「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(11) なぜ李典が出撃し、楽進が城を守ったのか?

「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(11) なぜ李典が出撃し、楽進が城を守ったのか?

10万の孫権軍を返り討ちにし、合肥の防衛に見事成功した、張遼・楽進・李典。しかしちょっと気になることがあります。それは、曹操が彼らに命じた役割分担のことです。


あと少しで、孫権をつかまえられたのに……

あと少しで、孫権をつかまえられたのに……

あと少しで、孫権をつかまえられたのに……

退却する孫権軍を散々に打ちのめし、張遼は大戦果をあげることができました。
しかしこの追撃戦のあいだ、孫権軍が混乱するあまり、その隊列は乱れに乱れていました。そのため、張遼も誰が誰だかよく分からなかったのです。
その後、彼は降伏した敵の兵士に、孫権の容姿についてたずねました。降兵は孫権の特徴をこう話したといいます。

「赤ヒゲで背が高く、短足で馬をたくみに操り、騎射の上手い将」

張遼はハッとしました。その特徴を備えた武将に、たしかに見覚えがあったのです。騎射が巧みなところも記憶にありました。
張遼はともに追撃戦を戦った楽進に、こう語ったといいます。

「あの男が孫権だと分かっていれば、追いかけて捕らえることができただろうに」

そう。追撃戦で張遼は敵を圧倒していたので、もし相手が孫権だと分かっていれば、討ち取ることも捕らえることも可能だったのです。孫権は命拾いしたわけですが、張遼にとっては大魚を逸したというところでしょう。
しかし、このエピソードでなんともあわれなのは孫権でしょう。1800年以上の時を経てもなお、彼は「短足」として語られてしまうことになったのですから。

曹操は、なぜ楽進に城を守らせたのか?

曹操は、なぜ楽進に城を守らせたのか?

曹操は、なぜ楽進に城を守らせたのか?

さて、ここで読者の皆様に、孫権が攻め寄せてきた時のことを思い出していただきたいのです。
このとき張遼ら合肥の守将たちは、曹操が残した指示書をはじめて開きます。そこにはこう書かれていました。

「もし孫権が攻めてきたならば、張遼・李典は出撃して戦え。
 楽進は城の守りを担当し、外に出て戦ってはならない」

この指示に込められた曹操の意図を、張遼は正しく読み取り、決死隊での奇襲攻撃で孫権軍に先制パンチを浴びせました。

しかし、ここで引っかかるのは、指示書に書かれた役割分担です。曹操は張遼・李典に出撃を命じ、楽進には城を守るように言いつけています。
ですが、よく考えてみてください。楽進・李典の経歴については先に触れましたが、それぞれ大まかに言えば「勇猛果敢に戦う楽進」「冷静かつ慎重な李典」といったキャラクターなわけです。
とくれば、張遼とともに奇襲作戦に出撃するのは、李典よりも楽進がふさわしいようにも思えます。
(また李典の方も、多くの合戦で地味な仕事を堅実にこなしてきているので、城の守備にも適した人材と言えます)

【仮説】攻撃型の張遼に、ブレーキ役の李典をつけたのでは

【仮説】攻撃型の張遼に、ブレーキ役の李典をつけたのでは

【仮説】攻撃型の張遼に、ブレーキ役の李典をつけたのでは

超・攻撃型の武将である楽進がいるのに、どうして彼に城を守らせたのか?
楽進ほどには華々しい戦功のない李典を、なぜ攻撃役に命じたのか?
史書に記述があるわけではないので、曹操のたしかな意図は分かりません。
しかし、あえてその意図について考えると、以下のような推理ができます。

・楽進は攻撃性が強すぎる武将なので、返って危険だと感じた
・冷静かつ慎重な李典に、張遼に対するブレーキ役を期待した

張遼が編成した決死隊は、わずか800人でした。この人数で10万の敵を攻撃するのですから、攻撃に勢いがつきすぎても、また問題になります。敵の陣に深入りしてしまうと、大軍に取り囲まれ、城に戻れずに全滅してしまう恐れすらあるのです。

よって曹操は、張遼・楽進という攻撃性の強い武将同士を組ませるのは、あまり良くないと考えたのだと思います。
それよりむしろ、攻撃力の高い張遼に、ブレーキ役として李典をつけておくのがベターだと考えたのではないでしょうか。この組み合わせなら、万が一張遼が敵陣に深入りしそうになったとき、李典がブレーキをかけ、大軍に飲み込まれるのを避けることもできるはずです。

もちろん、ここに書いたことは史書の記述の裏づけなどはなく、筆者の推論にすぎません。
ただ、人使いに長けた曹操のことですから、3人の将軍のタイプや適性をよく見た上で、それぞれに役割を与えたはずだと思うのです。

この人、どうしてこんなに強いの?

この人、どうしてこんなに強いの?

この人、どうしてこんなに強いの?

