魏の一番槍といえばこの男【楽進】

魏の一番槍といえばこの男【楽進】

三国志で国力・人材ともに最大規模といえば、曹操(孟徳)が築き上げた魏です。魏には有能な武将たちが勢ぞろいし、諸葛亮(孔明)や関羽、張飛、周瑜(公瑾)、呂蒙、陸遜ら傑出した人材を従えていた劉備(玄徳)や孫権たちでも恐れていたほどでした。その中でも魏の有名武将に引けをとらない活躍を見せた楽進を紹介していきます。


武将として曹操(孟徳)に仕える

守りの名将とうたわれ、魏の将軍として後に活躍している楽進ですが、曹操(孟徳)に採用された当初は文官として起用されていました。楽進が一時故郷に帰ると、1000名ほどの兵を集めました。いざ帰参した楽進を見て、曹操(孟徳)は武将として取り立てていきます。

中原で戦況が激化していた190年代後半、楽進は呂布や劉備(玄徳)らとの戦いに参戦し、一番乗りで激戦を突破していきます。楽進は小柄な体格なので、諸将からは見劣りされますが、いざ戦場へと赴くと、その激しい気性のまま人格が変わるほど凄まじい突撃を見せていました。

袁紹との戦いで大活躍

官渡の戦いが始まると、荀攸の策略のもと、楽進は于禁と共に5000の兵を率いています。楽進は袁紹本隊と離れた軍の陣を急襲し、30陣ほど焼き払って数千の兵を討ち取る活躍を見せています。この中には将軍クラスの幹部を20名ほど降伏させており、序盤戦の功労者となりました。

国力に勝る袁紹軍は徐々に盛り返していき、次第に降着状態が続くようになりました。そうこうするうちに、曹操(孟徳)は袁紹軍から投降してきた許攸によって、烏巣にある兵糧庫の情報を手に入れます。

曹操(孟徳)陣営の軍師たちはこの情報を取り入れ、兵糧輸送隊を急襲することを進言し、曹操(孟徳)は楽進を連れて進軍していきます。楽進は守備隊を仕切っていた淳于瓊を斬り、兵糧輸送隊の陣を焼き払います。楽進は救援に来た袁紹軍も蹴散らし、曹操(孟徳)軍において著しく戦功を挙げていきました。

袁氏を追い詰めていく楽進

官渡の戦いで敗北した袁紹は、失意の内に病死し、跡を継いだ袁譚・袁尚兄弟らが後継者争いを見せる中、楽進は袁氏との決戦に従軍しています。楽進は袁氏第一の将軍を打ち破る活躍を見せて将軍に駆け上ります。

楽進は後に魏軍の主力となる張遼や張コウ、于禁、李典らとともに、袁氏を攻めたて、一番槍を打ち立てていきます。

楽進は別働隊を率いることが多く、奇襲などで先鋒を務めて一番乗りになることが多い武将でした。これは激しい気性をよく知る曹操(孟徳)や荀攸、郭嘉ら幕臣たちによって策略が練られ、その期待に十分に応える形となっていました。

楽進は于禁・張遼・張コウ・徐晃という将軍たちと常に競い合い、先鋒だけでなく殿も任されるようになっていきます。

関羽や孫権軍を撃破する

曹操(孟徳)は赤壁の戦いで敗れた後、激戦区となる荊州の襄陽に楽進を配備しています。荊州は混戦となり、関羽や周瑜らが狙っていました。楽進は関羽の軍を退ける活躍を見せており、周辺の異民族を従える活躍を見せつけています。楽進が荊州に赴任していた当時は、劉備(玄徳)、孫権らも進出することができませんでした。

曹操(孟徳)が孫権征伐に動くと楽進は荊州から参戦しています。その後、合肥城に孫権の抑えとして張遼や李典らとともに城の守備を任されています。この3将軍は名将といわれていましたが、それぞれが仲たがいをしており、統制がとれていない状況でした。

合肥の戦いで大貢献

曹操(孟徳)は漢中へと軍を動かすと、好機と見た孫権は10万の軍を率いて北上し、合肥城を包囲します。合肥にはわずか7000人の兵しかおらず、落城は時間の問題と見られていました。

曹操(孟徳)は自身が留守の内に孫権が攻めてくることを想定し、あらかじめ手紙を残していました。そこには仲が悪い諸将の力を終結させるための指示が書かれており、楽進は合肥の守備を任されています。

張遼と李典が出撃すると、猛攻撃を繰り広げ、数に勝る孫権軍は死にたくないという思いから包囲網が弱まっていきます。特に張遼は凄まじく、突撃を繰り返して孫権の本陣まで攻め込みました。孫権はからくも逃げ出しますが、陣形は総崩れとなり、張遼を討ち取ろうとする意欲が失われていきます。

孫権は陣を整えて再度合肥城を攻めますが、ついに陥落させることが叶わず、退却の指示を出します。孫権が後方で指示を取っており、護衛の将軍が少ないのを見ると、楽進は張遼とともに急襲していきます。

楽進は孫権の精鋭たちを打ち破り、凌統ら側近たちの必死の抵抗によって、孫権を取り逃がしてしまいます。張遼や楽進は、取り逃がした人物が孫権であることを知り、後悔していたといいます。

しかし、孫権軍10万を退けた戦果は曹操(孟徳)によって多大に評価されることになりました。張遼が一番評価されたのがこの戦いですが、楽進が後に守りの名将とうたわれたのも、この合肥の戦いで突撃部隊を欠いた状態でよく城を守り抜いたことが挙げられています。

名将として名を残す

楽進はこれまでの功績によって、第一子が爵位を得ることを許され、自身も右将軍に昇進しています。前後左右の各将軍は一番評価されていることになりますが、曹操(孟徳)の縁者で筆頭将軍だった夏候惇は「不臣の礼」となっており、後漢の将軍として君臨していました。これにより、楽進は右将軍として左将軍の于禁と並んで、魏の筆頭将軍として存在していたことがうかがえます。

楽進は218年に死去していますが、魏にとって多大な貢献を果たしたことから、後の曹芳によって曹操(孟徳)の廟庭に祭られる功臣20人に入りました。

ゲームなどの楽進

楽進は張遼、徐晃、張コウ、于禁とともに、魏の5代将軍として有名です。三国志に関するゲームなどでは、曹操(孟徳)に早くから仕えており、能力も平均的に高めの猛将として存在しています。一般的には張遼や張コウ、徐晃の3将に加え、夏候惇や夏侯淵、許チョなどよりも武力や統率力が低く設定されているので、やや地味な武将のイメージを受けますが、正史では魏の中で一番といっていいほどの評価をされています。

三国志演義での楽進

小説の三国志演義では、劉備(玄徳)を主人公としている影響もあり、あまり活躍が描かれていません。弓の名手として描かれている部分もありますが、関羽を退けた活躍は除外され、孫権との戦いでは凌統と一騎討ちをして互角に戦うも、甘寧の弓によって撃退されています。

まとめ

楽進は曹操(孟徳)の台頭から活躍しており、常に従軍していました。張遼や張コウ、徐晃が敵対していたときから従軍していたので、曹操(孟徳)の信頼はかなり厚いものだったといえるでしょう。抜擢した曹操(孟徳)もさすがの先見の明を持っていますが、その期待に十二分に応えるところが楽進の名将ぶりを表しています。

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