関羽(雲長)
■ 関羽(雲長)
関羽(雲長)
今でこそ神様にまでなった関羽ですが、出生は実にはっきりしません。出身地から、劉備(玄徳)挙兵の地である幽州に逃げてきたと言われています。諸説の中では、塩の密売人であったとか、暴利を貪る塩商人を殺して逃げてきたなどというのもあります。なんにしろ、広言できるような立場ではなかったようです。
関羽の細かい活躍を全て記載していたら膨大な量になってしまいますので、立身出世についてのみ簡潔に書いていきます。劉備(玄徳)は曹操を裏切って、車冑を斬って、徐州を占領して反乱を起こします。その際、自身は小沛の城に行き、関羽を州都である下邳に置きます。関羽はここで太守代行をします。
曹操が攻めてきて、劉備(玄徳)が敗れると、関羽は曹操の捕虜になります。曹操は関羽を厚遇し、偏将軍にします。そして、袁紹軍との戦に張遼と共に出陣すると、敵将の顔良を打ち取ります。この功績によって、「漢寿亭侯」に任じられます。この辺りは演義でも盛り上がるところですね。
関羽が劉備(玄徳)の元に戻った後、劉備(玄徳)が孫権と同盟を結び、赤壁の戦いで曹操が北方へ退却すると南郡をめぐって曹操と劉備(玄徳)が争います。その結果、劉備(玄徳)が荊州南部を占領することになります。関羽はこの時の功績で襄陽太守になります。そして、劉備(玄徳)が益州に入ると、関羽は諸葛亮と共に荊州の守備を任されます。その後、劉璋と劉備(玄徳)が戦争になると、諸葛亮が張飛・趙雲を率いて益州に向かったので、関羽が留守を守り、曹操・孫権に対してにらみを利かすようになります。劉備(玄徳)が益州を平定すると、関羽の功績を讃えて、荊州の軍事総督に任じます。この当時の劉備(玄徳)の領土は荊州の南半分(北半分は曹操が占領)と漢中を除いた益州の大部分なので、劉備(玄徳)の領土のほぼ半分を任されていたことになります。劉備(玄徳)が漢中王となると前将軍に任じられます。
この後は、演義と同様です。曹操軍と孫権軍の挟み撃ちにあい、敗れ、処刑されます。逃亡者の立場から州の軍事総督・将軍にまで出世しましたが、乱世に生きるものとしての定め、戦争に敗れて、死亡します。そして、その何百年後、三国志演義が民衆に広まると、関羽の義理堅さに感じ入った人たちが、商売の神様として祀るようになります。関羽こそ神様にまで上り詰めた、三国志最大の立身出世した人物です。
呂蒙(子明)
■ 呂蒙(子明)
呂蒙(子明)
呂蒙は貧しい家の生まれでした。ある日母親に叱られると、
「貧しさから抜け出すには危険を冒してでも功績を立てなければならない」
と反論しました。その後、呂蒙をバカにするものがあったので、斬り殺して指名手配されてしまいます。逮捕されますが、呂蒙の剛勇の噂を聞いた孫策が面会に来て、引き取ります。孫策は呂蒙の非凡さを見抜き、側近に取り立てます。張昭の推薦によって、将軍にまで出世します。
孫策が死亡すると孫権が後を継ぎます。その孫権が兵士を見て回ると、呂蒙の軍勢がよく統率されているのを見て、呂蒙の兵士を増やします。孫権が黄祖を打ち破った戦いでは、「呂蒙が敵の将軍を討ち取った」からだと褒美を授けられます。その後の赤壁の戦い、南郡争奪戦でも曹操軍を打ち破る手柄を立てます。
呂蒙は戦で手柄を立て続けると、孫権に将軍なんだから是非、書物を読んで教養を付けなさいと、諭されます。呂蒙は多忙の中、書物を読み漁り、学者にも匹敵するほどの学問を修めました。ある時、魯粛が呂蒙の陣を訪ねて、呂蒙と話をすると、豊富な知識に驚き、
「呉下の阿蒙にあらず(昔みたいな蒙ちゃんではなく立派になったな)」
と言うと、
「士、別れて三日、刮目して相対せよ(男子たるもの三日会わなければどのように成長しているかわからないので、注意深く見なくてはならない)」
と返されました。
呂蒙の最大の見せ場は関羽との荊州での戦いでしょう。演義でもクライマックスの一つ、そして、劉備(玄徳)や曹操などの英雄たちが次々と舞台から消えていく発端でもあります。孫権は元々、徐州や揚州北部を巡って曹操と争っていました。呂蒙は、大勢力である曹操といきなり争うのではなく、劉備(玄徳)から荊州を奪い、それを足がかりに曹操と対決しようと考えました。その後は演義とほぼ同じで
・陸遜とともに策を練り、兵を進め
・虞翻によって士仁・糜芳を降伏させ
・略奪を徹底的に禁じて荊州兵の戦意を奪い
関羽を麦城に追い詰めます。関羽が脱出しようとしたところを捉えて、処刑します。その直後に病死するところまで同じです。
裸一貫からのし上がった呂蒙、最後は同じようにのし上がった関羽を打ち破って名将の名を残します。
楽進(文謙)
■ 楽進(文謙)
楽進(文謙)
歴史的に見て漢王朝の正当な後継王朝である、曹操・曹丕の魏の国には名門の人物が多いです。曹一族・夏侯一族を初め、荀彧・司馬懿・鍾繇・孔融など有名人の子孫が非常に多いです。ですが、曹操の最大の長所は能力に優れた人物を次々と抜擢していったことです。魏の国にも裸一貫から出世していった人物はいくらでもいます。
楽進は漫画やゲームから三国志に入った人は、名前は知っているけど、あまりパッとしない武将という印象があるかと思います。ところが、正史においては魏の五虎大将軍とも言うべき「張楽于張徐伝」に列伝が記載されており、魏の最重要武将と言っても良い存在なのです。どのように彼は出世していったのでしょうか。
楽進はかなり古い時代から曹操に仕えていました。反董卓の挙兵が起こると曹操の元に馳せ参じています。初めは武将としてではなく、記録係としてでした。ある時、楽進に兵を集めさせたところ、1000人以上を集め、帰還したので、それ以降武将として起用されることになり、将軍となりました。
呂布・袁術・劉備(玄徳)・袁紹との戦いにおいていずれも手柄を立てて、出世していきます。曹操軍では張遼・于禁・張郃・徐晃、そして楽進が名将と呼ばれ、戦の度に、交互に先陣と殿を受け持つことになります。
曹操が荊州に進行すると、楽進もそれに従って、荊州に入ります。赤壁の戦い以降、曹操が撤退すると荊州州都である襄陽に駐屯します。その後、曹操と孫権の争いが起こると、楽進も付き従い、合肥に駐屯します。孫権が撤退すると、功績によって加増されます。また、右将軍に任じられます。曹操軍の将軍の内、夏侯惇は曹操配下でなく、漢の将軍という別格の立場を与えられていたため、左将軍の于禁と並んで臣下としては筆頭の地位に着いたことになります。記録係として始まった楽進の立身出世は魏の国最高の将軍にまで登りつめたのです。