三国志武将の中で総合力ナンバー1は俺だ

三国志武将の中で総合力ナンバー1は俺だ

三国志で最強の武将と言ったら呂布、最高の軍師と言ったら諸葛亮とあげる人は多いのではないでしょうか。しかし彼らは武なら武、文なら文という感じで呂布(奉先)は忠誠心や人望に欠け、諸葛(孔明)は、武はからっきしでした。ここでは総合力で一番優れた人物は誰かと言うところに注目していきたいと思います。


曹操にとってなくてはならない特攻隊長 楽進

曹操(孟徳)の周りには許褚(仲康)や李典と言った優れたボディーガードがいました。そのため、楽進(文謙)そこまで目立つ存在というわけでは無かったと言えます。

しかし楽進は常に相手に突っ込んでいく精神を持っていたので曹操軍団の切り込み隊長として全軍の士気を上げる事が出来たというのは間違いないでしょう。矢が飛び交う中迷わず飛び込む武将がいてくれたら「俺も、俺も!」と続くので、楽進の存在は曹操(孟徳)にとって貴重な存在と言えました。

楽進はそれだけの忠誠心があった上、戦闘力、知力、統率力はかなり高かったので野球で言うと走攻守揃った一番バッターと言えたでしょう。そして周りとの連携もよく取れていて人望もあったので最終的に右将軍にまで昇進したのです。
家柄もよくなく小柄でしたが楽進には根性があったのだと思います。

曹操の従兄弟の中で最もバランスのとれた 曹仁

曹操の従兄弟と言ったら夏侯惇(元譲)や夏侯淵(妙才)と言った武力に優れた派手な人物らが真っ先に名を上げられることでしょう。そして曹仁(子考)は曹家であるため曹操(孟徳)の兄弟や子供と勘違いされることもありますが、実は夏侯惇(元譲)達同様曹操(孟徳)の従弟(いとこ)です。

曹仁は気性は荒く大人達からは嫌われていました。そのため家督は曹仁ではなく弟の曹純が継いだ訳ですが、その反面曹操(孟徳)とはウマが合いました。腕っ節も強く弓術、馬術に優れていたため狩猟の腕前はプロ級と言われていたほどです。

上のものからはあまり理解されなかった曹仁(子考)ですが、忠誠心はもちろんのこと下からの人望もありました。さらに知力も夏侯惇(元譲)らよりあったとされているためバランスのとれた武将と言えるでしょう。

派手な従兄弟に囲まれた曹操(孟徳)ですが、その中でも曹仁(子考)は唯一無二の存在といっても過言ではありません。なぜなら、息子の曹丕や曹植に対して「お前達も曹仁(子考)のようになれ」と言わしめたくらいで、そこからも曹仁の総合力の高さが伺えるのではないでしょうか。

魏国最大のピンチを救った男張遼(文遠)

三国志で最強な武将は?という問いに、真っ先に挙げられるのは呂布ではないでしょうか。そして10番以内に声があげられそうなのが張遼(文遠)(もしかしたら5番以内に彼の名前を挙げる人もいるかもしれません)です。しかしこの張遼(文遠)は戦闘力が高いだけではなく、統率力、忠誠心も相当なものでした。
合肥の戦いで孫権軍に攻め込まれた曹操軍は敗色濃厚でした。しかし張遼(文遠)が先頭になり魏を守りきりました。難攻不落の張遼(文遠)に対して攻めていた孫権軍が恐れ慄いたくらいです。その後、呉の民にとって張遼(文遠)に恐怖を感じたため悪さをする子供に対して「遼来遼来」(日本でいうなまはげが来たぞと言う感じでしょう)と言われるほどでした。
そんな張遼(文遠)ですが何も戦闘力が高かっただけという訳ではありません。君主が何度か変わったにも関わらず曹操(孟徳)への忠誠心は高く、さらにそれ以上に人望があったので彼の軍は他の軍以上に連携が高く一枚岩となっていました。

