あと少しで、孫権をつかまえられたのに……
■ あと少しで、孫権をつかまえられたのに……
あと少しで、孫権をつかまえられたのに……
退却する孫権軍を散々に打ちのめし、張遼は大戦果をあげることができました。
しかしこの追撃戦のあいだ、孫権軍が混乱するあまり、その隊列は乱れに乱れていました。そのため、張遼も誰が誰だかよく分からなかったのです。
その後、彼は降伏した敵の兵士に、孫権の容姿についてたずねました。降兵は孫権の特徴をこう話したといいます。
「赤ヒゲで背が高く、短足で馬をたくみに操り、騎射の上手い将」
張遼はハッとしました。その特徴を備えた武将に、たしかに見覚えがあったのです。騎射が巧みなところも記憶にありました。
張遼はともに追撃戦を戦った楽進に、こう語ったといいます。
「あの男が孫権だと分かっていれば、追いかけて捕らえることができただろうに」
そう。追撃戦で張遼は敵を圧倒していたので、もし相手が孫権だと分かっていれば、討ち取ることも捕らえることも可能だったのです。孫権は命拾いしたわけですが、張遼にとっては大魚を逸したというところでしょう。
しかし、このエピソードでなんともあわれなのは孫権でしょう。1800年以上の時を経てもなお、彼は「短足」として語られてしまうことになったのですから。
曹操は、なぜ楽進に城を守らせたのか?
■ 曹操は、なぜ楽進に城を守らせたのか?
曹操は、なぜ楽進に城を守らせたのか?
さて、ここで読者の皆様に、孫権が攻め寄せてきた時のことを思い出していただきたいのです。
このとき張遼ら合肥の守将たちは、曹操が残した指示書をはじめて開きます。そこにはこう書かれていました。
「もし孫権が攻めてきたならば、張遼・李典は出撃して戦え。
楽進は城の守りを担当し、外に出て戦ってはならない」
この指示に込められた曹操の意図を、張遼は正しく読み取り、決死隊での奇襲攻撃で孫権軍に先制パンチを浴びせました。
しかし、ここで引っかかるのは、指示書に書かれた役割分担です。曹操は張遼・李典に出撃を命じ、楽進には城を守るように言いつけています。
ですが、よく考えてみてください。楽進・李典の経歴については先に触れましたが、それぞれ大まかに言えば「勇猛果敢に戦う楽進」「冷静かつ慎重な李典」といったキャラクターなわけです。
とくれば、張遼とともに奇襲作戦に出撃するのは、李典よりも楽進がふさわしいようにも思えます。
(また李典の方も、多くの合戦で地味な仕事を堅実にこなしてきているので、城の守備にも適した人材と言えます)
【仮説】攻撃型の張遼に、ブレーキ役の李典をつけたのでは
■ 【仮説】攻撃型の張遼に、ブレーキ役の李典をつけたのでは
【仮説】攻撃型の張遼に、ブレーキ役の李典をつけたのでは
超・攻撃型の武将である楽進がいるのに、どうして彼に城を守らせたのか?
楽進ほどには華々しい戦功のない李典を、なぜ攻撃役に命じたのか?
史書に記述があるわけではないので、曹操のたしかな意図は分かりません。
しかし、あえてその意図について考えると、以下のような推理ができます。
・楽進は攻撃性が強すぎる武将なので、返って危険だと感じた
・冷静かつ慎重な李典に、張遼に対するブレーキ役を期待した
張遼が編成した決死隊は、わずか800人でした。この人数で10万の敵を攻撃するのですから、攻撃に勢いがつきすぎても、また問題になります。敵の陣に深入りしてしまうと、大軍に取り囲まれ、城に戻れずに全滅してしまう恐れすらあるのです。
よって曹操は、張遼・楽進という攻撃性の強い武将同士を組ませるのは、あまり良くないと考えたのだと思います。
それよりむしろ、攻撃力の高い張遼に、ブレーキ役として李典をつけておくのがベターだと考えたのではないでしょうか。この組み合わせなら、万が一張遼が敵陣に深入りしそうになったとき、李典がブレーキをかけ、大軍に飲み込まれるのを避けることもできるはずです。
もちろん、ここに書いたことは史書の記述の裏づけなどはなく、筆者の推論にすぎません。
ただ、人使いに長けた曹操のことですから、3人の将軍のタイプや適性をよく見た上で、それぞれに役割を与えたはずだと思うのです。
この人、どうしてこんなに強いの?
■ この人、どうしてこんなに強いの?
この人、どうしてこんなに強いの?
さて、ここまで張遼の合肥での戦いを見てくると、多くの人が感じるのではないでしょうか。
「この人、どうしてこんなに強いの?」……と。
強さの背景として考えられるのは、まず彼の出身地です。
張遼は并州(へいしゅう)で生まれ育ちました。
并州は、現代の山西省や内モンゴル自治区の一部をふくむ地域であり、当時の中国(漢民族の世界)と、北方の異民族との境界線に位置していました。よって并州の男たちは、若い頃から騎馬民族流の戦法を身につけることができ、馬や弓を用いた戦いを得意としたのです。
事実、并州は強い武将の「名産地」として定評があり、三国志最強の武将とも言われる呂布を輩出しています(張遼もかつてはこの呂布に仕えていました)。他にも、呂布とともに董卓を謀殺(ぼうさつ)した王允(おういん/注)や、対蜀戦線で活躍した魏の名将・郭淮(かくわい/注)など、武勇に優れた人物を輩出しているのです。
(注)王允(おういん)……董卓政権の時代に政務を委ねられたが、後に呂布と共謀し、董卓を謀殺した。一時的に政権を握るが、まもなく董卓の残党に討たれた。高位の政治家としてのイメージが強いが、黄巾の乱の鎮圧で功績をあげるなど、武勇にもすぐれた人物だった。
(注)郭淮(かくわい)……魏の武将。主に対蜀戦線で活躍し、諸葛亮や姜維(きょうい)らの攻撃をたびたび防いだ。
呂布にも関羽にも負けない「張遼伝説」
■ 呂布にも関羽にも負けない「張遼伝説」
呂布にも関羽にも負けない「張遼伝説」
とはいえ、張遼の強さは正直いって、人間ばなれしています。
三国志で最も強い武将とされているのは、呂布あるいは関羽といったところでしょう。呂布は三国志最強の武将とされ、後世様々な物語の題材となっています。関羽にいたっては、後に神としてあがめられた(注)ほどの武将です。
「最強の呂布」であれ「神になった関羽」であれ、強いのは誰もが認めるところです。
しかし彼らには、張遼ほどのすさまじい「伝説」はあるでしょうか……?
なにしろ張遼は「たった800人の部隊を率いて、10万の孫権軍を圧倒した」男なのです。長い歴史において、ここまでとんでもない戦いをやってのけた武将は、他にいないですよね。あるいは張遼こそが「三国志最強」の武将であり、神の領域に近づいた武将と言っていいのかもしれません。
(注)神になった関羽……儒教・道教・仏教と、中国の代表的な教えにおいて、関羽は神として位置づけられている。関羽をまつる宗教施設を関帝廟(かんていびょう)といい、横浜の中華街などでも見ることができる。