都(益州の中心都市)にコマを進める劉備軍に対して漢中の張魯(公祺)は危機感を感じます。成都が劉備(玄徳)の手に落ちれば、次は明らかに漢中攻略に動いてきます。劉備軍の目標が成都に定められているうちにと、張魯(公祺)は劉備軍攻撃を開始します。そして、差し向けられた漢中軍の総大将は馬超(孟起)です。涼州を失い、領土を持たない馬超(孟起)。背に腹は代えられない立場となり劉備軍攻撃に向かいます。

西涼の錦馬超(孟起) 張飛(益徳)と互角に戦う武力

益州での戦いで馬超(孟起)は張飛(益徳)と一騎打ちをしています。劉備(玄徳)が城に立てこもる中、馬超(孟起)が城外から罵倒し張飛(益徳)を城外へ引きずり出す…という経緯ですが、これは単に馬超(孟起)の気性によるものではなく、現状(領地を持たず、張魯の食客に甘んじている)を踏まえ、功を焦っている故の行動です。罵倒された張飛(益徳)は怒り露わに制止する劉備(玄徳)を振り切って城外に出ます。そして一騎打ちとなります。

戦いは数十合にも及びますが決着は付きません。休憩を挟んでの長期戦。やがて日が暮れ、お互いの姿が見え難くなります。そこで張飛(益徳)が言いました。「こう暗くなっては話にならん。勝負は明日へ持越しだ。」張飛(益徳)が城へ戻ろうとしたところで今度は馬超(孟起)が言います。「こちらは夜戦の準備もある。それでも逃げるか。」松明に火をつけ、周囲が明るくなる…。これを挑発と受取った張飛(益徳)は再び感情を露わにし馬超(孟起)に襲いかかります。

ついに見かねた劉備(玄徳)が城外に出て馬超(孟起)を諌めます。「余(劉備)は義を重んじて行動している。君(馬超)も引きたまえ。そうすれば我々も必ず引くであろう。」そこでようやく一騎打ちは引き分けの形で終了します。

李恢(徳昂)が劉備(玄徳)への帰順を促す 君(馬超)の敵は曹操(孟徳)!

自陣に戻った馬超(孟起)を一人の人物が訪ねて来ます。李恢(徳昂)という人物です。彼は元々益州の人物でしたが、劉備(玄徳)の入蜀に伴い、劉備軍に帰順します。

弁の立つことで知られていた李恢(徳昂)。馬超(孟起)も詭弁を並べ立てられ、降伏を勧められるのではないかと警戒します。妙な考えを押し付けてくるようならその場で切り殺す…そんなつもりで李恢(徳昂)に会います。そんなこと(馬超の殺意)は百も承知でしょう。しかし、自身の帰順を認めてもらうための功として李恢(徳昂)にとっても馬超(孟起)が必要でした。

伏兵が取り囲む中、馬超(孟起)の幕舎へ入る李恢(徳昂)。馬超(孟起)の態度も「何の用だ」とばかりに横柄で、これ見よがしに剣を見せて脅します。

しかし、そんな状況で放った李恢(徳昂)の言葉は馬超(孟起)の心に突き刺さりました。

「不幸の子(馬超)を導いてくれと、君の亡き父(馬騰)に言われて来た」

「この戦いで君が劉備(玄徳)を討って一番喜ぶのは君の父の仇、曹操(孟徳)であろう!」

…馬超(孟起)は黙って頷き、肩を落とします。そして、伏兵たちを引かせた上で李恢(徳昂)に詫びます。それは青年馬超(孟起)の実直な心意気と潔さを象徴する態度でした。李恢(徳昂)は劉備(玄徳)へ帰順することを促し、馬超(孟起)も「ぜひとも」とのことでまとまり。二人は共に劉備(玄徳)の下に参上します。

劉備(玄徳)は上賓の礼をもって馬超(孟起)を遇する

李恢(徳昂)も馬超(孟起)も劉備(玄徳)に大きな歓迎を受けます。劉備(玄徳)にしてみれば張飛(益徳)に匹敵する武力は実証済み。この上ない軍事力の増強です。馬超(孟起)からしてみても、涼州を失い、頼った張魯(公祺)からは使い回しにされ都合が悪くなれば簡単に捨てられる…そんな自分を手厚く歓迎してくれた恩人。何より父の仇である曹操(孟徳)が最も恐れるライバル…。さぞかし「真の主を得た」気分になったことでしょう。

まとめ

馬超(孟起)は、劉備(玄徳)への第一の奉公として劉璋(季玉)へ降伏を促す使者の役を買って出ます。劉備(玄徳)も諸葛亮(孔明)も驚きますが、西涼、漢中、益州のこれまでの関係性を踏まえ、無駄ではないと判断。馬超(孟起)が益州の成都へ向かう事となります。そして、この作戦は見事に的中します!

実は、劉璋(季玉)は漢中の援軍をかなりアテにしていました。張魯(公祺)とは敵対していた筈なのに、新参者の劉備(玄徳)に国を奪われるよりはマシ…と「益州を半分あげるから援軍を頼む」と張魯(公祺)に書簡を送っていたのです。

なんという下策でしょうか…。

しかし、目の前に現れたのは劉備(玄徳)と戦っているはずの馬超(孟起)が一人。軍勢を従えている様子もありません。そして「張魯(公祺)を見限り劉備(玄徳)に降伏した」旨を劉璋(季玉)に伝えます。捨て身の援軍も来ない。劉璋(季玉)はその場に倒れ込み、劉備(玄徳)への降伏を決意します。

こうして、不遇の馬超(孟起)の運命は劉備(玄徳)との出会いによって大きく変化して行くのでした。

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