さて、ここまで張遼の合肥での戦いを見てくると、多くの人が感じるのではないでしょうか。
「この人、どうしてこんなに強いの?」……と。
強さの背景として考えられるのは、まず彼の出身地です。
張遼は并州(へいしゅう)で生まれ育ちました。
并州は、現代の山西省や内モンゴル自治区の一部をふくむ地域であり、当時の中国(漢民族の世界)と、北方の異民族との境界線に位置していました。よって并州の男たちは、若い頃から騎馬民族流の戦法を身につけることができ、馬や弓を用いた戦いを得意としたのです。

事実、并州は強い武将の「名産地」として定評があり、三国志最強の武将とも言われる呂布を輩出しています(張遼もかつてはこの呂布に仕えていました)。他にも、呂布とともに董卓を謀殺(ぼうさつ)した王允(おういん/注)や、対蜀戦線で活躍した魏の名将・郭淮(かくわい/注)など、武勇に優れた人物を輩出しているのです。

(注)王允(おういん)……董卓政権の時代に政務を委ねられたが、後に呂布と共謀し、董卓を謀殺した。一時的に政権を握るが、まもなく董卓の残党に討たれた。高位の政治家としてのイメージが強いが、黄巾の乱の鎮圧で功績をあげるなど、武勇にもすぐれた人物だった。
(注)郭淮(かくわい)……魏の武将。主に対蜀戦線で活躍し、諸葛亮や姜維(きょうい)らの攻撃をたびたび防いだ。

呂布にも関羽にも負けない「張遼伝説」

呂布にも関羽にも負けない「張遼伝説」

呂布にも関羽にも負けない「張遼伝説」

とはいえ、張遼の強さは正直いって、人間ばなれしています。
三国志で最も強い武将とされているのは、呂布あるいは関羽といったところでしょう。呂布は三国志最強の武将とされ、後世様々な物語の題材となっています。関羽にいたっては、後に神としてあがめられた(注)ほどの武将です。

「最強の呂布」であれ「神になった関羽」であれ、強いのは誰もが認めるところです。
しかし彼らには、張遼ほどのすさまじい「伝説」はあるでしょうか……?
なにしろ張遼は「たった800人の部隊を率いて、10万の孫権軍を圧倒した」男なのです。長い歴史において、ここまでとんでもない戦いをやってのけた武将は、他にいないですよね。あるいは張遼こそが「三国志最強」の武将であり、神の領域に近づいた武将と言っていいのかもしれません。

(注)神になった関羽……儒教・道教・仏教と、中国の代表的な教えにおいて、関羽は神として位置づけられている。関羽をまつる宗教施設を関帝廟(かんていびょう)といい、横浜の中華街などでも見ることができる。





この記事の三国志ライター

関連するキーワード


張遼 李典 楽進

関連する投稿


魏軍武勇筆頭! 義にも厚かった猛将・張遼

曹操配下の将軍の中でもトップクラスの評価を受けるのが張遼だ。幾度か主君を変えた後に曹操に巡り合い、武名を大いに轟かせる。最後まで前線に立ち続けた武人の生涯をたどる。


「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(1) 呂布にふり回された若き日

「泣く子もだまる」という言葉、読者の皆さんも耳にしたことがあるでしょう。「だだをこねて泣いている子供も、恐怖のあまり泣き止んでしまうほど、恐ろしい存在」という意味だそうです。この言葉は、三国志の武将が語源になっているといいます。その武将は、魏の名将である張遼(ちょうりょう)。どんな男だったのでしょうか。


「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(2) 真の主人との出会い

後に魏の名将となる張遼は、若いころは安住の地を得ることができず、苦労もしました。なにしろ主人の董卓が、同僚の呂布に殺されてしまうのです。結局彼はそのまま呂布の配下となるのですが、そこからさらに運命は急展開していきます。


【三国志】英雄あだ名列伝~魏編その2~

三国志演義だけでなく、正史にもあだ名や異名を残している武将がいます。正史の三国志は、「史記」、「漢書」に続く正式な歴史書です。ほぼリアルタイムに書かれているので信憑性があります。


「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(3) 危機管理も完璧だった男

若き日の張遼は、丁原、董卓、呂布といった猛将たちに仕えました。しかしこれらの主人たちは皆、志半ばにして討たれてしまい、張遼はそのつど新たな主人に仕えなくてはならなかったのです。呂布が滅んだ後、張遼は曹操に仕えます。後に魏王朝の始祖となるこの男こそ、張遼にとって運命の主人だったのです。


最新の投稿


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


パリピ孔明 第10話 関羽の千里行

ついに大型音楽フェス・サマーソニア当日を迎えた最終話。 英子は、BBラウンジから会場に向かうが、交通トラブルで会場への道が塞がれ、英子はステージにたどり着けなくなってしまう。これらは前園ケイジによる数々の妨害だった。 その頃、ステージではケイジのライブが始まろうとしていた。


パリピ孔明 第9話 東南の風 イースト・サウス

BBラウンジのオーナー・小林に恨みを持つケイジは、英子を大手レーベルに移籍させようと画策している。 孔明と英子は、ケイジの妨害を阻止するため、彼と対決することに。 勝負の鍵を握るのは、活動休止したロックバンド、イースト・サウスだった。


パリピ孔明 第8話 五丈原の戦い

英子の原点と、小林の過去が明かになる。英子は、幼い頃から歌が好きだったが、母親に反対され、歌うことを諦めかけたことがあった。 小林は、かつてバンドを組んでおり、ギターを弾いていたが、ある事件をきっかけに、ギターから足を洗っていた。 英子の歌声に心を動かされ、再びギターを手に取ることに。