赤壁後の混乱 合肥城の攻防と荊州の領有権争い

赤壁後の混乱 合肥城の攻防と荊州の領有権争い

赤壁の戦い後は曹操軍、呉軍、劉備軍の「三つ巴」様相が鮮明になって行きます。南郡においては呉軍と劉備軍が衝突。劉備軍はさらに荊州南部へ侵攻、そして合肥方面では孫権(仲謀)率いる呉軍が曹操軍の守る合肥城を攻撃します。


合肥城の攻防 4度敗戦した孫権(仲謀)

合肥城は魏と呉の国境にある重要拠点であるだけでなく、呉の都から約200キロ程しか離れていません。隙あらば都の攻撃を受ける距離であるため「国防」の意味からも呉にとって合肥城攻略は至上命題でした。

しかし、孫権(仲謀)は合肥城を4度攻めて4敗します。

これは孫権(仲謀)の汚名のひとつです。彼自身は勇敢で国のトップたる技量を十分に持つ人物でした。後年は諸葛亮(孔明)にすら「恐ろしいほどの人物に成長している」と言わしめる程になりましたが、あまり戦上手ではなかったようです。孫策(伯符)が亡くなる際にも「お前(孫権)は国を興し進んで敵を破る能力は私(孫策)より劣るが、内政の能力は私より優れている」と言い残しています。

結局、三国志史上において合肥城が呉に攻略されることはありませんでした。

合肥城の攻防 猛将太史慈(子義)が戦死

太史慈(子義)は孫策(伯符)の時代から呉に使える有能な将でした。ある時、彼は二人の部下を合肥城内に忍び込ませます。二人は夜中に城内に放火し「火事だ!」と叫びながら駆け回ります。混乱に乗じて城門を開き、場外を包囲している呉軍を突入させる戦法です。

しかしこの戦法は曹操軍の将、張遼(文遠)に見抜かれてしまいました。その日、警戒して寝ずにいた彼は「火事だ!」の声を聞いていたのです。最初の声が2人くらいでしかなかったことを不審に思い、慌てず騒がず「騒動拡大の回避」と「声の主の捜索」を徹底させます。

その結果、太史慈(子義)の部下二人は捕えられてしまいます。

そうとは知らず城外を包囲している呉軍は城内に火の手が上がると放火が成功、作戦は順調に進んでいると判断。城門が開き太史慈(子義)を先頭に呉軍の総攻撃が開始されます。しかし、実際に城門を開いたのは曹操軍の兵でした。呉軍は裏をかかれたのです。

城内に突入した呉軍ですが、そこに曹操軍の姿はなく城壁上から弓矢の雨が降り注ぎます。なすすべなく呉軍は惨敗。容赦なく矢の標的となってしまった太史慈(子義)はここで戦死します。

合肥城の攻防 呉軍10万対曹操軍7千 赤壁とは真逆の戦力比でも勝てない呉軍

孫権(仲謀)が2回目の合肥城攻略を仕掛けた時のお話です。呉軍の兵力は10万、それに対して曹操軍は7千。規模の差こそあれ、赤壁の時とは逆の戦力比です。援軍も間に合わず窮地に立つ合肥城曹操軍。しかし、先手を打ったのは曹操軍でした。呉軍が合肥城周辺に到着、陣中の整備が整う前に張遼(文遠)が夜襲を仕掛けます。

この時、張遼(文遠)は数十人の兵と陳武(子烈)という武将を討ち取ります。鬼神のごとくの戦いぶりは呉軍の兵士たちに恐怖心を抱かせました。虚を突かれ、将が討ち取られ、鬼神のような敵将の存在を知らされた呉の兵士たちは大きく戦意を奪われます。

この夜襲は曹操(孟徳)が城を守る張遼(文遠)たちに授けた策でした。呉軍が大軍で攻め寄せた際には、その勢いのまま合肥城に近づけさせてはならない…。「機先を制して戦局を有利にする」という曹操(孟徳)元来の戦法がここでも活用されています。「勝利」までは行かなくとも、この夜襲は大成功でした。

その後、呉軍陣中に疫病が発生し孫権(仲謀)は合肥城を攻略することなく撤退します。もちろん、曹操軍の猛追を受けた事は言うまでもありません。

劉琦の死 荊州領有の拠所を失う劉備(玄徳)

