三国志・曹操軍の十面埋伏の計は、どれほどの威力だったのか

三国志・曹操軍の十面埋伏の計は、どれほどの威力だったのか

三国志演義に登場する最強の戦術「十面埋伏の計」とは、いったいどれほどの威力を持っているのでしょうか?「倉亭の戦い」を振り返って検証してみましょう。


官渡の戦い

200年、河北の覇者である袁紹は曹操との天下分け目の戦いを始めます。黄河を南下し、白馬を攻め、さらに曹操の領土へ侵攻し官渡を攻めます。
兵力で劣る曹操は、さらに兵糧不足の問題も抱えていましたが、荀彧に励まされ、ギリギリの中を戦い抜き、袁紹軍の兵糧基地がある烏巣の奇襲に成功して大勝利を収めます。

しかし、袁紹は依然として幽州・冀州・幷州・青州の四州を領有しており、兵力では曹操を圧倒していました。状況的にはまだまだ袁紹側が有利だったのです。
そこで袁紹VS曹操のリベンジマッチが行われることになりますが、状況は前回の官渡の戦いとはやや異なります。前回は袁紹が曹操の領土に攻め込んだのに対し、今回は曹操が袁紹の領土に攻め込んだのです。

倉亭の戦い

201年、袁紹は四州から集めた兵力で曹操を迎え撃つ準備を進めます。激戦となる地は、黄河のほとりにある倉亭でした。
「三国志正史」にはこの戦いに関する記録はほとんどありません。
「建安六年四月、兵を河の上に揚げ、紹の倉亭の軍を撃ち、これを破る」のみの記載です。

「三国志演義」では、かなり詳細にこの戦いが綴られています。
袁紹の兵力は20万~30万、対する曹操は2万~3万ほどだったようです。さすがにこの兵力差で曹操側が侵攻するというのは考えられないので、実際の兵力差はもっと僅差だったのではないでしょうか。それでも袁紹軍の方が兵力で勝っていたはずです。
緒戦では、袁紹の息子で、最も期待をかけられていた袁尚が曹操軍の将を一騎打ちで破るなどの場面が脚色されており、その勢いもあってか曹操軍は押され始めます。
この不利な状況で曹操が採用した策が「十面埋伏の計」です。

十面埋伏の計のルーツ

十面埋伏の計は、それ以前にも登場しており、それが楚の項羽を韓信が破る垓下の戦いです。三国志よりもはるか昔の話になります。
この際は漢の劉邦側は兵力で項羽を圧倒しており、韓信は優位な戦いを進められるはずでしたが、項羽の反撃が激しく、韓信は一時後退します。
その後、韓信は十面埋伏の計で項羽を垓下に追い詰め、項羽は有名な「四面楚歌」の状況となります。

三国志演義はこのエピソードを用いたようです。さらに、韓信が起死回生の逆転技として使ったことで有名な「背水の陣」も上手く盛り込んでいます。
曹操に十面埋伏の計を提案したのは、参謀の程昱でした。荀攸の勧めもあったようです。曹操は黄河の岸まで引き、10の伏兵部隊を編成して伏せさせます。
そして旗本を率いる許褚に夜襲を仕掛けさせ、敗れたとみせかけて袁紹軍を誘導したのです。黄河を背にして追撃を迎え撃つのは、曹操自らが率いる本陣でした。まさに背水の陣です。

十面埋伏の構成

黄河の岸に曹操本陣を発見し、追い詰めたことで袁紹の陣営はおおいに喜んだことでしょう。袁紹は五軍の兵力を率いて、曹操に殺到します。その中には袁紹の姿もありました。
官渡の戦いに敗れた借りをついに返す時が訪れたのです。袁紹の頭の中には、憎い曹操の首を討てるという確信があったに違いありません。
しかし、この時、曹操の本陣には勇将たちの姿がありませんでした。ことごとくが伏兵として潜んでいたからです。
もしここで曹操が討たれていたら十面埋伏の計は失敗に終わります。曹操が背水の陣を布いたことで、本陣の兵たちは決死の覚悟で戦いました。猛将・許褚も本気を出して曹操を守ったに違いありません。

この激戦の最中にじっと伏せて我慢していた十将の構成は、黄河に近い方から順に右に「高覧」、「于禁」、「徐晃」、「張郃」、「曹洪」、左に「夏侯淵」、「楽進」、「李典」、「張遼」、「夏候惇」という配置になっていました。
ちなみに高覧と張郃は、もとは袁紹の家臣で、前年の官渡の戦いで曹操に帰順したばかりの新参です。再度、袁紹に寝返る危険性もあったでしょうが、曹操は二人を信じて伏兵に組み込みました。

袁紹軍の敗北

曹操は大声を出して自軍の兵を励まし、兵たちも必死になって戦ったため、袁紹軍はその勢いに押されます。さらに十面埋伏の計が発動。側面から奇襲を受け、袁紹軍はたまらず後退しますが、ここから地獄のような伏兵の波状攻撃が袁紹軍を襲いました。
伏兵の攻撃からやっとの思いで逃れるものの、次の伏兵が襲ってきます。そこから逃れてもまた伏兵。これが繰り返されるのです。袁紹軍は大混乱です。

十面埋伏の計は見事にはまり、袁紹軍は壊滅的なダメージを受けます。袁紹は首を討たれることすらなかったものの、兵は1万まで減っており、息子の袁熙や甥の高幹は重傷を負っていました。
連敗による精神的なダメージもあったのか、袁紹はこの後に病没しました。そして息子たちによる覇権争いが始まり、河北を制した袁氏は衰退し、曹操に滅ぼされることになるのです。
倉亭の戦いの勝利は、まさに曹操の河北制圧を決定づけるような大勝でした。

日本での十面埋伏の計

日本でも同じように十面埋伏の計で敵を圧倒したという話があります。
1561年の織田信長による美濃の稲葉山城攻めに対し、城主・斎藤龍興に仕える竹中半兵衛が十面埋伏の計を用いて撃破しています。織田信長は退却すらできない状態まで追い詰められますが、別の場所で火の手があがり、斎藤軍が城下を守るために退却したために、命拾いをしています。

成功すると恐ろしいほどの威力を発揮するのが十面埋伏の計だったようです。知らずにこの罠に飛び込むと、逃げ回るのも一苦労な状態に陥り、壊滅的な損害を被ることになります。

まとめ・そう簡単には実行できない作戦では

ということで無敵の計略ともいえる十面埋伏の計ですが、あまり実行された話を聞きません。三国志演義はオリジナルの脚色でしょう。
十面埋伏の計の難しさには、仮定している逃走ルートを相手が辿らないと効果が半減してしまうことや、密な連携が味方同士でとれていないと、同士討ちの危険性もあること、伏兵の数が多く、事前に察知されてしまうことなどがあげられるでしょう。
威力は十分ながら、成功させるのも至難の業だと考えられます。察知されると個別に撃破するチャンスを相手に与えてしまうことにもなりかねません。

ややハイリスク・ハイリターンの戦術ではないでしょうか。もしかしたら成功を夢見て実行し、失敗して逆に大敗したケースも多かったかもしれません。
十面埋伏の計は、韓信や曹操、竹中半兵衛といった兵法に精通している名将だったからこそ、見事に成功させることのできたハイ難度作戦だったといえます。

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