袁術の皇位僭称
■ 袁術の皇位僭称
袁術の皇位僭称
197年の正月に寿春に本拠地を置く袁術は皇帝を僭称しました。一種の予言書である「讖緯」を都合のいいように解釈したのです。「漢に代わる者は、当塗高なり」という一文をピックアップしてきて、袁術公路の「術」と「路」はともに「塗」と同義であるため、当塗高とは自分のことであると主張しました。
王朝創始と讖緯思想は密接に結びついているので、このやり方が間違っているとはいえないのですが、納得した人がどのくらいいたのかは不明です。ちなみに漢を亡ぼすのは「魏」になりますが、魏には高いという意味があり、当塗高とは魏のことであるという説が主流となっています。当時は曹操が許都に献帝を迎えたばかりで、漢王朝の滅亡まで突出した考え方をしていた人物は少なかったのではないでしょうか。
袁術配下の主力・紀霊
■ 袁術配下の主力・紀霊
袁術配下の主力・紀霊
この群雄割拠の時代に皇帝を僭称するぐらいですから袁術は名声だけでなく、軍事力にもよっぽど自信を持っていたのでしょう。配下の孫策が順調に揚州南部を平定し、領地を拡大していたことも袁術を増長させた要因なのかもしれません。しかし、曹操に懸賞金をかけられ滅亡していく袁術については「三国志正史」「三国志演義」ともに評価が低く、配下の家臣の活躍もほとんど省略されています。袁術については悪名だけが残ったといっても過言ではないでしょう。
そんな中で猛将・名将の類に含まれるのが紀霊です。三国志演義では三尖刀の使い手で関羽と30合も打ち合って引き分けている剛の者です。袁術配下から孫策一派を除いたときに、真っ先に名前が登場してくるのが紀霊ではないでしょうか。3万の兵を率いて小沛の劉備(玄徳)を攻めますが、呂布が仲裁に入り、離れた場所に立てた戟目がけて放った矢が一発で命中することで戦闘を中止させられます。呂布が邪魔しなければ紀霊は劉備(玄徳)を討ち滅ぼすという武功をあげたかもしれません。三国志演義では最期、張飛と一騎打ちを演じて討たれています。
袁術配下の大将軍
■ 袁術配下の大将軍
袁術配下の大将軍
袁術の配下で大将軍に任じられた人物は二人います。どちらもともに193年のことになります。袁術が寿春を占拠した後のことです。大将軍に任じられたのは張勲と橋蕤になります。多くの武将の中から選出されたのですからひとかどの将軍だったと思われますが、活躍ぶりはほとんど残っていません。記されているのは曹操軍や呂布軍相手に敗戦を重ねた部分ばかりです。袁術が呂布や曹操を亡ぼし、袁紹と直接ぶつかり合うくらいまでいっていれば張勲や橋蕤の凄さもしっかりと記録されていたことでしょう。どれほどの実力を持っていたのか未知数です。両者にいえることは最期まで袁術を裏切ることなく、仕えたということでしょう。忠義の士であったことは間違いありません。
袁術を裏切った盧江太守
■ 袁術を裏切った盧江太守
袁術を裏切った盧江太守
曹操とも交流があり、袁術にも重用された人物に劉勲がいます。袁術が死ぬとすぐに離反し、袁術の一族を捕縛、張勲や楊弘といった袁術の遺臣らも捕らえてその兵を吸収しています。なかなかの狡猾ぶりです。しかし孫策の計略にかかり、本拠地を失い、曹操を頼って落ち延びています。曹操は旧友を迎い入れていますが、その狡猾な性格が災いし、最期は逮捕されて処刑されています。
袁術配下には皇帝を僭称したことで主君である袁術を見限り、独立したり離反して敵に回ったりという人物が多いです。孫策、劉勲をはじめ、雷薄や陳蘭もそうですし、楊奉や韓暹も該当します。そんなこともあり、袁術にはカリスマ性や人徳がなかったという評価になったのでしょう。袁術自身も進退窮まり、皇帝の称号を袁紹に送り、青州を支配する袁紹の長子・袁譚を頼って北上しますが、病を発し、孤独な中で亡くなっています。三国志演義では「蜜の入った水が飲みたい」と周囲に嘆願しますが、「血の水しかありません」という反応しかなかったと記されています。そして1斗に及ぶ血を吐いて絶命するのです。まさに「盛者必衰」を表すシーンです。
最期まで袁術と共に戦った武将たち
■ 最期まで袁術と共に戦った武将たち
最期まで袁術と共に戦った武将たち
離反者も多く出ていますが、最後まで命をかけて戦った武将たちもいます。九江太守に任じられていた陳紀、三国志演義では楊大将と記載されている楊弘、三国志演義では梁剛と記されている梁綱、そして曹操軍に生け捕りにされて斬首される李豊、三国志正史では于禁に討たれている楽就といったところでしょうか。それぞれきっと特徴のある武勇優れた武将だったはずですが、まったく記録が残っていないため、後世の評価は低く、三国志のゲームなどでは能力値の低い武将として登場しています。記録が残されていない以上、この評価を覆すことは難しいのですが、もしかすると張遼や関羽らともいい勝負ができる名将だったかもしれません。
まとめ・最もマイナーな武将は誰なのか
■ まとめ・最もマイナーな武将は誰なのか
まとめ・最もマイナーな武将は誰なのか
さて、ここまで登場してきた武将以外で袁術の家臣の名前が出てくるでしょうか。文官でいくと魯粛や閻象、韓胤、劉曄などがいますし、一族であれば息子の袁耀や従弟の袁胤などがいますね。それ以外ではどうでしょうか。ここで名前が出てくる人はかなりの三国志マニアといえるでしょう。
実は三国志演義にだけ登場する袁術配下の武将がいるのです。一瞬だけの登場なので、私は袁術配下の武将で最もマイナーなのはこの人物だと思います。ヒントは反董卓連合との戦いの序盤です。董卓配下の猛将・華雄と戦った武将です。
正解は「兪渉」になります。聞き覚えはありますか。字も不明、出身も不明です。三国志演義では反董卓連合の本陣に迫って挑発を繰り返す華雄に対し、盟主の袁紹が誰を向けるかと尋ねたところ、真っ先に名乗り出たのが袁術配下の兪渉でした。かなり積極的な性格ですし、武勇にも自信があったのでしょう。袁術も止める様子はありませんでした。しかし2、3合打ち合っただけであっさりと討たれてしまいます。華雄とは格がまったく違ったということですね。その後は韓馥の家臣・藩鳳も立ち向かっていますが討たれています。そして関羽が登場し、逆にあっさりと華雄の首を討つのです。これらは完全に三国志演義の創作です。華雄と関羽は戦ってもいませんし、華雄を討ったのは孫堅軍になります。