215年、曹操(孟徳)は張魯(公祺)が治める漢中の平定に成功しました。劉備(玄徳)の統治が始まったばかりの蜀にとっては大いなる脅威となりました。曹操軍の実力も去ることながら、劉備(玄徳)が統治して日の浅い蜀は人的結束力にまだまだ不安があったからです。漢中平定に成功し日の出の勢いの曹操軍。蜀に攻め込んで来るのは明白。ついに、諸葛亮(孔明)が「切り札」を投入します。
三国志の登場人物では、曹一族、夏侯一族の他、諸葛一族、司馬一族、馬一族など、元々高い地位にあって、そのまま活躍した人物がたくさんいます。ですが、劉備(玄徳)・関羽・張飛のようにどこの馬の骨からか出世した人物も多くいます。 それらの人物の内、「えっ?この人が」という人物を挙げてみます。
三国志演義に登場する最強の戦術「十面埋伏の計」とは、いったいどれほどの威力を持っているのでしょうか?「倉亭の戦い」を振り返って検証してみましょう。
三国志には実に多くの一騎打ちがあり、それにより戦局が大きく変わるという事が多々ありました。また一騎打ちを行うことで相手に脅威を与えることができ、さらには下の者「士気を上げる」ことにも役立っていました。ここではそんな一騎打ちにまつわる話を紹介したいと思います。
三国志で国力・人材ともに最大規模といえば、曹操(孟徳)が築き上げた魏です。魏には有能な武将たちが勢ぞろいし、諸葛亮(孔明)や関羽、張飛、周瑜(公瑾)、呂蒙、陸遜ら傑出した人材を従えていた劉備(玄徳)や孫権たちでも恐れていたほどでした。その中でも魏の有名武将に引けをとらない活躍を見せた楽進を紹介していきます。
三国志で最強の武将と言ったら呂布、最高の軍師と言ったら諸葛亮とあげる人は多いのではないでしょうか。しかし彼らは武なら武、文なら文という感じで呂布(奉先)は忠誠心や人望に欠け、諸葛(孔明)は、武はからっきしでした。ここでは総合力で一番優れた人物は誰かと言うところに注目していきたいと思います。
曹操の配下には勇将、名将が多く名を連ねていますが、その中で欠かすことのできないのが「楽進」です。楽進の勇猛果敢ぶりをご紹介いたします。
「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(11) なぜ李典が出撃し、楽進が城を守ったのか?
10万の孫権軍を返り討ちにし、合肥の防衛に見事成功した、張遼・楽進・李典。しかしちょっと気になることがあります。それは、曹操が彼らに命じた役割分担のことです。
「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(5) 大物食いの武将・楽進
三国志の大きな見せ場でもある、曹操軍と孫権軍の攻防戦。曹操軍の将として、要地・合肥(がっぴ)の守備を任せられた男こそ、勇将として名高い張遼でした。張遼はいかにして孫権軍と戦ったのか、じっくり見ていきましょう。