小覇王の異名は伊達ではない。孫策(伯符)の存在感は別格

親譲りの戦闘能力に加えそれ以上の人望を兼ねそろえた孫策(伯符)は小覇王という異名が付けられたほどの逸材でした。さらに知力、統率力に優れ孫堅(文台)が「コイツがいれば俺がいつ死んでも孫家は安泰だ」と言わせるほどでした。(そんなことを口にしてしまうから孫堅(文台)がすぐに亡くなってしまったというのは笑えない冗談になってしまいましたが)
驚きは総大将という立場にもかかわらず、「三国志で最強の一人」と謳われる武将、太史慈(子義)と一騎打ちしてしまうのです。勝った時のメリットは確かにありますが、それ以上に負けた時のデメリットが多いこの戦いをしてしまう度胸も見事です。戦闘力の自信の表れとも取れますが、それ以上に彼の場合「財力の乏しい自分が力を誇示すれば周りがついてくる」という頭もあったに違いありません。
結局その戦いでは決着がつきませんでしたが、その後太史慈(子義)は彼の男気に惚れ配下となり、呉になくてはならない武将となりました。まさに圧巻としか言いようのない孫策(伯符)はオールマイティーな将軍と言えたでしょう。

周瑜の才能は諸葛亮孔明をも凌駕する?

諸葛(孔明)の最大のライバルとして多々挙げられる周瑜(公瑾)ですが、諸葛(孔明)と違い戦闘力の高さにも定評がありました。そういった意味では総合力では諸葛(孔明)をはるかに上回っていたと言えるでしょう。
さらに酒を飲んでいても演奏の間違いに気づくほど音楽の才能にもあふれていました。容姿端麗で家柄もよく、幼馴染の孫策(伯符)その弟である孫権(仲謀)にとってなくてはならない存在だったのは言うまでもありません。
もしかしたら周瑜(公瑾)は自分のライバルを周瑜(公瑾)ではなく孫策(伯符)という天才と見ていたかもしれません。そうして二人が切磋琢磨し合い、お互いがお互いを高めていったのかもしれません。

蜀の武将としては異質な総合力の持ち主趙雲(子龍)

劉備(玄徳)、関羽(雲長)、張飛(翼徳)、諸葛(孔明)と言ったまさに一点突破的な能力の持ち主が多い蜀にして唯一高い総合力を兼ねそろえていたのが趙雲(子龍)と言えるでしょう。
戦闘力の高さはもちろんのこと、忠誠心が高く、統率力、人望、知力にも富んでいました。
軍の司令官である諸葛(孔明)にとっては古参の関羽(雲長)、張飛(翼徳)に対してより趙雲(子龍)に対して指示を出しやすかったのでさらにありがたい存在だったことでしょう。
『三国志』の「趙雲伝」では簡潔にしか書かれていませんが他の正史には彼の記述は多く、そこからも彼の活躍は後世に残したい!という意志が伝わってきます。
趙雲(子龍)が一番好きという三国志ファンは少なくなく、彼の功績は多大な物だったと言えるでしょう。

まとめ

総合力の高い武将を挙げましたがいかがでしたか?趙雲(子龍)は知力も優れていたのか?とか、周瑜(公瑾)の戦闘力は実は高かったのかということが分かってもらえれば幸いです。
現代でも同じように文武両道の人より文が飛び切り優れている、逆に武において一番である、という人の方がインパクトは強いです。しかし、秀才の人が「実はあの人はスポーツもできるんだよ」とか、トップアスリートが「あの人は博士号も持っている」となったらやはり見方は変わりますよね。
三国時代でもすべてを兼ねそろえていた武将に対し意を払いたいと思い特に総合力の高いと思った武将を挙げさせてもらいました。

関連する投稿


赤壁の戦いの真実

赤壁の戦いの真実

三国志の中で最大の合戦と言われる「赤壁の戦い」。演義では諸葛亮の圧倒的な才覚の前に周瑜や魯粛もタジタジで曹操がコテンパンにやられます。ですが、東南の風を人為的に起こしたり関羽が曹操を見逃すのを見越したりと流石に現実的にはちょっと・・・というシーンも多々あります。正史の赤壁の戦いは一体どうだったのでしょうか?


