関ヶ原の戦いでは豊臣軍の一部が裏切ったことにより徳川軍の勝利を決定づけたといっても過言ではありませんでした。裏切りというと卑怯というイメージが付き物かもしれませんが、三国志の時代にも数多くの裏切りが存在しました。ここではそんな三国志を多く揺るがすような裏切りについて紹介していきたいと思います。
三国志の序盤において、中原では曹操・袁術・呂布・劉備(玄徳)・劉表らによって勢力争いが行われていました。その一方で、黄河の北側・河北では、袁紹と公孫瓚が覇権を争っていました。袁紹VS公孫瓚、彼らの争いとはどういうものであったのでしょうか?
多くの人が三国志で一番強い武将に呂布(奉先)を挙げます。しかし彼はよく君主を裏切る人物だったので自分が君主だった場合彼に多くの年俸を払いたいと思いたくはないでしょう。ここでは独断と偏見で「自分が君主だったら誰にどれだけの年俸を払いたいか」という事を紹介したいと思います。プロ野球などの年俸を意識してもらえたら幸いです。
三国志演義、序盤から数々の見せ場があります。その中で印象深いものの一つが曹操による徐州での大虐殺でしょう。父親を殺された曹操が復讐のために徐州に攻め入り、劉備がわずかの援軍を率いてやってくる。二人の対称的な姿が映し出されます。その後、呂布や袁術が絡んできて、複雑な人間模様が描かれます。では、正史の徐州での攻防はどのようなものだったのでしょうか?
三国志・ビジネスマンは、孫策の江東制圧戦から学べることが多い
凄まじい勢いで、江東を制圧していった「孫策」。しかし、相手も備えは充分です。もちろんそんな簡単にはいきませんでした。奪った拠点を奪還されたりもしているのです。
一般的には「昨日の敵は今日の友」ですが、三国志では「昨日の友は今日の敵」という場面もよく出て来ます。呂布(奉先)や袁術(公路)を倒した頃、劉備(玄徳)と曹操(孟徳)は味方同士でしたが、赤壁の戦いにおいてはもはや「敵」。そして、赤壁の戦いに勝利した呉、劉備連合軍も南郡の攻防において徐々に亀裂が生じて来ます。
黄巾党の乱、董卓の暴政の頃の有力者といえば袁氏のツートップである袁紹と袁術でした。この二人とても仲が悪かったようです。身近な者ほど憎みやすくなるのでしょうか。また二人は一体どのようにして対立していったのでしょうか。
英雄であろうと覇者であろうと人間である以上、必ず死は訪れます。彼らは最期の瞬間に何を思ったのでしょうか?2000年前から伝わる英雄たちの最期の言葉を取り上げてみました。また、この遺言、演義と正史の差があまりありません。なので、「この言葉知っている」ということも多いと思います。
三国志・仲を建国した袁術の配下で最もマイナーな武将は誰なのか
三国志の群雄の中でも皇帝を僭称する暴挙に出た「袁術」は個性的といえるでしょう。配下の武将たちはあまり注目されていませんが、この中で最もマイナーな武将は誰なのでしょうか。
三国志において、孫呉三代といえば、孫堅・孫策・孫権を指しますが、強大な魏に対抗できる国としての基礎を作り上げたのが孫策(伯符)といわれています。少数勢力から独立して天下に名を轟かせた孫策は、どのようにして江東を制圧していったのでしょうか。演義では小覇王といわれた孫策の江東平定をみていきましょう。
虎牢関の戦いとも呼ばれる「陽人の戦い」。袁紹ら諸将は、暴君・董卓への反乱を起こします。悪を征することは美徳とされていますが、この戦後をご存知でしょうか?三国志を飾る戦いの1つを、史実ベースでご紹介します。
辺境の一太守に過ぎない「王朗」。もし彼が天下を統一するとしたらどのような道筋を辿ればいいのか考察してみました。王朗の天下統一は可能なのでしょうか。
三国志の中でも悪役といわれるのが袁術(公路)です。三国志の初期から登場し、名門袁家の出身で多くの兵を持ちながら天下を手にすることができませんでした。それでも曹操(孟徳)や劉備(玄徳)、孫堅(文台)、董卓(仲穎)といった権力者たちに与えた影響力は大きいものでした。そんな袁術はどのような人物かみていきましょう。
三国志・もし袁術が孫策をしっかり統率できていたら歴史はどうなったのか?
名門・汝南袁氏の出身で、皇帝まで自称した「袁術」。もし配下である孫策に離反されなければどうなっていたのか、予想してみました。