援軍の役割分担 誰が荊州に残るのか
■ 援軍の役割分担 誰が荊州に残るのか
援軍の役割分担 誰が荊州に残るのか
龐統(士元)が戦死し窮地に立たされている劉備(玄徳)の状況が伝えられ、荊州は騒然となります。直ちに涪城へ援軍を向かわせる必要が生じました。諸葛亮(孔明)も劉備(玄徳)と同様、龐統(士元)の死を深く悲しみます。
「稀世の才能を抱いたまま死んでしまったか…」
諸葛亮(孔明)の言葉です。劉備軍にとってあまりにも惜しい、あまりにも重大な人物の損失であったことはこの言葉からも伺えます。そして、龐統(士元)を失った以上、諸葛亮(孔明)は軍師として涪城へ行かなくてはなりません。とすると、諸葛亮(孔明)に代わって荊州を守るのは誰か。大きな問題ですが議論している時間は全くありません。この大役に諸葛亮(孔明)は関羽(雲長)を指名します。
使者関平 劉備(玄徳)の真意を読み取った諸葛亮(孔明)
■ 使者関平 劉備(玄徳)の真意を読み取った諸葛亮(孔明)
使者関平 劉備(玄徳)の真意を読み取った諸葛亮(孔明)
当初、「長く苦楽を共にした劉備(玄徳)の危機に留守役などできませぬ」と言って、この指名を関羽(雲長)は辞退します。しかし、諸葛亮(孔明)は桃園の義の話を用い「天下三分の計の元となる荊州の地を曹操(孟徳)、孫権(仲謀)の侵略から守り通す役割は義兄弟の契りに恥じない大役である」と関羽(雲長)を諭します。そして関羽(雲長)は納得し、その後の荊州の実質的な太守となります。
この時、関羽(雲長)に荊州を任せる理由となった要因がもうひとつあります。そして、その要因は諸葛亮(孔明)が持ち出した「桃園の義」の話より重かったと言われています。
それは、涪城からの使者が関平であったことです。
諸葛亮(孔明)、龐統(士元)までとは行かなくとも、劉備(玄徳)は曹操(孟徳)をも凌ぐ知力の持ち主でした。劉備(玄徳)が援軍を求めれば、諸将は「我こそは荊州へ向かう」となり「荊州を守るのは誰か?」で揉めるのは必至と悟ったのでしょう。劉備(玄徳)の考え(荊州を守る大役)は関羽(雲長)でしたが、それを諸葛亮(孔明)が説得できるか…。関羽(雲長)、張飛(翼徳)よりも後から劉備(玄徳)に仕え、年齢も若い諸葛亮(孔明)の立場の難しさに配慮したのです。
「関一門で荊州を死守せよ。」
これが劉備(玄徳)の暗黙のメッセージだったのです。
涪城への援軍 張飛(翼徳)と厳顔との出会い
■ 涪城への援軍 張飛(翼徳)と厳顔との出会い
涪城への援軍 張飛(翼徳)と厳顔との出会い
荊州を守る大役は関羽(雲長)となり、主だった将は陸路(張飛など)、と水路(諸葛亮、趙雲など)に分かれて進むこととなります。張飛(翼徳)は諸葛亮(孔明)の指示に従い、巴郡に入ります。そして、圧倒的な武力で巴郡を制圧しますが、諸葛亮(孔明)の指示をしっかり守り、略奪、殺戮を行わなかったため多くの軍民が続々と投降して来ました。最後に残ったのが厳顔の立てこもる巴城。蜀の名将厳顔の守る巴城攻略に張飛(翼徳)が手こずります。
巴城を攻めあぐねた張飛軍は山間の「草刈り」を始めます。密かに道を作り、巴城を打ち捨てて目的たる雒城へ向かおうという作戦です。そして、草刈りの最中に偶然「間道」が存在することを見付けます。張飛(翼徳)は早速、夜陰に乗じて行動(巴城を打ち捨てて進む)を開始しますが、これを厳顔軍は見逃しませんでした。背後から張飛軍に襲い掛かります。
しかし、「草刈りの計」は元より張飛(翼徳)が厳顔を巴城から出させる作戦でした。既に年老いている厳顔は武力においては張飛(翼徳)に太刀打ちできません。厳顔は一太刀で倒され捕らえられてしまいます。
蜀に降伏の将あらず 首を刎ねたければ刎ねよ
