渭水の攻防 曹操軍に善戦するも計略に敗れた西涼軍

渭水の攻防 曹操軍に善戦するも計略に敗れた西涼軍

中国の二大拠点のひとつである長安を陥落させた西涼軍。武力においても計略においても曹操軍に引けを取りませんでした。渭水の戦いは武力での戦いと計略合戦が織り交ざった一進一退の攻防となりますが、最終的には計略により勝敗が決します。


多数の兵を潜入させ長安を火計で陥落させた西涼軍

中国の二大拠点と言われた長安ですが、「首都」になり得なかった理由は「水」でした。純粋な水が手に入り難い土壌…。領民は定期的に城外へ水を汲みに行かざるを得ない生活をしていました。
そこに目を付けた西涼軍は、城の囲みを解いて長安から見えなくなるくらいの遠方に離れます。油断した長安の将たちは領民たちが「水汲み」に行きたがるのを許可してしまいます。多くの領民が城外に出ているのを見計らって攻撃してくる西涼軍。しかし、城外の領民は西涼軍に追いつかれる事なく城内へ逃げ込みます。

そんな「追い掛けっこ」を何度か繰返した後、領民に変装した多数の西涼兵が城内へ潜入。夜を待ってあちこちに火を放ち、あっけなく長安は陥落します。

潼関の戦い 曹洪(子廉)がたった10日間、関を守り切れなかった理由とは

さらに進撃して来る西涼軍を曹操軍は潼関で迎え撃ちます。長安陥落というまさかの事態に援軍もままなりません。そこで、曹操(孟徳)は曹洪(子廉)と徐晃(公明)に「10日間持ちこたえよ」と守備に徹することを命じます。その間に曹操軍本体が準備を整えて潼関に到着する…という段取りです。

曹洪(子廉)も徐晃(公明)も非常に優れた将。兵の数こそ少数でしたが、彼らの能力をもって対峙すれば潼関を守るには十分でした。それを悟った西涼軍…また計略を用います。「あざけりの策」でした。

西涼兵は守りに徹して戦おうとしない曹洪(子廉)と徐晃(公明)をおおいに罵ったのでした。特に「短気」であることが西涼軍にも知られていた曹洪(子廉)は標的にされました。罵りだけでなく…城門前で居眠りする者、裸踊りをする者、大便までする者…やりたい放題です。

徐晃(公明)はこの事態を冷静に受け止め「完全無視」でしたが、曹洪(子廉)にはそれが出来ませんでした。連日、西涼軍の「あざけり」が続く中、ある日、徐晃(公明)が軍務で曹洪(子廉)と離れて行動している隙、曹洪(子廉)が「キレて」城外へ攻撃を始めてしまいます。西涼軍の術中に完全にハマった訳です。

結局、潼関は西涼軍の手に落ち、曹洪(子廉)、徐晃(公明)は敗走を強いられます。

西涼軍有利で進められた渭水の攻防

敗走して来た曹洪(子廉)、徐晃(公明)を見付けた曹操(孟徳)。潼関陥落の報告を受け「10日間が守り切れなかったのか?」と憤慨します。そして、まんまと「あざけりの策」にハマってしまった曹洪(子廉)を打ち首にしようとしますが、これまでの曹洪(子廉)の様々な活躍に免じて雪辱の機会を与えます。

そして、追撃して来た20万の西涼軍と30万の曹操軍が対峙します。正面から真っ向勝負の戦いとなりました。数ではやや不利だった西涼軍ですが、長安、潼関突破の勢いが勝り、曹操軍を蹴散らしてしまいます。今度は曹操(孟徳)自身が、命からがら敗走するハメになります。