209年、劉表(景升)の長男劉琦が病死してしまいます。劉表(景升)亡き後の荊州の主君たる存在でしたが、元々病弱で寝たきりになることが多く、国事に耐えうる身体ではありませんでした。次男の劉琮はまだ幼く、劉表(景升)は常に後継者問題に悩んでいました。そのため、同族の劉備(玄徳)が荊州を引継ぐことを強く望んでいました。実際、劉備(玄徳)にも相談しますが、劉備(玄徳)がこれを固辞、あくまでも荊州の後継者は劉琦であり、劉備(玄徳)はこれを補佐する…という主張を崩しませんでした。

そして、赤壁の戦い後は呉が荊州の領有権を主張します。一度は曹操(孟徳)の手に落ちた(劉備に相談なく蔡瑁が勝手に降伏)荊州。それを取り返したのは曹操(孟徳)の水軍を壊滅させた呉軍なのだから…というのが呉の言い分です。しかし、赤壁の戦い後の乱戦で実際に荊州の主要拠点(荊州城、襄陽城など)を占領したのは劉備軍でした…ややこしいですね(笑)。

諸葛亮(孔明)は呉の主張に対して2つの論拠を盾にします。

■そもそも荊州の領有者は劉表(景升)であり、それを継承したのは長男たる劉琦である。しかし劉琦は病弱であり、劉備(玄徳)が国事を補佐することになんの不合理もない。力で攻め取ろうとしている呉の主張と比べてどちらの考えを民衆は受け入れるだろうか。

■赤壁の戦いでは呉軍だけでなく劉備軍も陸戦において曹操軍を追い詰めている。我々(劉備軍)も戦果を主張する権利がある。

ただ、2番目の主張は弱いです。陸戦は水軍が壊滅した曹操軍に追い討ちをかけたものでしたから、呉にしてみれば「陸戦なしでも赤壁の勝敗に影響はなかった」と論破されそうです。あくまでも劉備(玄徳)を優位にするのは1番目の「同族の立場」でしたが、劉琦の死によってこの拠所を失います。

証文による解決 劉備軍が蜀を取ったら荊州を返還する

劉琦の死を知った呉国は劉琦を弔うという名目で魯粛(子敬)を荊州に派遣しますが、真の目的は荊州領有権の論議をすることです。しかし、この節操のなさを諸葛亮(孔明)が逆手に取ります。「劉琦の弔問ということだったので訪問を受け入れたのに、そこに国事の話を持ち込むとは何事か」と…さらに「劉琦が亡くなろうと、荊州の元の領有者(劉表を始めとした劉一門)と劉備(玄徳)が同族であるという事実が変わる訳ではない、これまで通り劉備(玄徳)が荊州を治めてもなんの不合理もない」と主張します。

魯粛(子敬)は後年、周瑜(公瑾)亡き後に呉軍の取りまとめ役になる程の名将で、赤壁の戦いにおいては降伏論者が多い中、主戦論を貫いた人物です。能力も高く、「篤実」「忠良」で人望もありました。しかし、「駆け引き」には向かないようで、荊州領有に関する論議においては常に諸葛亮(孔明)にうまく丸め込まれることばかりでした。

結局、魯粛(子敬)は諸葛亮(孔明)に証文を書かせるに留まり、荊州領有を呉優位に展開することはできませんでした。それどころか、証文には「劉備軍が蜀を取ったら荊州を返還する」とあります。これを見た周瑜(公瑾)は呆れて言います。「蜀を取ったらとあるがそれはいつのことか?」「蜀を取らなかったら荊州は返還しないのか?」「こんな期限も書かれていない証文を我が主君(孫権)に見せたらあなた(魯粛)の首が飛ぶ」

まとめ

この混乱の後に最終的に荊州を統治するのは劉備(玄徳)となりますが、呉が諦める訳がありません。隙あらばと侵攻の機会を伺っていますし、曹操軍も赤壁の大敗から態勢を立て直して再び南下してくることは明らかです。しかし、劉備(玄徳)、諸葛亮(孔明)にとってみれば天下三分の計の土台となる地として、どうしても荊州が必要でした。火種は山積みなれど、とにもかくにも劉備(玄徳)は荊州領有を実現したのでした。

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