王朗の若き頃
■ 王朗の若き頃
王朗の若き頃
王朗、字は景興。徐州東海郡の出身です。朝廷に招聘されて郎中を務めていましたが、劉繇、趙昱、臧洪らとともに司徒府に呼び出され、袁術や袁紹の叔父である司徒・袁隗によって地方新興のために県令に任じられました。俸禄が倍になりますからかなりの出世です。王朗は故郷である徐州の彭城国菑丘県の県令となりました。しかし県令を統括する国相は宦官の親族に独占されており、赴任してすぐに学問の師・楊賜が亡くなったことを名目にして官を辞しています。正義感に燃える王朗の一面を示したエピソードです。
王朗について陳寿は「三国志正史」で、学識と文才を高く評価しています。王沈は「魏書」において、厳格で謙虚、施しをよくして、弱者を哀れまない強者を批判したと記しています。王沈もまた王朗の学識の深さと文才はずば抜けていると評価しました。王朗は後年、魏において司空や司徒を歴任していますが、やはりその器量は間違いなくあったということです。曹操だけでなく曹丕、曹叡にも認められています。
会稽太守となる
■ 会稽太守となる
会稽太守となる
県令を辞した王朗でしたが、その後、徐州の刺史である陶謙に招かれて治中に任じられています。時は董卓が朝廷を牛耳り、反董卓連合を結成した混迷の時期です。王朗は、勤王の志を明らかにするためにも朝廷に貢ぎ物をすべきだと陶謙に進言します。その使者となった王朗は193年に揚州の会稽郡の太守に任じられました。王朗は慈愛に満ちた治世を行ったそうです。中央からも遠いこの地は、戦乱に巻き込まれることもありませんでした。しかし、この揚州南部の支配を狙う群雄が現れます。寿春に本拠地を持つ袁術です。袁術は孫策を総大将に任じて揚州の平定を実行に移します。曲阿に本陣を置いた揚州の刺史、劉繇は孫策の侵攻を抑えることができずに壊滅しました。孫策が次に目を向けたのは会稽郡でした。
歴史If、王朗の逆襲
■ 歴史If、王朗の逆襲
歴史If、王朗の逆襲
この時点で周昕の協力を受けて孫策と戦うことになりますが、当然のように敗北。退却し体勢を立て直して再度戦うも敗北して降伏します。そう考えると王朗が天下を統一するためには、孫策が江東に侵攻してくる前にできる限りの準備を進めておかなければなりません。江東の勢力をすべてまとめるのです。
呉郡の太守である許貢や呉郡の豪族である厳虎(三国志演義では厳白虎)、丹陽郡の太守である周昕、そして揚州刺史である劉繇らをまとめて王朗がそのリーダーとなるのです。劉繇とは若い頃からの付き合いがありますので、一致団結して袁術打倒を目指すことは難しくないのではないでしょうか。また劉繇の家臣には武勇において孫策に匹敵する太史慈がいます。太史慈を中心に軍事面を整備、強化していかなければなりません。195年には孫策が曲阿に侵攻してくるので、王朗は193年から195年をいかに充実したものにできるかが挽回のポイントになります。
歴史If、外交政策
■ 歴史If、外交政策
歴史If、外交政策
この時期を見ていくと、193年4月には兗州牧の曹操が徐州に侵攻しています。徐州大虐殺が起こるタイミングです。194年4月には兗州の留守を託されている陳留郡太守・張邈が曹操を裏切り呂布と共に反乱を起こしました。12月には陶謙が病没し、徐州牧に劉備(玄徳)が任じられることになります。この間にも袁術の揚州への侵攻は行われています。問題はそれを孫策に託すまでに何ができるのかです。
外交政策としては荊州刺史の劉表と手を結ぶことが重要になります。劉表は袁術と敵対する冀州牧の袁紹と結んでいます。さらに盧江郡太守の陸康との外交も不可欠です。194年には袁術は孫策を盧江郡に出兵させ、195年には陥落させます。できればこの194年の時点で揚州南部の軍勢を集めて盧江郡の救出に向かい、兵の少ない孫策を撃退します。さらに劉表と協力して寿春を攻めて袁術を揚州から追い出すのです。隣州の徐州、兗州は他を気にする余裕などないほど混乱していますから、援軍の期待もできない袁術は撃退できるはずです。しかし、厳しい状況であっても徐州は袁術を助けるかもしれません。
問題は王朗の主君関係にある徐州の陶謙が袁術と結んでいることです。そこに公孫瓚も絡んでいます。だから劉備(玄徳)は陶謙の援軍となるわけです。つまり大虐殺が行われた後とはいえ、袁術を攻めると陶謙の命令のもとに劉備(玄徳)が敵の援軍となりえる可能性があります。配下には猛将の関羽・張飛もいます。王朗としては陶謙との関係を断ってからの寿春攻めとなるでしょう。袁術の大軍+孫策+劉備(玄徳)に対し、王朗は劉繇らの揚州勢+劉表+陸康という構図になりますね。王朗が天下を統一するためにはこの戦いに勝たねばならないのです。かなり熾烈な戦いとなることが予想されます。
歴史If、袁術撃退後
■ 歴史If、袁術撃退後
歴史If、袁術撃退後
何とか寿春から袁術を追い出したら、これで揚州は統一となります。州府を寿春に置くことも可能です。こちらもかなりの損害を受けていることでしょう。兗州は曹操と呂布の戦いが続いており、決着がつくのは195年5月です。呂布は徐州の劉備(玄徳)を頼って落ち延びていきます。できればここで王朗としては徐州を攻めて劉備(玄徳)と呂布を降したいですね。劉表、曹操、袁紹の協力は得られるでしょう。袁術の配下だった黄蓋や程普、紀霊あたりを軍営に加えられていたら戦局はかなり有利になります。孫策と周瑜も配下にできていたら鬼に金棒ですね。揚州に続き、徐州も手にすることができたら、曹操の勢力は圧倒できます。196年には曹操よりも早く献帝の身柄を保護し、寿春に遷都することで王朗の名声はますます高まることになります。
まとめ、曹操➡袁紹➡劉表
■ まとめ、曹操➡袁紹➡劉表
まとめ、曹操➡袁紹➡劉表
この後は、袁紹と劉表と共に曹操を攻めて亡ぼします。献帝を保護していれば曹操配下の荀彧なども王朗の陣営に加入することになるでしょう。さらに劉表と協力し、黄河のラインで袁紹と激突。官渡の戦いの再現となりますね。ここまででどこまで優秀な人材を得られているかで戦局は変わります。袁紹を撃退し、河北を統一。その後は劉表の死後の荊州を攻めてこれで天下の形勢はほぼ確定です。揚州では魯粛、陸遜、張昭、呂蒙なども加わり人材面でもかなり充実してきます。あとは長江を遡り益州を平定、最後に雍州や涼州を平定すればこれで完了、天下統一です。
ということで、今回は「もしも王朗が天下を統一するとしたら」について考察してみました。