■ 蜀に降伏の将あらず 首を刎ねたければ刎ねよ
蜀に降伏の将あらず 首を刎ねたければ刎ねよ
巴城に入った張飛(翼徳)は厳顔を呼びます。しかし、ひざまずかない厳顔に張飛(翼徳)が言いました。「降伏せねば首を刎ねられるのだぞ」。すると厳顔は堂々と言い放ちました「おまえたちは無礼にも蜀を侵略した。蜀には首を刎ねられる将軍はいても、降伏する将軍はいない。早く首を刎ねよ」。これに張飛(翼徳)は怒りを露わにしますが、厳顔は重ねて…
「殺したいのならさっさとやればいい。なぜ怒る必要があるか」
この言葉に張飛(翼徳)は感嘆し、自ら厳顔の縄を解き、厚くもてなします。そして、劉備(玄徳)は曹操(孟徳)のように野心から挙兵しているのではなく、漢朝を守るために行動していることを伝えます。厳顔は劉備(玄徳)の人柄、挙兵の目的に興味を示し、ここに降伏を決意します。
厳顔の降伏は天下三分の計を遂行するにあたり、大きな影響を与えます。まずは、巴城から雒城までの道に30か所以上ある関所はすべて厳顔管轄下にあったため、すべての関所を難儀なく通過することができました。次に、「厳顔が降伏するような人物(劉備が)であるならば」ということで、呉蘭、雷同、呉懿(子遠)も戦で拘束された後に降伏します。そして、後には黄忠(漢升)と「老将コンビ」を組んで漢中攻略に大活躍します。
厳顔は正史、演義に大きな扱いはされていないものの「天下三分の計の立役者の一人」であることに間違いありません。
劉備(玄徳)、誘引の計に陥り命の危機迫る
■ 劉備(玄徳)、誘引の計に陥り命の危機迫る
劉備(玄徳)、誘引の計に陥り命の危機迫る
劉備(玄徳)が涪城に立てこもってから3ヶ月以上が経ち、援軍到着だけに望みを託す苦しい日々が続きました。そんな中で、攻め込んでいる蜀軍が長陣に退屈し、守りが怠慢になっているとの情報が入ります。劉備(玄徳)は早々に夜陰に乗じて攻撃を始めます。面白いように蜀の陣は次々と堕ちて行きます。そして雒城に辿り着き、攻防が開始。劉備軍は四日四晩攻め続けました。しかし、一連の流れ(長陣に蜀軍が退屈している様子から)はすべて蜀軍の「誘引の計」によるものでした。
劉備(玄徳)を涪城から引出し、雒城を攻撃させて釘付けにし、疲れたところを見計らって捕らえる作戦です。蜀軍は夜陰に乗じて一軍が雒城を出て劉備軍の背後に回り、総攻撃が開始されます。「挟み撃ち」にされた劉備軍。劉備(玄徳)ほどの知力の持ち主が、歴戦の強者が…かなり単純な「誘引の計」に簡単に引っ掛かってしまったのです。
援軍間に合う 雒城一番乗りは張飛(翼徳)
■ 援軍間に合う 雒城一番乗りは張飛(翼徳)
援軍間に合う 雒城一番乗りは張飛(翼徳)
絶体絶命のピンチに陥った劉備(玄徳)を救ったのは張飛(翼徳)でした。厳顔の功績で30ヶ所以上の関所を難なく通過できた張飛軍は雒城に一番乗りできたのです。ここに、絶対的不利な戦局にあった劉備軍は士気を盛り返します。援軍による「数」の問題だけでなく「張飛(翼徳)が来た」ということは劉備軍に大きな勇気を与えたのです。こうして、戦局は一挙に逆転。押し込まれた蜀軍は雒城へ逃げ込みます。
まとめ
■ まとめ
まとめ
この戦いでは蜀軍の呉蘭、雷同の二将軍が捕えられ、劉備(玄徳)に降伏します。さらに、水路を進んで来た諸葛亮(孔明)、趙雲(子龍)の軍勢も到着。「修復」が完了した劉備軍は一大勢力となり雒城から成都(益州の中心都市)へと侵攻の機会を伺います。
しかし、「長く戦いから遠ざかっていた蜀は強くない」と思われていた節がありましたが、龐統(士元)は戦死、劉備(玄徳)は極限まで追い込まれ、諸葛亮(孔明)、張飛(翼徳)、趙雲(子龍)という劉備軍の大本命たる将軍たちが涪城へ引きずり出される事態となったのです。