何とか渭水を渡り、西涼軍の追撃を振り切った曹操(孟徳)でした。渭水を挟んでの戦況(罵り合うだけ)となりましたが、西涼軍は何処からともなく渭水を渡り、曹操軍の陣を脅かします。西涼軍は曹操軍が知らないルートから渭水を渡って来ていたのです。連日続く執拗な夜襲に次第に気力・体力を奪われる曹操軍…。夜襲に悩まされた曹操(孟徳)は築城を思い立ちます。しかし、城が半ば出来上がった頃を見計らって、また西涼軍の夜襲…。作りかけの城は焼き払われてしまいます。

しかし、曹操(孟徳)も反撃します。陣内に「落とし穴」を掘り、夜襲して来た西涼軍に大きな打撃を与えたり、自陣を「空」にして誘い込み、突入して来た西涼軍を陣の外から取り囲んで攻撃しました。事実、この時は馬超(孟起)が捕えられそうになりました。まさに攻防は一進一退でした。

氷城の計 劣勢だった曹操軍の形勢が逆転

戦いが長引くほど、季節は曹操軍に不利に働きます。冬の到来は潼関を失い野に陣を張らざるを得ない曹操軍を追い込みます。しかし、ここに来て曹操(孟徳)は城を作ることに成功するのです。

曹操(孟徳)は巨大な土台を粗く積み、そこに水をかけさせました。すると…

土台は冬の寒さで凍り、なんと氷の城ができたのです!

できないと思われていた城ができた。元より数の上では有利だった曹操軍でしたが、これで、兵士の士気が上がることとなりました。そして、形勢は一気に曹操軍有利となります。
さらに、冬の寒さが一段と厳しくなり、さすがの西涼軍も士気が低下、曹操軍に休戦をもちかけます。形勢有利になったものの苦戦続きだった曹操軍も休戦は悪くない話…意外と簡単に休戦となります。

形勢有利の状況における計略の妙味 曹操(孟徳)、離間の計に成功

休戦の最中、氷の城に立てこもった曹操軍を西涼軍は毎日見張りました。大軍で氷の城の前まで押し寄せ、息を潜める曹操軍を威圧したのです。

数日したある日、同じように西涼軍が見張りをしていると、なんと曹操(孟徳)が一騎で城から出て来ます。そして韓遂(文約)を呼びます。

曹操(孟徳)は韓遂(文約)に言いました。

「昔、貴公の父に世話になった時期があった。その頃のことを思い出し懐かしくなって城から出てきた。時代も変わればまた親交を温める日もあろう。何かあればいつでも相談に来てくれ。」

そう言うと城に戻ってしまいました。

韓遂(文約)には何のことやら分かりません。休戦中と言えども、わざわざ敵軍の最前線に一騎で現れて言うことでしょうか…。たちまち西涼軍内で色々な憶測が飛びます。そして、噂を聞いた馬超(孟起)が韓遂(文約)に尋ねます。そんな状況で曹操(孟徳)が出てきたのであれば、よほど重要な話があったのではないかと…。しかし、韓遂(文約)は答えます。

「特に重要な話はなかった。昔話や私の父親の話などして来ただけだった。」

形勢不利の負の心理とでも言うのでしょうか。疑心暗鬼になっていた馬超(孟起)は、韓遂(文約)の何となく消化不良な話に疑いを持ちます。その後も見張りを行っている西涼軍の前で曹洪(子廉)が「韓遂(文約)殿、先日お約束した件、頼みまするぞ」と言ってみたり。韓遂(文約) の下に曹操(孟徳)からわざと一部が消された手紙が送られて来たり、馬超(孟起)の不信は増す一方でした。

これは、曹操(孟徳)が行った「離間の計」でした。曹操軍有利の形勢でも無理押しせず、敵の申し出(休戦)を受入れ、それを逆手にとって罠にはめる…。計略の妙味というものでしょうか。

まとめ

離間の計は成功します。馬超(孟起)の誤解を解く事ができなかった韓遂(文約)は曹操軍に投降。孤立した馬超(孟起)は西涼に逃走、潜伏。火種を残す形での決着となりましたが、西涼は曹操(孟徳)の下に加わることとなり、中国の北方・北西は完全に曹操(孟徳)の支配するところとなったのです。

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