劉備に仕えた龐統(士元) 惜しまれた大賢人の短い生涯

劉備に仕えた龐統(士元) 惜しまれた大賢人の短い生涯

諸葛亮(孔明)と同等かそれ以上の才能を持つとも言われた龐統(士元)。赤壁の戦いの頃から三国志に登場しますが、その才能を十分に発揮することなくこの世を去ってしまいます。短くも深く色濃い生涯となる「龐統(士元)の三国志」を見て行きます。


イケメン!?ブサイク!?な武将たち

イケメン!?ブサイク!?な武将たち

いつの時代にもイケメンがいればブサイクもいます。三国志演義では孫策・周瑜・趙雲・呂布・馬超辺りがイケメンな描写をされています。一方、身なりが冴えなかった(ブサイク)として書かれる武将もいます。彼らは本当にイケメン、あるいはブサイクだったのでしょうか?


史上最高の軍略家! 魏と蜀を蹴散らした天下の豪傑【呂蒙】③

史上最高の軍略家! 魏と蜀を蹴散らした天下の豪傑【呂蒙】③

呂蒙は周瑜亡き後、重鎮として成り上がっていきます。そんな中、孫権と劉備(玄徳)が再度手を組んで曹操と対決するようになっていきます。呂蒙は合肥や濡須口での戦いで曹操軍と死闘を演じていきます。呂蒙の魏との決戦や呉でも評価を得ていた人柄をみていきましょう。


史上最高の軍略家! 魏と蜀を蹴散らした天下の豪傑【呂蒙】①

史上最高の軍略家! 魏と蜀を蹴散らした天下の豪傑【呂蒙】①

三国志の中でも魏と蜀という強敵相手に対等に戦った武将というのは数少ないものです。その中でも呂蒙は孫策や孫権、周瑜のもとで功績を挙げていき、ついには大都督にまで登りつめました。そんな呂蒙の軌跡をみていきましょう。


最新の投稿


西涼の強兵 蜀漢を支えた馬一族の台頭

西涼の強兵 蜀漢を支えた馬一族の台頭

劉、曹、孫一族など皇帝を輩出した一族を筆頭として、三国志ではいくつかの一族が台頭します。曹操(孟徳)によって滅ぼされた袁一族、三国志の最終的な勝者となった司馬一族、そして、西涼から立ち上がり一時は長安を占領した馬一族もそのひとつです。三国志後半の蜀漢において重要な役割を果たす馬一族の活躍ぶりを見て行きます。


赤壁の戦いの真実

赤壁の戦いの真実

三国志の中で最大の合戦と言われる「赤壁の戦い」。演義では諸葛亮の圧倒的な才覚の前に周瑜や魯粛もタジタジで曹操がコテンパンにやられます。ですが、東南の風を人為的に起こしたり関羽が曹操を見逃すのを見越したりと流石に現実的にはちょっと・・・というシーンも多々あります。正史の赤壁の戦いは一体どうだったのでしょうか?


三国志・諸葛亮孔明と記すことは間違いなのか?

三国志・諸葛亮孔明と記すことは間違いなのか?

三国志の登場人物たちの名前は「姓」「諱」「字」に分けられますが、「姓+諱+字」で表記することは間違っているのでしょうか?


劉備(玄徳)の死後も続いた諸葛亮(孔明)との微妙な関係

劉備(玄徳)の死後も続いた諸葛亮(孔明)との微妙な関係

劉備(玄徳)と諸葛亮(孔明)は「水魚の交わり」と言われるほど密接な関係だったようです。これには義兄弟の関羽(雲長)と張飛(益徳)もヤキモチを焼いたのだとか。しかし、史実では密接な関係であると同時に微妙な関係にあったことも読み取ることができます。


劉備に仕えた龐統(士元) 惜しまれた大賢人の短い生涯

劉備に仕えた龐統(士元) 惜しまれた大賢人の短い生涯

諸葛亮(孔明)と同等かそれ以上の才能を持つとも言われた龐統(士元)。赤壁の戦いの頃から三国志に登場しますが、その才能を十分に発揮することなくこの世を去ってしまいます。短くも深く色濃い生涯となる「龐統(士元)の三国志」を見て行きます。


https://sangokushirs.com/articles/196